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第18話 皇弟殿下の求婚

 公式承認の文書は、二日後に整った。


 メレン王国国王名において、オーレリア・フォン・クラウゼンベルクに婚約破棄の有責は認められないこと。


 王太子アルベルトの薔薇夜会における発言が、一方的破棄の意思表示であったこと。


 王太子府による合意解消書の作成および噂誘導について、調査の対象とすること。


 王家要請に基づく王太子妃教育費および婚姻準備費について、クラウゼンベルク家への補償を認めること。


 そして最後に、一文。


 王家は、オーレリア・フォン・クラウゼンベルクの今後の婚姻について、旧婚約を理由に異議を唱えない。


 この一文を書かせるまでに、どれほどの顔色と沈黙と遠回しな拒否があったか。オーレリアは全部見ていた。だが結局、紙になった。


 紙になったものは強い。


 人間は嘘をつく。

 紙は嘘を残す。


 国境都市ヴァルダインのクラウゼンベルク家宿舎で、オーレリアはその文書に目を通していた。


 父は向かいに座っている。


「ようやく、ここまで来たな」


「ええ。遅いですが、死後の謝罪よりはましです」


「お前の口は、勝っても柔らかくならないのだな」


「勝っていませんから」


 父は目を上げた。


「勝っていない?」


「名誉が傷つけられ、その後に回復された。足し引きして零に見えるかもしれませんが、実際には傷の跡が残ります」


 父は黙った。


「補償も、承認も、必要です。でもそれは、最初から傷つけられなかったことにはならない」


「そうだな」


 父は低く言った。


「その通りだ」


 以前なら、彼は「それでも前を向け」と言ったかもしれない。王国のため、家のため、未来のため。どれも間違いではない。だが、正しさにも順番がある。痛みを認める前に未来を語れば、それはただの命令になる。


