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第4話 合意解消書

 クラウゼンベルク家の応接室は、訪問者を歓迎するためではなく、相手の身分を測るために作られていた。


 壁には先祖の肖像が並び、暖炉の上には古い剣が飾られている。

 刀身は磨かれているが、装飾は少ない。

 クラウゼンベルク家の者は、見せるための刃を好まない。

 抜くべき時に抜けるものだけを、長く残してきた家である。


 ヨハン・フォン・ライヒェナウは、その部屋の中央で立っていた。


 背は高くない。だが、姿勢はよい。

 淡い栗色の髪を後ろへ撫でつけ、濃紺の上着には王太子府の徽章がついている。

 顔立ちは整っているが、印象として残るのは目であった。

 冷たくはない。

 むしろ柔らかい。

 相手に、自分は理性的で、話の通じる人間だと思わせる目である。


 その種類の目を、オーレリアは信用していなかった。


 人は、牙を見せる狼より、微笑む狐に納屋を荒らされる。


「ご足労いただき、痛み入ります。ライヒェナウ卿」


 オーレリアは礼をした。


 ヨハンもまた、過不足のない礼で返す。


「こちらこそ、お時間をいただき感謝いたします。オーレリア様」


「よろしいのですか」


「何がでしょう」


「私の名をお呼びになって。王太子府の方針では、私はすでに不要になった備品のような扱いかと思っておりました」


 ヨハンの表情は動かなかった。


「殿下のお言葉は、昨夜、少々感情が先に立ったものです」


「少々。便利な副詞ですね。王宮の大広間で堂々と婚約を破棄し、名誉を傷つけ、男爵令嬢を伴って真実の愛を宣言しても、少々で済む。今後、火災も少々の暖房と呼べそうです」


「オーレリア」


 クラウゼンベルク公が低くたしなめた。


 彼も同席していた。

 だが今日の主導権は、明らかに娘にある。

 父自身も、それをわかっているのだろう。

 深く椅子に座り、目だけで場を見ていた。


 ヨハンは、ゆっくりと鞄から一通の書類を取り出した。


「率直に申し上げます。昨夜の件は、王家にとっても、クラウゼンベルク公爵家にとっても、望ましい形ではございませんでした」


「望ましい形で婚約破棄をされる趣味はありませんが、続けてください」


「ですので、王太子府としては、双方の名誉を守る形で処理したいと考えております」


 処理。


 その言葉に、オーレリアは微かに眉を上げた。


「こちらが、そのための草案です」


 ヨハンは文書を卓上に置いた。


 上質な紙であった。

 王太子府の封蝋はまだ押されていない。

 あくまで草案という体裁である。

 だが文面は整っていた。

 整いすぎていた。

 昨夜の出来事を、一夜でここまで美しく葬るとは、さすが王太子の愚行に文法と封蝋を与える男である。


 オーレリアは、文書を手に取った。


 数行読むだけで、彼女は内容を理解した。


「なるほど」


 ヨハンがわずかに身を乗り出した。


「ご理解いただけましたか」


「はい。あなたが私を馬鹿にしていることは、たいへんよく」


 応接室に沈黙が落ちた。


 ヨハンの目が、ほんのわずか細くなる。


「そのような意図はございません」


「意図はなくとも、結果は同じです。毒を盛る者が、殺意はなかったと言えば胃腸が納得するわけではありません」


 オーレリアは文書を卓へ戻した。


「この草案では、昨夜の婚約破棄は『双方の熟慮と合意により、将来の不和を避けるため婚約を解消する』となっています」


「はい。双方の名誉を守るためには、それが最善かと」


「王太子殿下の名誉を守るには、でしょう」


「クラウゼンベルク家にとっても、王家と争うことは得策ではありません」


「得策かどうかは、こちらで判断します。次に、私が婚約解消を受け入れ、今後、王太子殿下および王太子府に対し、名誉上、財産上の請求を行わない、とある」


「大事にしないという意思表示です」


「違います。私に泣き寝入りの署名をさせる文です」


 クラウゼンベルク公が身じろぎした。


 ヨハンは落ち着いていた。


「泣き寝入りなどと。あくまで穏便な解決です」


「あなた方が殴り、こちらが頬を隠す。それを穏便と呼ぶなら、辞書の編纂者は宮廷に雇われるべきですね」


「王家の威信が傷つけば、王国全体に影響します」


「王家の威信を傷つけたのは、王太子殿下です。私は傷口を数えているだけ」


「時には、数えないことも忠誠です」


 オーレリアは笑った。


 今度は、はっきりと。


「ライヒェナウ卿。忠誠とは、王家の失敗を無料で包む布のことではありません」


 ヨハンの指が、膝の上で一度だけ動いた。


 彼は微笑んだままだった。だが、その微笑みは先ほどより薄い。


「では、クラウゼンベルク公爵家は、王太子殿下の有責を正式に問うおつもりですか」


「問うかどうかを決めるために、手続きへ入るのです」


「言葉遊びをなさる」


「言葉を粗末にする方が、昨夜何をなさったかご覧にならなかったのですか」


 ヨハンは沈黙した。


 オーレリアは文書を指で押さえた。


「第一に、昨夜の発言が消されています。第二に、ミリア嬢の存在が消されています。第三に、王太子殿下が私を公衆の面前で侮辱した事実が消されています。第四に、王家が命じた王太子妃教育に関する費用と責任が消されています。第五に、私が自発的に身を引いたように書かれています」


