第19話 王国の内に置く機会
メレン王国が、オーレリアとアレクサンデルの婚姻申し入れを知った時、王宮は静かに混乱した。
騒げない混乱ほど、厄介なものはない。
表立って反対することはできなかった。
公式承認文書には、王家がオーレリアの今後の婚姻について旧婚約を理由に異議を唱えないと明記されている。
しかもその文書は、パルマティア帝国皇帝レオンハルトの目の前で確認された。
今さら、なかったことにはできない。
王家は、もう一度紙に敗れた。
国境都市ヴァルダインの旧総督館で、最後の会談が開かれた。
出席者は、メレン国王、クラウゼンベルク公、オーレリア、アレクサンデル、そしてパルマティア皇帝レオンハルトである。宰相と法務官も控えていたが、この場の中心にはいなかった。
レオンハルトは、窓際の椅子に腰をかけていた。
まるで、王国の混乱などすでに結果の出た盤面のように眺めている。
国王は疲れた顔をしていた。薔薇夜会の時から、そう長い日数が経ったわけではない。だが、その顔は数年分老けたように見えた。
「オーレリア」
国王は彼女を見た。
「そなたほどの娘を、王国の外へ出すわけにはいかぬ」
その言葉は、以前なら重かったのだろう。
王の言葉。
王国の言葉。
忠誠を求める言葉。
だが今は、遅い。
あまりに遅かった。
オーレリアは、静かに礼をした。
「陛下。王国の内に置く機会は、すでにございました」
国王の顔が強張った。
彼女は続けた。
「私は七年間、王太子妃候補として王家に仕えました。殿下の隣に立ち、王家の命に従い、王家の求める務めを果たしました。王国の内に、私はおりました」
声は静かだった。
だが、広間の端まで届いた。
「その私を、王太子殿下は公衆の前で破棄なさいました。王太子府は合意解消に書き換えようとしました。王家は最初、沈黙を求めました」
国王は何も言えなかった。
「ですから今、私が王国の外へ出ることを惜しまれるのであれば、惜しむ相手が少し違います」
「誰だというのだ」
「過去の陛下です」
レオンハルトが、わずかに笑った。
アレクサンデルは、目を伏せた。
国王は、怒ることもできなかった。
怒れば、彼女の言葉の正しさを認めることになる。沈黙しても同じだった。
「そなたは、王国を裏切るのか」
その声は、国王ではなかった。
扉の近くに、アルベルトが立っていた。
正式な出席者ではない。だが、誰かが止めきれなかったのだろう。あるいは、彼自身が押し入ったのか。護衛が困惑した顔で控えている。
王太子の衣装は整っていた。だが、顔は荒れていた。権限停止を受け、周囲の視線が変わったことを、ようやく少しは感じているのだろう。
それでも、彼はまだ自分が中心だと思っている。
「君は、王国を裏切って帝国へ行くのか」
オーレリアは、彼を見た。
この人を愛していた。
そう思うと、少し不思議だった。
愛していたのは、たぶん彼そのものではなく、彼が王となる未来を支える自分の役目だったのかもしれない。
あるいは、最初は本当に、少しだけ彼の笑顔を信じていたのかもしれない。
どちらにせよ、もう過ぎたことだ。
「いいえ、殿下」
オーレリアは言った。
「先に誓約を裏切ったのは、殿下です」
「私は、愛を選んだだけだ」
「ええ。そしてその愛の支払いを、王国中に回した」
「君は最後まで金の話をするのか」
「最後まで責任の話をしています」
アルベルトは唇を噛んだ。
「帝国皇弟に求婚されたから、急に偉くなったつもりか」
「いいえ」
オーレリアは、静かに首を振った。
「私は、殿下に婚約破棄される前から、私でした」
その一言だけは、アルベルトに届いたのかもしれない。
彼は、一瞬だけ黙った。
だが、すぐに顔を歪める。
「ならばなぜ、私を支えなかった」
オーレリアは、少しだけ息を止めた。
支えなかった。
そう来るのか。
七年分の紙がある。七年分の夜がある。七年分の沈黙がある。それでもこの人は、まだ足りなかったと言う。
オーレリアは、少し笑った。
「殿下」
「何だ」
「患者が治療室から逃げ出し、薬を捨て、医師を罵り、外で転んだ後に『なぜ治さなかった』と叫ぶことがあります」
「何の話だ」
「殿下の話です」
アルベルトは赤くなった。
アレクサンデルが、低く咳払いをした。笑いではない。たぶん、笑いを殺すための咳である。
レオンハルトは、隠す気もなく面白そうにしていた。
「オーレリア」
今度は父が言った。
クラウゼンベルク公は、娘の前へ一歩進んだ。
彼の顔には、王国の有力公爵としての厳しさと、一人の父としての苦さがあった。
「お前を、家のために使いすぎた」
広間が静かになる。
父は続けた。
「王家のため、王国のため、クラウゼンベルクのため。そう言って、お前に耐えることを求めた。お前ならできると、何度も言った」
「ええ」
オーレリアは短く答えた。
「すまなかった」
父は頭を下げた。
公爵が、娘に頭を下げた。
それは小さなことではなかった。
だが、オーレリアはすぐには許さなかった。
「謝罪は受け取ります」
父が顔を上げる。
「許すかどうかは、今後の父上の働き次第です」
父は、少しだけ苦笑した。
「厳しいな」
「教育の成果です」
「私のか」
「ええ。不本意ながら」
父は、今度こそ笑った。
短い笑いだったが、そこには救いがあった。
