第1話 薔薇夜会の婚約破棄
王宮の薔薇は、夜になると白く見えた。
昼には紅であったものも、薄桃であったものも、燭台の火を受けると一様に色を失い、ただ花弁の重なりだけが、闇の中でほのかに息づいているようだった。
メレン王国の春の夜会は、いつもその薔薇で始まる。
王宮の南翼にある大広間は、この季節だけ庭と同じ匂いを持つ。
香水ではない。少し湿った土と、切られてなお生きようとする花の匂いである。
オーレリア・フォン・クラウゼンベルクは、その匂いが好きではなかった。
死にかけのものを美しいと言い張るのは、人間の得意な悪癖である。
そう思いながらも、彼女は微笑んでいた。
公爵令嬢として、王太子の婚約者として、そして近い将来、王太子妃になるべき女として、今夜も彼女には微笑む義務があった。
銀糸で縁取られた深青の礼服は、クラウゼンベルク家の色であった。
肩から胸にかけて、古い家門の紋章が控えめに刺繍されている。
華美ではない。
だが見る者が見れば、布地も仕立ても、宮廷の誰よりも格を示していた。
「オーレリア様、少しお疲れでは」
背後に控える侍女が、小声で言った。
「疲れて見えるなら、あなたの腕が落ちたのよ」
「お顔の色のことを申し上げたのです」
「それなら、照明係の責任ね。人の血色まで私に管理させないで」
侍女は返事をしなかった。
長く仕えている者は、余計な言葉を選ばない。
オーレリアの皮肉には、たいてい痛みが隠れている。
隠れているものを、わざわざ掘り返す必要はない。
大広間では、貴族たちがゆるやかに群れを作っていた。
春の夜会は、祝祭というより、冬のあいだに固まった派閥の氷を溶かすための儀式に近い。
誰が誰に近づくか。誰が誰と目を合わせないか。誰の娘がどの家の嫡男と踊るか。
それらは、花の香りよりも濃く、酒よりも酔わせる情報だった。
オーレリアは、そのほとんどを見ていた。
そして、見ていたからこそ、王太子アルベルトの姿が大広間の入口に現れた瞬間、周囲の空気がわずかに硬くなったのを感じた。
王太子は、いつもより明るい顔をしていた。
それだけで不吉であった。
アルベルト殿下が本当に明るい顔をしているときは、たいてい誰かが後始末をすることになる。
彼の腕に、ミリア・フォン・エーレンフェルトが添えられていた。
男爵令嬢ミリア。
淡い金髪に、薄水色の瞳。
小柄で、白いドレスがよく似合う。
自分が庇護されるべき存在であることを、生まれつき知っているような女だった。
無論、それを罪とは言わない。
世の中には、弱く見えることで生き延びる人間もいる。
ただし、弱く見えることと、無害であることは別である。
オーレリアは扇を閉じた。
王太子は、まっすぐこちらへ来るのだろう。
そう思った。
だが彼は途中で足を止めた。大広間の中央、ちょうどすべての視線が集まる位置である。
周囲の会話が少しずつ止まった。
アルベルトは満足げに息を吸った。
芝居がかった仕草だった。
彼は自分の言葉が歴史になるとき、いつもああいう顔をする。
困ったことに、その歴史の脚注を書く者の苦労を考えたことはない。
「諸卿、聞いてほしい」
声はよく通った。
王太子としての訓練の成果ではある。中身が声に追いついていないだけだ。
「私は今宵、偽りを終わらせる」
近くの老伯爵が眉を動かした。
大臣の一人が手にしていた杯を卓に置いた。
宮廷では、あまりに大きな言葉ほど危険である。
誰もがそれを知っていた。
ただ一人、王太子本人を除いて。
アルベルトはミリアの手を取った。
ミリアは俯いた。頬は紅潮し、瞳は潤んでいる。
震えているように見えたが、本当に震えているのか、そう見せているのか、オーレリアには判断がつかなかった。
「オーレリア・フォン・クラウゼンベルク」
名を呼ばれた。
大広間の視線が、こちらへ流れた。
オーレリアは一歩進み、静かに膝を折った。
「はい、殿下」
「私は君との婚約を破棄する」
沈黙が落ちた。
重かった。
楽師の弓が、一瞬だけ弦の上で震えた。誰かが息を呑む音が、薔薇の匂いの奥から聞こえた。
アルベルトは続けた。
「私は、真実の愛を見つけた。私の傍らに立つべきなのは、冷たい義務に縛られた女ではない。私を人として愛し、支えてくれる女だ」
ミリアが小さく「殿下」と言った。止めるような声だったが、止める気配はなかった。
オーレリアは、アルベルトを見ていた。
顔立ちは美しい。
王家の血は、外見だけなら仕事をしている。
だが今夜の彼は、王太子というより、己の恋情を国家事業と取り違えた若者に過ぎなかった。
「君はいつも正しさばかりだ、オーレリア。私の言葉を直し、私の振る舞いを正し、私の周囲に書類を積み上げた。私は人形ではない」
「その点については同意いたします」