「それは、あなた様の名誉を守るためでもあります」


「私が捨てられたのではなく、自分から身を引いたことにすれば、名誉が守られると?」


「世間は、そう見るでしょう」


「世間の視力はずいぶん悪いのですね。眼鏡を配るべきです」


 クラウゼンベルク公が小さく息を吐いた。叱責ではない。半ば呆れ、半ば諦めであった。


 ヨハンは、今度は父の方を向いた。


「公爵閣下。王家と公爵家の長き関係を思えば、ここは一度、冷静にお考えいただきたい。王太子殿下は若く、情に動かされた。もちろん、言葉に行き過ぎはありました。しかし、それを公に争えば、王家のみならず公爵家にも傷がつきます」


 父は何も言わなかった。


 ヨハンは続ける。


「オーレリア様ほどの方なら、いずれ別の良縁もございましょう。ここで王家と激しく争われることは、その将来にも影を落とします」


「ご親切に、私の再就職先まで心配してくださるのね」


 オーレリアが言った。


「感謝感激です。あとは花束と推薦状でもいただければ完璧」


「オーレリア様」


 ヨハンの声が少しだけ低くなった。


「私はあなたの敵ではありません」


「では味方ですか」


「現実的な解決を提案しているのです」


「現実という言葉も、便利ですね。たいてい、弱い者にだけ突きつけられる」


「あなたは弱くない」


「だから従えと?」


 ヨハンは答えなかった。


 オーレリアは文書を畳み、ヨハンの前へ押し戻した。


「署名はいたしません」


「それが公爵家の総意と受け取ってよろしいですか」


 父に向けた言葉だった。


 クラウゼンベルク公は、娘を見た。


 オーレリアは父を見返さなかった。

 彼に助けを求めるつもりはなかった。

 求めて差し出されない手なら、最初からない方がよい。


 だが父は、ゆっくりと言った。


「少なくとも、この文書に署名するつもりはない」


 ヨハンの顔から、初めて穏やかさが消えた。


「閣下。それは王家との対立を意味します」


「違う」


 父の声は静かだった。


「王家との対立を作ったのは、王太子殿下だ。我が家は、事実の確認を求める」


 オーレリアは、ようやく父を見た。


 父は彼女を見ていなかった。

 ヨハンを見ていた。

 だがその横顔に、先ほど書庫で見た迷いは少なかった。


 ヨハンは、薄く息を吸った。


「では、王太子府としても、相応の対応を取らざるを得ません」


「どうぞ」


 オーレリアは答えた。


「ただし、対応には署名者と日付をお忘れなく。後で記録を照合しやすくなりますので」


 ヨハンは文書を鞄へ戻した。


 立ち上がると、礼をする。その礼はなお美しかった。美しい礼で人を刺せる者は、宮廷で長く生きる。


「本日は、失礼いたしました」


「いえ。紙の無駄遣いとしては、なかなか見事でした」


 ヨハンは返事をせず、部屋を出ていった。


 扉が閉まると、しばらく誰も話さなかった。


 やがて父が言った。


「お前は、敵を増やすのがうまいな」


「父上は、敵を敵と呼ぶのが遅い」


「王家は敵ではない」


「では、王家の失敗は?」


 父はまた黙った。


 オーレリアは卓上に残された茶に目を落とした。冷めている。湯気を失った茶は、鏡のように暗い。


「父上」


「何だ」


「今から、王宮記録室に残る文書の写しを取り寄せます。司教座にも婚約誓約の確認を求めます。教師たちにも証言を依頼します」


「早すぎる」


「向こうは今日、合意解消書を持ってきました。遅すぎるくらいです」


「ヨハンは、噂を使う」


「でしょうね」


「お前を冷たい女にする」


「元から温室育ちの薔薇ではありません」


「ミリア嬢を、純愛の被害者にする」


「なら私は、純愛の請求書を作ります」


 父は疲れたように額を押さえた。


 けれど、今度は止めなかった。


 午後、王宮の社交界には早くも噂が流れ始めた。


 オーレリアは王太子を金で縛っていた。


 王太子は冷たい婚約者に苦しんでいた。


 ミリアは身分差に苦しみながらも、真実の愛を貫いた。


 クラウゼンベルク家は王家を脅している。


 噂は、花粉よりも軽く、病よりも早く広がる。


 だがオーレリアは、窓辺に立ってその報告を聞くと、ただ頷いた。


「出所を追って」


「反論はなさらないのですか」


 侍女が尋ねた。


「噂と喧嘩をしても、相手は顔を出さないわ」


 オーレリアは、机の上の文書を一枚手に取った。


「顔を出させてから殴ります。比喩として」


 春の陽は傾きはじめていた。


 切られた薔薇は萎れる。

 だが紙は、正しく保管されれば百年後にも残る。


 オーレリアは、噂より紙を信じた。

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