第17話 皇帝
国境都市ヴァルダインは、二つの国の匂いを持っていた。
メレン王国の白い石造りの家並みと、パルマティア帝国の赤い屋根。
市場にはメレン語と帝国語が混じり、教会の鐘の音に、帝国軍の時鐘が遅れて重なる。
街を二つに割るように大河が流れ、その向こう岸には帝国の旗が翻っていた。
川は国境である。
だが水は、そんなものを知らない顔で流れている。
オーレリア・フォン・クラウゼンベルクは、馬車の窓からその川を見ていた。
メレン王国側の岸には、王国騎士団の旗が並んでいる。
だがその数は、帝国側に比べれば控えめだった。
帝国は見せつけているわけではない。
少なくとも表向きは。
だが、整えられた軍列、無駄のない旗の配置、同じ角度で槍を立てる兵士たちの姿は、それだけで力を語っていた。
力とは、騒がしいものではない。
よく研がれた刃が静かであるように、整った軍もまた静かである。
クラウゼンベルク公が向かいの席で言った。
「緊張しているか」
「荷物の量の方が気になります」
「そうか」
「はい。外交会談より、侍女たちの鞄の数の方が統制を失っています」
父は小さく笑った。
以前なら、このような場で娘の軽口に眉をひそめただろう。
今は違う。
笑う余裕を作ろうとしている。
あるいは、娘がそうして緊張を隠していることを、ようやく知ったのかもしれなかった。
「オーレリア」
「はい」
「今日、皇帝レオンハルト陛下と会う」
「存じております。忘れていたら、だいぶ重症です」
「お前は、あの方の前でもその調子でいくのか」
「父上は、私に急に可憐な花になれと?」
「無理だな」
「判断が早くなりましたね」
父は、窓の外へ目をやった。
「皇帝陛下は、メレン王国の失態を利用する」
「でしょうね」
「お前のことも、利用するかもしれない」
「利用価値があると思われるのは、無価値と思われるよりまだましです」
「お前は」
父は言葉を探した。
「もう少し、自分を大事にしてもよい」
オーレリアは、すぐには答えなかった。
その言葉は、遅い。
遅すぎる。
だが、遅いから無意味というわけではない。遅れて届いた薬でも、少しは痛みを鈍らせることがある。
「では、父上」
「何だ」
「私を大事にするなら、今日の会談では余計な遠慮をしないでください。クラウゼンベルク家が王家に無条件で従うと思われると、今後が面倒です」
父は苦笑した。
「お前らしい返事だ」
「在庫から選びました」
馬車は、国境会談のために用意された旧総督館へ入った。
もとは帝国の辺境総督が使っていた館だという。
今は両国の会談場として管理されている。
灰色の石壁、広い階段、無駄の少ない柱。
メレン王宮のような柔らかな装飾はなく、建物全体が一つの命令のように立っていた。
広間にはすでに、メレン王国側の代表が集まっていた。
国王、宰相、王宮法務官、軍務卿。
王太子アルベルトの姿はない。
権限停止中の王太子を、帝国皇帝との会談に出せるはずがない。
あの人間を出すくらいなら、爆薬を食卓に置く方がまだ管理しやすい。
ヨハンもいない。職務停止となった以上、当然である。
かわりに、アレクサンデルが帝国側の席の少し手前に立っていた。
濃い灰色の礼服に、皇弟の徽章。いつものように力の抜けた顔である。
だがその立ち位置だけで、彼がこの場の鍵の一つであることはわかった。
彼はオーレリアを見て、わずかに会釈した。
オーレリアも返した。
それだけだった。
今はまだ、それ以上をしてよい場ではない。
扉の外で、軍靴の音が揃った。
広間の空気が変わる。
入ってきた男は、若かった。
若い、という言葉がまず来る。
だが、それだけでは足りない。
金色の髪は陽を受けて淡く輝き、青い瞳は澄んでいるというより冷えていた。
美貌はある。
だが美しさより先に、圧があった。
人を見下すための高さではない。自分が立つ場所を、世界の中心に変えてしまう力である。
パルマティア帝国皇帝。
レオンハルト・フォン・ゲルンテンシュテルン。
彼が歩くと、周囲の者が自然に道を空けた。
それは礼儀ではなく、現象に近かった。
レオンハルトは、上座に腰を下ろした。
玉座ではない。
会談用の椅子である。
それでも、その椅子だけが玉座に見えた。
「メレン国王陛下」
声は若い。
だが、軽くはなかった。
「遠路、ご苦労であった」
国王が表情をこわばらせる。
形式上、独立王国の王と帝国皇帝である。
だが、この場でどちらが上に立っているかは、誰の目にも明らかだった。
「皇帝陛下こそ、国境までお出ましいただき、恐れ入る」
レオンハルトは、少しだけ笑った。
「興味深い事件であったのでな」
その一言で、会談は始まった。
宰相が、通商協定、国境通行権、傭兵通行許可について議題を確認する。
帝国側の官僚が、それに応じる。
表面上は事務的な会議だった。
だが、すべての文書の下に、王太子の婚約破棄が透けて見えた。
帝国は新たな条件を提示した。