オーレリアが答えると、周囲がかすかに揺れた。
アルベルトは一瞬、満足げに見えた。彼女が屈服したとでも思ったのだろう。
オーレリアは扇を開いた。
「殿下は人形ではありません。人形ならば、もう少し扱いやすかったでしょうから」
広間に、凍った笑いの気配が走った。
アルベルトの頬が赤くなった。
「そういうところだ。君には可愛げがない」
「王太子妃教育の課程に、可愛げという科目はございませんでした。担当教師を訴えるべきでしたね」
「ふざけるな」
「私はいつも真面目です。ですから嫌われたのでしょう」
アルベルトの隣で、ミリアが顔を上げた。
「オーレリア様、殿下は苦しんでおられたのです。愛のない婚約に縛られて」
「そう」
オーレリアは彼女を見た。
「では、あなたはその鎖を外した救世主というわけね。おめでとう。次は鍵の代金を支払う番よ」
ミリアの唇が震えた。
「お金の話をなさるのですか」
「婚約破棄の話をしています。恋愛詩の朗読会ではありません」
アルベルトが一歩前へ出た。
「十分だ。私は決めた。君との婚約は終わりだ」
「承知しました」
オーレリアは、深く一礼した。
そのあまりに静かな動作に、かえって周囲が息を詰めた。
「では、殿下のただいまの発言を、正式な意思表示として記録いたします」
「……記録?」
「はい。メレン王国王太子アルベルト殿下は、王宮薔薇夜会において、クラウゼンベルク公爵令嬢オーレリアとの婚約破棄を、公衆の面前で一方的に宣言なさいました」
オーレリアは侍女へ目を向けた。
「聞いたわね」
「はい、お嬢様」
「できれば、楽師の弓が止まったところも記録して。雰囲気というものは、後で捏造されやすいから」
アルベルトの顔から、少しずつ勝利の色が薄れていった。
「何を言っている」
「手続きの話です」
「これは私の婚約だ」
「いいえ、殿下」
オーレリアは首を傾けた。
「これは王家とクラウゼンベルク家の婚姻契約です。殿下のご恋情は、そこに付着した装飾に過ぎません。装飾が剥がれたからといって、柱まで勝手に折られては困ります」
「君は私を脅すのか」
「脅しではありません。確認です。殿下は今夜、確認されるべきことをずいぶん増やされました」
広間の端で、誰かが小さく笑った。すぐに咳払いに変わった。
そのとき、柱の陰に立つ男と目が合った。
黒に近い濃灰の礼服。
装飾は控えめだが、胸元の徽章だけで身分は知れた。
パルマティア帝国皇弟、アレクサンデル・フォン・ゲルンテンシュテルン。
帝国皇帝レオンハルトの弟であり、今は皇帝名代としてメレン王国に滞在している。
彼は笑っていなかった。
退屈そうな顔をしていた。
だが退屈している人間の目ではなかった。
冬の湖のように静かで、深いところで水が動いている。
アルベルトもまた、その視線に気づいたらしい。わずかに姿勢を正した。
「皇弟殿下には、余興が過ぎたかもしれません」
アルベルトは取り繕うように言った。
アレクサンデルはゆるく首を振った。
「いいえ。退屈はしませんでした」
「ならば」
「ただ、興味深くはありました」
その言葉は穏やかだった。
穏やかすぎて、かえって鋭かった。
「メレン王国では、王太子殿下の誓約は、夜会の気分で形を変えるものなのかと」
広間の空気が、再び冷えた。
アルベルトは返す言葉を見つけられなかった。
オーレリアはその沈黙を聞きながら、扇を閉じた。
「殿下」
彼女は王太子に向き直った。
「明朝より、婚約解消に伴う有責確認の手続きに入らせていただきます。王宮法務官、司教座、ならびにクラウゼンベルク公爵家の代理人へ、正式に通知いたします」
「そんなもの、必要ない」
「必要かどうかは、殿下がお決めになることではありません。殿下はすでに、決めてはいけないことをお決めになりました」
アルベルトの拳が震えた。
ミリアが彼の腕にすがる。
「殿下、もう……」
その声は甘く、震えていた。
だが広間の者たちはもう、彼女の涙だけを見てはいなかった。
オーレリアはもう一度、深く礼をした。
「それでは皆様。今宵の証人としてのご協力に感謝いたします」
誰も返事をしなかった。
返事をしないことが、宮廷人の返事である場合もある。
薔薇の匂いは、なお濃かった。
オーレリアは広間を出る前に、一度だけアレクサンデルの方を見た。
彼は小さく杯を掲げた。
祝福ではない。弔意でもない。
たぶん、記録の開始を認める仕草だった。
その夜、メレン王国の薔薇夜会は、恋の勝利としてではなく、王太子誓約違反事件の始まりとして、後に記されることになる。
もっとも、その時点でそれを理解していた者は、広間に三人ほどしかいなかった。
オーレリア。
アレクサンデル。
そして、まだ姿を見せていない王太子側近ヨハンである。




