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第3話 クラウゼンベルクの記録

 クラウゼンベルク公爵家の朝は、王太子府よりも暗かった。


 別に陽が差さないわけではない。

 屋敷の東側には広い窓があり、庭には白樺と古い石造りの噴水がある。

 春の朝には、そこへ明るい光が降りる。

 だが、屋敷の中を歩く使用人たちの足音は低く、声は少なく、銀器の触れ合う音さえ遠慮がちだった。


 誰も昨夜のことを口にしない。


 口にしないことで、かえって屋敷中がその話をしていた。


 オーレリアは朝食を半分ほど残し、書庫へ入った。


 クラウゼンベルク家の書庫は、城の小礼拝堂よりも静かであった。

 壁一面に羊皮紙と綴じ本が並び、古い樫の机が中央に置かれている。

 彼女は幼い頃、この机を大きな島のように思っていた。

 周囲の本棚は海で、彼女はその島に一人、取り残された小さな漂流者だった。


 今では、その島は作業台である。


「王太子妃教育に関する書類を、年度ごとに分けて。王家印のあるものを最優先。写しではなく原本を」


 オーレリアが言うと、侍女たちが黙って動いた。


「贈答品目録は?」


「こちらに」


「婚約式の司教署名入り証書」


「公爵閣下の金庫から取り寄せ中です」


「王家行事への出席命令書」


「三年分はすでに」


「少ないわね」


「王宮の記録室に残りがあるかと」


「あるでしょうね。燃やされていなければ」


 侍女の一人が顔を上げた。


 オーレリアは肩をすくめた。


「冗談よ。まだ燃やすほど頭は回っていないでしょう。王太子殿下の周囲は」


「まだ、ですか」


「希望を持つのは危険よ」


 机の上には、次々と文書が積まれていった。


 王家からの王太子妃教育命令書。

 礼法教師への支払記録。

 外交語教師の証明書。

 宮廷行事の衣装仕立て費。

 遠方の大使を迎える際、王太子の隣に立つために用意された宝飾品の目録。

 婚礼準備に関する覚書。

 王太子府から回され、オーレリアが確認した接遇文案。


 紙は無口だ。


 だが無口であるからこそ、気まぐれな人間より信用できる。


 昼前、クラウゼンベルク公が書庫へ入ってきた。


 父は背の高い男だった。

 白髪が混じり始めているが、姿勢はまだ崩れていない。

 深い灰色の上着を着ており、その胸には公爵家の徽章がある。

 オーレリアが幼い頃、父は王国そのもののように大きく見えた。


 今は、疲れた一人の男に見えた。


「オーレリア」


「おはようございます、父上」


「もう昼に近い」


「では、こんにちは。時間の訂正で事態が改善するなら、他にも直しますが」


 父は眉をひそめた。


「その言い方はやめなさい」


「殿下からも似たような苦情をいただきました。流行しているのですか」


「昨夜の話をしている」


「私もです」


 父は机の上に積まれた書類を見た。


「これは」


「王太子妃教育に関する記録です。殿下が昨夜、気分よく壊されたものの残骸とも言えます」


「オーレリア」


 父の声が少し強くなった。


「言葉を選びなさい」


「選んでいます。まだだいぶ穏当です」


 沈黙が落ちた。


 窓の外で、鳥が鳴いた。

 春の鳥は、他人の不幸に関心がない。

 それは美徳かもしれない。


 父は椅子に腰を下ろした。


「国王陛下から、内々に使者が来た」


「早いですね。ヨハン様の方が先かと思いました」


「王家は、事を大きくしたくない意向だ」


「王家が事を大きくしておいて?」


「殿下は若い」


「私は老いておりますか」


「そういう意味ではない」


「では、どういう意味です」


 父は答えなかった。


 答えられないとき、人は沈黙を慎重と呼ぶ。便利な言葉だ。


「陛下は、正式な抗議を控えてほしいと?」


「少なくとも、今すぐには」


「理由は」


「王家の威信だ」


 オーレリアは少し笑った。


 笑い声は出なかった。喉の奥で、冷えたものが動いただけだった。


「王家の威信。便利ですね。人の名誉を包む布にも、失敗を隠す幕にもなる」


