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第2話 有責という言葉をご存じですか

 翌朝の王太子府は、奇妙に明るかった。


 窓は大きく開け放たれ、春の風が絨毯の上をすべった。

 銀の盆には果実が盛られ、茶は温くならぬよう何度も淹れ替えられている。

 王太子アルベルトは、朝食の卓で機嫌よく葡萄をつまんでいた。


 夜会の翌朝にしては、顔色がよい。


 それが、ヨハン・フォン・ライヒェナウには腹立たしかった。


 彼は王太子府の執務室に入ると、まず扉を閉めさせた。

 次に侍従を下がらせ、最後に窓際に立つ護衛の位置まで確認した。

 人は壁に耳があると言うが、宮廷では耳に壁が生えていることもある。


「殿下」


 ヨハンは低く言った。


「昨夜の件について、確認させていただきます」


「確認?」


 アルベルトは葡萄の皮を皿に落とした。


「何を確認する。見ての通りだ。私は偽りの婚約を終わらせた。ミリアとの未来を選んだ。それだけだ」


「それだけでは済みません」


「また始まったな、ヨハン。お前はいつも、愛に水を差す」


「水ならまだよろしい。殿下が昨夜なさったことは、油を撒いた暖炉に蝋燭を投げ込む行為です」


 アルベルトは不快そうに眉を寄せた。


「大げさだ」


「大げさで済むなら、私は今ごろ朝食を取っています」


「取ればいい」


「胃が受けつけません」


 ヨハンは卓上に数枚の書類を置いた。


「昨夜、殿下は王宮薔薇夜会にて、オーレリア・フォン・クラウゼンベルク嬢との婚約破棄を宣言されました」


「その通りだ」


「公衆の面前で」


「堂々としていて良いだろう」


「パルマティア帝国皇弟アレクサンデル殿下の面前で」


「……それがどうした」


 ヨハンは目を閉じた。


 人間というものは、ときに目の前に崖があっても、景色がいいと言い張る。


「殿下。昨夜の場には、王国主要貴族、司教座関係者、帝国使節団、クラウゼンベルク家の縁者がそろっておりました」


「だからこそ意味がある。私は隠れずに真実を示した」


「真実という語は便利ですね。後始末をする者の数を増やしても、発音だけは美しい」


「ヨハン」


 アルベルトの声が硬くなる。


「私は王太子だ」


「存じております。ですから困っているのです」


 ヨハンは一枚目の書類を広げた。


「王太子殿下とクラウゼンベルク公爵令嬢の婚約は、個人間の恋愛約束ではありません。王家とクラウゼンベルク家の婚姻契約です。王太子妃教育、持参金準備、婚礼儀礼、王家行事への参加、外交席次、すべてが付随しています」


「そんなものは、家臣が王家のために用意して当然だ」


「当然であることと、無償で破棄してよいことは別です」


「クラウゼンベルク家は我が王家の臣下だ」


「臣下にも名誉と財産権があります」


「王家に逆らう気か」


 ヨハンは返事をしなかった。


 この王太子は、同じ言葉をそのうち公の場でも言うだろう。

 そのとき、どれだけの貴族が顔色を変えるか。

 想像するだけで、ヨハンのこめかみが痛んだ。


「殿下。昨夜の発言をそのまま放置すれば、クラウゼンベルク家は正式抗議に出ます」


「出せばいい。どうせ父上が抑える」


「陛下が抑えられるのは国内の火だけです。しかも今の火は、帝国使節の靴にまで燃え移っています」


 アルベルトは苛立ったように立ち上がった。


「なぜ帝国が関係する」


「現在、パルマティア帝国とは国境通商協定と傭兵通行権の更新交渉中です。その交渉の前提は、メレン王国の政治的安定です。殿下とクラウゼンベルク家の婚約は、その安定の象徴でした」