 少しは、父も変わったのだろう。


 家令が入ってきた。


「お嬢様。帝国皇弟アレクサンデル殿下がお見えです」


 父がわずかに表情を変えた。


 オーレリアは文書を閉じた。


「お通しして」


「はい」


 アレクサンデルは、いつもと同じように静かな様子で入ってきた。


 濃灰の礼服。飾りは少ない。皇弟の徽章だけが、胸元で鈍く光っている。

 彼は公爵に礼をし、次いでオーレリアへ向き直った。


「クラウゼンベルク公爵閣下。オーレリア嬢。お時間をいただき感謝します」


 父が応じた。


「皇弟殿下がわざわざお越しとは、重いご用件と拝察します」


「はい」


 アレクサンデルは、短く答えた。


 それからオーレリアを見た。


「今日は、外交使節としてではなく参りました」


 部屋の空気が少し変わった。


 オーレリアは、静かに扇を閉じた。


「では、退屈しのぎですか」


「それなら、もう少し安全な相手を選びます」


「賢明です」


「本日は」


 彼は少しだけ言葉を選んだ。


 アレクサンデルが言葉を選ぶのは珍しい。少なくとも、これまで彼は面倒なことほど滑らかに言ってきた。


「求婚に参りました」


 父が沈黙した。


 侍女が、息を呑む気配がした。


 オーレリアだけが、表情を変えなかった。


 変えなかった、というより、変えないようにした。


「求婚ですか、外交提案ですか」


「どちらでもあります」


「正直ですね」


「嘘をつけば、あなたが文書で訂正するでしょう」


「口頭でも訂正します」


「でしょうね」


 アレクサンデルは、わずかに笑った。


 その笑みは、いつもの皮肉より少し柔らかかった。


「私は、あなたを慰めに来たわけではありません」


「慰めなら、玄関で帰っていただくところでした」


「ですから、通していただけて助かりました」


「まだ追い返すことはできます」


「その可能性は考慮しています」


「準備がよろしい」


「臆病ですので」


 父が、ようやく口を開いた。


「皇弟殿下。娘は、先日までメレン王国王太子の婚約者でした」


「存じております」


「そして、クラウゼンベルク家はメレン王国の臣下です」


「それも、存じております」


「帝国皇弟と我が娘の婚姻は、メレン王国に大きな意味を持ちます」


「はい」


「それを承知で、申し入れられるのですか」


「承知しております」


 アレクサンデルは、父をまっすぐ見た。


「皇帝レオンハルト陛下の承認も得ています」


 その言葉は重かった。


 父は、もう一度黙った。


 オーレリアは、アレクサンデルを見た。


「皇帝陛下は、よくお許しになりましたね」


「兄上は、政治的利点を見逃す方ではありません」


「つまり、私は帝国の通商条件に含まれている」


「いいえ」


 アレクサンデルは即座に言った。


「条件に含めるには、あなたは扱いが難しすぎる」


「褒め言葉に偽装した苦情ですね」


「私の語彙では、かなり誠実な求婚です」


 オーレリアは、少しだけ目を伏せた。


 心臓が、妙な音を立てている。


 腹立たしい。


 王太子に婚約破棄された時より、今の方が動揺しているなど、人体はもっと論理的に設計されるべきだ。


「皇弟殿下」


「はい」


「あなたは、私を帝国に連れて行けば、メレン王国への圧力になるとご存じですね」


「はい」


「クラウゼンベルク家と帝国の距離が近づくことも」


「はい」


「王国側が不快に思うことも」


「当然」


「では、これは政略です」


「そうです」


 彼は否定しなかった。


 そのことに、オーレリアは少しだけ息を止めた。


 アレクサンデルは続けた。


「ですが、政略だけなら、別の候補を選びます。もっと扱いやすく、もっと従順で、もっと静かな方を」


「条件がひどいですね」


「そういう方は、宮廷には多い」


「それで、なぜ私を?」


「あなたが、王太子殿下の前で泣かなかったから」


 オーレリアは眉を上げた。


「それだけですか」


「始まりは」


「続きは?」


「あなたが、怒りを紙に変えたから。自分を哀れませなかったから。私を疑ったから。兄上に使われる前提で話されるのは不愉快だと言ったから」


 彼は少しだけ息を吐いた。


「そして、あなたがどこへ行くかを、あなた自身に選ばせたいと思ったから」


 部屋は静かだった。


 窓の外で、国境の川が流れている音がかすかに聞こえた。


 オーレリアは、ようやく言った。


「私を飾りにするなら、お断りします」


「飾りなら、もっと静かなものを選びます」


「私は、帝国宮廷で黙って微笑むために行くつもりはありません」


「黙って微笑まれると、私が病気を疑います」


「皇弟妃という立場で、政治的に利用されるのは避けられません」


「ええ」


「その上で、私自身にも仕事をください」


 父が、驚いたように娘を見た。


 アレクサンデルは、静かに頷いた。


「帝国には、国境協定、婚姻法、貴族間誓約に関する文書整理が山ほどあります」


「それは仕事ですか、嫌がらせですか」


「帝国では、しばしば同じものです」


「待遇は?」


「皇弟妃としての席。必要な書記官。あなた専用の執務室。あと、可能なら私の書類も半分ほど」


「最後の一つで減点です」


「交渉の余地があります」


「八割なら考えます」


「私の分が?」


「減らす方です」


「厳しい」


「私は高価です」


「知っています」


 アレクサンデルは、まっすぐ彼女を見た。


「だから求めています」


 その一言は、先ほどまでの皮肉よりも静かだった。


 静かで、逃げ場がなかった。


 オーレリアは扇を握った。


 好意を向けられた時、皮肉で払い落とすことには慣れている。

 哀れみなら刺せる。

 同情なら切れる。

 だが、評価と好意が同じ形で差し出されると、どこを攻撃すればいいのかわからない。


 面倒な男だ。


 やはり、面倒な男である。


「父上」


 オーレリアは父を見た。


「私は、クラウゼンベルク家の娘として、この申し入れを受けてもよろしいでしょうか」


 父は、長く黙った。


 その沈黙の中に、彼の迷いがあった。

 王国への忠誠。家門の立場。娘の名誉。帝国との距離。すべてがそこにあった。


 だが、最後に父は言った。


「私は、お前に王国のために耐えろと言いすぎた」


 声は低かった。


「だから今度は、お前が選びなさい」


 オーレリアは、ほんの少しだけ目を閉じた。


 許したわけではない。


 だが、その言葉は受け取ってよいと思った。


 彼女はアレクサンデルへ向き直る。


「皇弟殿下」


「はい」


「返事をいたします」


「お願いします」


「求婚をお受けします。ただし、条件を書面にします」


 アレクサンデルは、心から安堵したように見えた。


 それがほんの一瞬だったことに、オーレリアは気づいた。


「もちろん」


「署名欄は大きめに」


「なぜです」


「後で責任逃れをされると困ります」


「逃げません」


「人間は追い詰められると逃げます」


「私は臆病ですが、逃げる方向は選びます」


「なら、私の方へ逃げないでください」


「努力します」


「努力ではなく契約で」


「では、書きましょう」


 その日、帝国皇弟アレクサンデル・フォン・ゲルンテンシュテルンは、メレン王国公爵令嬢オーレリア・フォン・クラウゼンベルクへ正式に求婚した。


 それは恋の告白であると同時に、国家間の事件だった。


 けれどオーレリアにとっては、少し違った。


 王太子に捨てられた後、誰かに拾われたのではない。


 初めて、自分で席を選んだ。


 ただそれだけのことだった。

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