第12話 皇弟殿下、記録なさいますか
帝国使節団の客館は、王宮の中にありながら、王宮とは違う空気を持っていた。
飾りが少ない。
花も少ない。
廊下にはパルマティア帝国の軍人と書記官が静かに行き来し、誰も無駄に声を張らない。
メレン王宮の者は沈黙で隠し事をするが、帝国の者は沈黙で仕事をしている。似ているようで、だいぶ違う。
オーレリアが客館を訪れたのは、審問の翌日だった。
目的は、帝国語教師の記録と、過去に帝国使節歓迎式で交わされた挨拶文の照合である。
王宮記録室にも写しはある。
しかし、王宮の写しだけに頼るのは危険だった。
ヨハンはすでに、閲覧停止の通達を出している。
次に何を止めるか知れたものではない。
客館の一室で、アレクサンデルは本を読んでいた。
正確には、読んでいるように見えた。
だが、机の上には報告書が広げられ、傍らの茶は冷めていた。
彼は働いている時ほど、働いていない顔をするらしい。
「クラウゼンベルク嬢」
アレクサンデルは本を閉じた。
「ようこそ。帝国使節団の退屈な巣へ」
「巣のわりに整っていますね。鳥より書記官が多いからでしょうか」
「書記官は鳥より巣を汚しません。ただし紙を増やします」
「それは歓迎すべき性質です」
「あなたならそう言うと思いました」
部屋の奥には、大きな机があった。
そこに数人の帝国書記官が控えている。
彼らはオーレリアを見ると、無言で礼をした。
礼儀はあるが、好奇心を隠しきれていない。
アレクサンデルは書記官の一人に合図した。
「三年前の帝国使節歓迎式に関する記録を」
「はい」
書記官が書類箱を運んできた。
オーレリアはそれを見て、少しだけ目を細めた。
「準備がよろしいのですね」
「必要になると思いました」
「親切ですか、観察ですか」
「怠惰です」
「は?」
「後で慌てて探す方が面倒ですから」
オーレリアは、言葉を返しかけてやめた。
妙に筋が通っていた。
彼女は椅子に座り、帝国側の記録に目を通した。
三年前の歓迎式。
王太子アルベルトの挨拶。
実際に話された帝国語の短文。
その下に、帝国側書記官の注記があった。
発音に難あり。
事前準備の痕跡あり。
草案作成者は王太子本人に非ずと推定。
オーレリアは無言でその箇所を見た。
アレクサンデルが横から言った。
「帝国の書記官は、愛想がありません」
「ええ。正確で好ましいです」
「草案作成者はあなたですね」
「でしょうね。殿下は当日、私の書いた文を三箇所間違えました」
「帝国側記録では二箇所です」
「一箇所は間違えたことに気づかれなかっただけです。幸福な誤診ですね」
「あなたは医師に向いていそうだ」
「人間の悪癖を切開する仕事なら、すでにしております」
アレクサンデルは、微かに笑った。
書記官の一人が、目を伏せた。笑いを堪えたのだろう。
帝国書記官にも血は通っているらしい。
しばらく二人は、黙って記録を確認した。
雨上がりの光が窓から入る。机の上の紙が白く浮かび、インクの黒がくっきりと見えた。
外の庭には、王宮の薔薇より小ぶりな花が植えられている。
帝国使節団が持ち込んだ鉢植えだろうか。
華やかさはないが、丈夫そうだった。
「皇弟殿下」
オーレリアが言った。
「この記録を、司教座へ提出しても?」
「写しなら」
「原本を出せとは申しません。帝国をそこまで愚かとは思っていません」
「光栄です。最上級の賛辞に聞こえます」
「最上級に聞こえるなら、耳鼻科が必要です」
「耳鼻科?」
「耳と鼻を見る医者です。たぶん、帝国にも似た役目の者はいるでしょう」
「いるでしょうね。私はかかりたくありませんが」
彼は書記官に複写を命じた。
手際は早かった。
羊皮紙が並べられ、墨が用意され、帝国印の確認欄が整えられる。メレン王宮の記録係とは違う、軍の補給のような無駄のなさだった。
オーレリアはその様子を見ていた。
アレクサンデルが、隣で静かに言った。
「あなたは、帝国を警戒している」
「警戒しない理由がありません」
「正しい」
「認めるのですね」
「帝国を警戒しない人間は、交渉に向きません」
「では、私を試しているのですか」
「いいえ。もう結果は出ています」
オーレリアは彼を見た。
「不愉快なことを、穏やかな顔でおっしゃるのが得意ですね」
「家系です」
「皇帝陛下も?」
「兄上は、穏やかな顔を省略します」
その答えは、少しだけ兄弟の距離を感じさせた。
オーレリアは、前から気になっていたことを聞いた。