「象徴など、どうでもいい」


「どうでもいいものに、帝国は署名しません」


 部屋が静かになった。


 アルベルトは窓辺へ歩き、苛立たしげに外を見た。

 庭園では、昨夜の薔薇夜会で使われた花の一部が、荷車で運び出されている。

 切られた薔薇は、朝になると急に惨めに見える。


「では、どうする」


 ようやく王太子が言った。


 ヨハンは息を吐いた。


 この男は馬鹿だ。

 だが、王太子である。

 王太子である以上、捨てるには早い。

 操るには、まだ使える。


「まず、昨夜の婚約破棄を、一方的破棄ではなく、双方合意による婚約解消に改めます」


「合意していないだろう」


「ですから、合意したことにするのです」


 アルベルトは少し顔を明るくした。


「なるほど」


「安堵なさらないでください。まだ穴だらけです」


 ヨハンは二枚目の書類を示す。


「クラウゼンベルク嬢の署名が必要です。彼女が署名すれば、殿下の有責性は曖昧になります。昨夜の発言は、感情の行き違いとして処理できる可能性が出る」


「オーレリアが署名するか?」


「しないでしょう」


「なら意味がない」


「だから急ぐのです。彼女が記録を整え、父であるクラウゼンベルク公を固める前に」


 アルベルトは鼻で笑った。


「父親は王家に逆らえまい」


「クラウゼンベルク公は逆らわないでしょう。少なくとも、最初は。問題はオーレリア嬢です」


「女一人が何をする」


 ヨハンは、思わずアルベルトを見た。


 これほど幸せな無知があるだろうか。

 毒杯を蜜と信じて飲む者は、飲ませる側にとっても扱いに困る。


「殿下。昨夜、彼女は泣きませんでした」


「それがどうした。冷たい女だからだ」


「いいえ。彼女は怒る代わりに記録を取りました」


「記録など」


「記録は死にません。涙と違って」


 アルベルトは黙った。


 黙ったが、理解したわけではない。


「それに、彼女には王太子妃教育に関する文書があります。王家からの命令書、教師の名簿、支出記録、贈答品目録、司教座の誓約証書。これらをそろえられれば、殿下が単に婚約者を捨てたのではなく、王家の正式な婚姻計画を一方的に壊したと見られます」


「私は王太子だぞ」


「はい。ですから、殿下の破壊力も王太子級です」


 軽口のように言ったが、ヨハンの目は笑っていなかった。


 そのとき、扉の外で控えめな足音がした。


「入れ」


 アルベルトが言う前に、ヨハンが目で侍従に合図した。


 入ってきたのは、ミリアであった。

 白い朝のドレスに、薄い青のリボンを結んでいる。

 昨夜よりも幼く見えた。

 いや、そう見えるように整えられているのかもしれない。


「殿下……」


 ミリアは不安そうに王太子を見た。


 アルベルトの表情がすぐに柔らかくなった。


「ミリア。心配することはない。すべて私が守る」


 ヨハンは内心で、誰が誰を守るのかと考えた。


 ミリアはヨハンに視線を向ける。


「ヨハン様、わたくし、昨夜のことで皆様に誤解されているのではないかと」


「誤解は、正しく管理すれば味方になります」


「え?」


「いいえ。ご心配には及びません」


 ヨハンは柔らかく微笑んだ。


 ミリアは利用できる。

 彼女には涙がある。

 王太子には理性がない。知性も怪しいが。

 だが足せば、宮廷では一応の物語になる。


 純愛に苦しむ王太子。


 冷たい婚約者。


 身分違いに怯える可憐な男爵令嬢。


 それを信じたい者は、必ずいる。


 問題は、オーレリア・フォン・クラウゼンベルクが、その物語に黙って入ってくれるかどうかだった。


 ヨハンは、入らないだろうと思った。


 あの女は、舞台に上げられれば、脚本家の名前から暴く。


「殿下」


 ヨハンは改めて言った。


「本日中に、私がクラウゼンベルク邸へ参ります」


「オーレリアに謝りに行くのか」


「いいえ。署名を取りに行きます」


「もし拒まれたら?」


「拒ませないようにします」


 アルベルトは満足げに頷いた。


 ミリアはまだ不安そうにしている。


 ヨハンは書類をまとめた。


 その中の一枚には、昨夜以前に彼自身が王太子へ差し出した進言書の写しがあった。


 婚約解消を望むなら、密室で、王家・クラウゼンベルク家・司教座の代表をそろえ、条件を調整してから行うべきこと。


 社交の場で婚約破棄を宣言してはならないこと。


 帝国使節の滞在中は、特に慎重であるべきこと。


 王太子は、そのすべてを読まずに返した。


 ヨハンは、その写しを懐にしまった。


 いつか必要になるかもしれない。王太子を守るためか、自分を守るためかは、まだ決めていなかった。

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