レオンハルトが立ち上がった。
「話はまとまったようだな」
国王が彼を見た。
「皇帝陛下は、これで満足か」
「満足という語は、少し安い」
レオンハルトは、国王を見下ろすようにして言った。
「メレン王国は、自らの誓約を軽んじた代価を支払った。帝国はその記録を得た。皇弟は望む女を得る。クラウゼンベルク令嬢は、自分の席を選んだ。悪くない結末だ」
「王国にとっては、痛みが大きい」
「痛みを嫌うなら、傷を作らぬことだ」
国王は黙った。
レオンハルトは、次にオーレリアを見た。
「オーレリア・フォン・クラウゼンベルク」
「はい、陛下」
「帝国に来るなら、飾りでいることは許さぬ」
「望むところです」
「アレクサンデルは怠け者だ。お前が見張れ」
アレクサンデルが、静かに言った。
「兄上、求婚の直後に新婦へ監督業務を付けるのは、あまり感心しません」
「事実だ」
「否定はしませんが、時と場所があります」
「皇帝の前だ。最も適切な場所だろう」
「そういうところです」
兄弟の会話に、広間の緊張が少しだけ緩んだ。
オーレリアはアレクサンデルを見た。
「怠け者なのですか」
「誇張です」
レオンハルトが言った。
「過小申告だ」
アレクサンデルは目を閉じた。
「帝国では、家族の証言に証拠能力を認めないことを提案します」
「却下だ」
「横暴だ!」
「余は皇帝だからな」
オーレリアは、少しだけ笑った。
その笑いは、今度は隠さなかった。
後日、ミリア・フォン・エーレンフェルトは王都を離れた。
男爵家は賠償の一部を負担し、彼女自身は母方の親族領で暮らすことになったという。
修道院へ入れられたわけではない。処刑も、断罪もない。
ただ、王太子妃候補という夢だけが静かに消えた。
ヨハン・フォン・ライヒェナウは官職を失い、地方文書院へ移された。
人はそれを左遷と呼んだ。
だが彼なら、地方の古文書を相手にしても何かしら秩序を作るだろう。
善人ではない。
だが無能でもない。
宮廷には、その両方でない人間が最も厄介である。
王太子アルベルトは、王太子位をすぐに剥奪されたわけではなかった。
だが、外交署名権、人事権、予算執行権を停止された王太子は、すでに半分だけ王太子ではない。
のちに継承順位の見直しが行われることは、誰の目にも明らかだった。
そしてオーレリアは、パルマティア帝国へ向かうことになった。
出立の日、空はよく晴れていた。
クラウゼンベルク公爵家の馬車ではなく、帝国使節団の馬車である。
だが、そこにはクラウゼンベルク家の徽章も添えられていた。
王国の娘として去るのではなく、クラウゼンベルク家の娘として、帝国皇弟の婚約者として国境を越える。
そのための小さな意地だった。
馬車の中で、アレクサンデルが言った。
「後悔していますか」
オーレリアは、窓の外を見た。
メレン王国の塔が、少しずつ遠ざかっていく。
白い石の壁、赤い屋根、王宮の尖塔。あの中で、彼女は七年を過ごした。
耐えた。
学んだ。
……傷ついた。
そして記録した。
「荷造りの量については」
「それは重大ですね」
「ええ。婚約破棄より現実的な問題です」
「帝国にも書庫はあります」
「私の書類を収められる広さですか」
「確認しましょう」
「確認では足りません。増築してください」
「皇弟妃になる前から、帝国の建築予算に手を入れるおつもりですか」
「必要な投資です」
「兄上が喜びそうだ」
「では、やめた方がよさそうですね」
アレクサンデルは笑った。
馬車は橋を渡る。
国境の川が、下で光っていた。
オーレリアは、ふと手元の鞄に触れた。
中には、婚約破棄に関する一連の写しが入っている。
王家の承認文書。司教座の記録。皇帝の親書の写し。
アレクサンデルの求婚条件書。
重い。
けれど、それは鎖ではなかった。
自分がここまで歩いてきた証である。
「アレクサンデル殿下」
「はい」
「帝国で、私は何と呼ばれるのでしょう」
「皇弟妃候補、でしょうね。正式婚姻後は皇弟妃」
「肩書きではなく」
彼は少し考えた。
「オーレリア、と」
彼女は彼を見た。
アレクサンデルは、穏やかな顔をしていた。
「少なくとも、私はそう呼びたい」
「許可を求めるのですか」
「無断で呼ぶと、後で契約書が増えそうなので」
「正しい判断です」
「では」
オーレリアは少しだけ窓の外へ目を戻した。
川の向こうに、パルマティア帝国の旗が見える。
「許可します」
「光栄です、オーレリア」
「早速ですね」
「許可は鮮度が大切です」
「腐りません」
「記録しておきます」
「あなたまで記録を武器にしないでください」
「影響を受けました」
「悪影響です」
「悪くありません」
橋を渡りきると、馬車の揺れが少し変わった。
道の石が違う。
国が変わったのだ。
オーレリアは振り返らなかった。
メレン王国を捨てたわけではない。
王太子に捨てられた令嬢として逃げるのでもない。
ただ、誓約を軽んじた宮廷から、自分の名で立てる席へ移るだけだった。
薔薇夜会の花は、もう枯れただろう。
だが紙は残る。
そして彼女もまた、残る紙に名を書く側へ行く。
オーレリア・フォン・クラウゼンベルクは、静かに目を閉じた。
馬車は帝国へ向かって進んでいった。
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