「オーレリア」


「父上は、どうお考えですか」


 父は指を組んだ。


 その手は大きかった。

 幼い頃、オーレリアはその手に引かれて王宮の廊下を歩いた。

 王太子妃になるのだと言われた。

 クラウゼンベルク家のため、王国のため、お前ならできる、と。


 お前ならできる。


 その言葉は褒め言葉であり、鎖でもあった。


「私は、王家と争うことを望まない」


「でしょうね」


「我が家は代々、メレン王家に仕えてきた。国境を守り、兵を出し、財を出してきた。王家との結合は、我が家にとっても王国にとっても重い」


「その結合を切ったのは殿下です」


「わかっている」


「いいえ、父上はわかっておられません」


 オーレリアは立ち上がった。


「殿下が昨夜なさったのは、私を捨てることではありません。クラウゼンベルク家との誓約を、公衆の前で軽んじることです。そして王家は今、それを私の沈黙で処理しようとしている」


「処理などと」


「他に何と呼べば? 王家の傷を、娘の名誉で塞ぐ外科手術?」


「言い過ぎだ」


「まだ切開もしていません」


 父は顔をしかめた。


 オーレリアは机の上の一枚を取った。王家印のある命令書である。


「これは、王太子妃教育のために、私が帝国語教師を付けるよう命じられた書類です。費用は我が家持ち。こちらは、王太子殿下が外交席で失言なさらぬよう、事前に話題を整理せよという王太子府からの依頼。こちらは、婚礼準備のために北方産の絹を購入した記録。こちらは、王家行事用の宝飾品目録」


 紙を一枚ずつ置いていく。


 静かな音だった。だが、父には鞭のように聞こえたかもしれない。


「これらすべてを、私が勝手に夢見て用意したと?」


「そうは言っていない」


「ならば、王家に命じられた務めです。務めに対して、王家は責任を負います」


「責任は問う。だが、やり方がある」


「父上がおっしゃるやり方とは、王家の面子が傷つかず、クラウゼンベルク家が少しだけ損をし、私はきれいに黙る方法ですか」


「オーレリア」


「私はクラウゼンベルクの娘ですか」


 父は口を閉ざした。


 オーレリアは、父をまっすぐ見た。


「それとも、王家の失敗を包む布ですか」


 書庫の空気が止まった。


 父は何かを言おうとして、やめた。

 彼の顔に浮かんだものは怒りではなかった。

 痛みでもなかった。

 たぶん、初めて見たものを理解しようとする人間の顔だった。


 娘が傷ついている。


 そのあたりまえのことに、今さら気づいた顔である。


「私は……」


 父は低く言った。


「お前なら耐えられると、思っていた」


「ええ。耐久性だけは王家にも父上にも好評です」


「違う」


「何が違うのです」


 父は答えを探した。


 だが、長年使ってきた言葉は、今朝に限って役に立たなかった。

 王国のため。家のため。将来のため。

 どれも正しい。

 正しいが、娘の前に置くには、あまりに冷たかった。


 扉が叩かれた。


 家令が入ってきて、一礼する。


「王太子府より、ヨハン・フォン・ライヒェナウ様がお越しです」


 父が顔を上げる。


 オーレリアは扇を取った。


「予想より早いですね。王太子殿下より、側近の方がまだ事態を愛しているようです」


「会うのか」


「もちろん」


「オーレリア、感情的になるな」


 オーレリアは父を見た。


「ご安心ください。私は感情的になりません」


 そして、扇を静かに開いた。


「感情は、相手が理解できる程度の知性を持つ場合にだけ有効です」


 父は、今度は止めなかった。


 オーレリアは書類の束から、王家印のあるものを三つ選び、侍女に持たせた。

 廊下へ出ると、窓から差す春の光が床に長く伸びていた。


 その光の上を、彼女は歩いた。


 王太子は昨夜、婚約を破棄した。


 ヨハンは今日、それを言葉で包みに来る。


 ならばこちらは、その包み紙を丁寧に剥がしてやればいい。


 中に入っているものが、どれほど醜くても、記録は目を逸らさない。

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