「皇帝陛下は、この件をどうご覧になるでしょう」
「利用できる失態だと見るでしょう」
即答だった。
「隠しませんね」
「隠すには、あなたが相手では不経済です」
「帝国は、メレン王国を弱体化させたいのですか」
「強すぎる隣国は困ります。弱すぎる隣国も困ります。扱いやすく、約束を守り、国境を安定させる隣国が望ましい」
「メレン王国は、扱いにくくなりましたか」
「王太子殿下が、扱いにくい材料を増やしました」
「殿下の恋愛は、帝国にとって通商条件の一部なのですね」
「恋愛そのものは違います。ですが、恋愛を理由に誓約を破る次期国王なら、通商条件に影響します」
オーレリアは、しばらく黙った。
その沈黙を、アレクサンデルは急かさなかった。
彼のそういうところが、少し困る。王太子は、彼女の沈黙を不機嫌と呼んだ。父は、耐えていると呼んだ。ヨハンは、何かを隠していると見た。アレクサンデルは、ただ沈黙のまま置いておく。
「皇弟殿下」
「はい」
「あなたは、私を哀れんでいませんね」
「哀れまれたいのですか」
「いいえ」
「では、問題ありません」
「普通は、少し慰めるところです」
「あなたは普通の慰めを嫌うでしょう」
「試してもいないのに」
「試すには、命が惜しい」
オーレリアは、思わず目を細めた。
「臆病なのですね」
「とても。臆病者は長生きします」
「帝国皇弟として、それはどうなのです」
「兄に言わせれば、私の数少ない長所だそうです」
「皇帝陛下は、弟君に辛辣でいらっしゃる」
「仲が良い証拠です」
その言い方に、少しだけ柔らかさがあった。
オーレリアは、レオンハルト皇帝をまだ見たことがない。だが噂は聞いている。若く、美しく、苛烈で、旧門閥貴族を容赦なく削った皇帝。彼に対して、アレクサンデルは兄と呼ぶ。その響きだけは、政治より少し人間に近かった。
「クラウゼンベルク嬢」
「はい」
「あなたは、王国を恨んでいますか」
オーレリアは書類から目を上げた。
唐突な問いではなかった。だが、まっすぐだった。
「王国を恨むほど、私は詩人ではありません」
「詩人?」
「対象を大きくしすぎると、感情は美しく見えます。私はそこまで器用ではない。恨むなら、もっと具体的に恨みます」
「たとえば」
「殿下の浅慮。ヨハン卿の隠蔽。国王陛下の沈黙。父の遅すぎる理解」
「ご自分は?」
オーレリアは、答えなかった。
アレクサンデルも、そこで踏み込まなかった。
沈黙が少しだけ長くなる。
やがて、オーレリアは言った。
「私は、間違えたかもしれません」
「何を」
「耐えれば、いつか意味が生まれると思っていたことです」
窓の外で、雨の残りが葉から落ちた。
アレクサンデルは、静かに言った。
「耐えたことに意味がなかったとは思いません」
「慰めですか」
「いいえ。事実です。あなたが耐えて準備したから、今、王太子殿下の失態を証明できる」
「最低の用途ですね」
「役に立つ用途です」
オーレリアは、少しだけ笑った。
「慰めがお下手ですね」
「改善の余地はあります」
「努力なさる?」
「できれば避けたい」
「誠実な怠慢」
「あなたにそう呼ばれるなら、悪くありません」
複写が終わった。
帝国書記官が書類を整え、封をした。アレクサンデルが確認の印を押す。押された印は小さいが、重い。パルマティア帝国の皇弟印である。
オーレリアは、それを受け取った。
「借りができました」
「そう思うなら、いつか返してください」
「何をお望みで?」
「今は特に」
「欲のない方ですね」
「欲がないのではありません。言う時を選んでいるだけです」
オーレリアは、わずかに眉を上げた。
「それは、警戒すべき発言です」
「正しい反応です」
「皇弟殿下」
「はい」
「あなたは面倒な方ですね」
「よく言われます」
「でしょうね」
彼女は一礼して、客館を後にした。
廊下へ出ると、空気が少し冷たかった。王宮の中なのに、客館の扉を一つ越えるだけで、別の国から戻ったような気がした。
書類の重さが手に残っている。
借り。
投資。
余白。
アレクサンデルの言葉は、どれも曖昧なようで、逃げ場を残している。
だから危険だった。
逃げ場を残されると、人はそこへ行くかどうかを自分で選ばなくてはならない。
オーレリアは歩きながら、心の中でその男の名を一度だけ呼んだ。
アレクサンデル・フォン・ゲルンテンシュテルン。
帝国皇弟。
怠惰な顔をした、面倒な証人。
今はそれで十分だった。
たぶん。