帝国商人の保護権拡大。
国境関税の一部軽減。
帝国傭兵の通行に関する手続き簡略化。
国境都市における帝国使節の常駐権限拡大。
そして、王太子アルベルトの誓約違反に関する公式記録の作成。
メレン王国側は、露骨に顔色を悪くした。
国王が言った。
「皇帝陛下。この条件は、我が国にとって重い」
「軽い条件を得る機会は、すでに失われた」
レオンハルトは即座に返した。
「失われた、と」
「貴国の王太子は、王家と最有力家臣家との誓約を公衆の面前で破った。その後、王太子府は有責を曖昧にしようとし、王国は初動で沈黙を求めた。帝国は、それを見た」
国王は黙った。
「陛下」
宰相が横から言葉を探す。
「王国としても、すでに王太子殿下の権限停止、王太子府の調査、クラウゼンベルク令嬢の名誉回復手続きに入っております」
「遅い」
短い一言だった。
宰相は言葉を失った。
レオンハルトは、続けた。
「遅いことが常に罪とは言わぬ。だが、統治において遅さはしばしば罪と同じ結果を生む。貴国は、王太子の失態を若者の恋として処理しようとした。その間に、王国の信用は傷ついた」
オーレリアは、黙って聞いていた。
鋭い。
そして、容赦がない。
この皇帝は、言葉に温度を与えない。熱さで焼くのではなく、冷たさで切る。
レオンハルトの視線が、ふとオーレリアへ向いた。
「オーレリア・フォン・クラウゼンベルク」
名を呼ばれた。
広間の視線が、いっせいに彼女へ移る。
オーレリアは立ち上がり、一礼した。
「はい、皇帝陛下」
「王国を恨むか」
会場がわずかに揺れた。
あまりに直截な問いだった。
父が息を呑む気配がした。メレン国王も、厳しい目を向けている。アレクサンデルは、顔を動かさなかった。ただ、その目だけが少し鋭くなった。
オーレリアは、静かに答えた。
「恨むほど暇ではありません。記録を整理する方が有益です」
レオンハルトの口元に、初めて明確な笑みが浮かんだ。
「よい」
その一言は、部屋の空気をさらに変えた。
「恨みを政務に変えられる者は使える」
「使われる前提で話されるのは不愉快です、陛下」
メレン側の何人かが凍りついた。
父も目を閉じた。
アレクサンデルは、ほんのわずか下を向いた。たぶん笑いを隠した。
レオンハルトは、声を立てずに笑った。
「ならば、使う側に回れ」
「立場の変更は、契約書を確認してからにいたします」
「ますますよい」
皇帝は満足げに言った。
「王国は、これを捨てたのか」
その一言で、メレン側の顔色が変わった。
これ。
人間を物のように言ったのではない。
価値のあるものを、王国が見誤ったという断定だった。
レオンハルトは国王へ視線を戻した。
「メレン王国は、価値ある者を測り損ねた。しかも、測り損ねた事実を隠そうとした。帝国がその誤りを利用することに、不満はあるか」
国王は、苦い声で言った。
「帝国は、我が国の内政問題を利用されるのか」
「利用される失態を作ったのは、貴国の王太子であろう」
返す言葉はなかった。
会談は、その後も続いた。
メレン王国は、帝国の条件をすべて呑んだわけではない。
だが、かなりの譲歩を強いられた。
関税の一部軽減、帝国商人保護権の拡大、国境使節の権限明文化。
どれも、王国にとって小さくない痛手だった。
そして、最も重い一項が残された。
オーレリア・フォン・クラウゼンベルクの無過失確認と名誉回復の公式承認。
王家は、これを受け入れるしかなかった。
会談後、別室で休憩が設けられた。
オーレリアは、広間を出た廊下でアレクサンデルに呼び止められた。
「クラウゼンベルク嬢」
「皇弟殿下。皇帝陛下は、随分と率直でいらっしゃいますね」
「兄上は、遠回りを敵だと思っています」
「あなたは?」
「遠回りは嫌いではありません。歩く距離が長いだけなら」
「面倒くさがりなのに?」
「だからです。急な坂より、緩い道の方が楽でしょう」
オーレリアは少しだけ息を吐いた。
「皇帝陛下は、私を帝国に使える人間として見ていらっしゃる」
「ええ」
「隠しませんね」
「隠すと、あなたが怒る」
「隠さなくても怒ります」
「なら、まだ手間の少ない方を選びます」
その答えに、オーレリアは一瞬だけ黙った。
廊下の窓から、国境の川が見えた。
水は同じように流れている。メレン側も、帝国側もない。ただ、そこに境界を置いた人間だけが、橋を作り、税をかけ、兵を並べる。
「アレクサンデル殿下」
オーレリアは初めて、彼の名を呼んだ。
彼の目が、少しだけ変わった。
「はい」
「あなたは、私をどう見るのですか」
問いは、思ったよりもまっすぐ出た。
オーレリア自身が少し驚いた。
アレクサンデルは、すぐには答えなかった。彼は川を見て、それから彼女を見た。
「王国が測り損ねた人です」
「皇帝陛下と同じですね」
「いいえ」
彼は首を振った。
「兄上は、あなたの使い道を見ています。私は、あなたがどこへ行くつもりなのかを見ています」
「同じでは?」
「使い道は他人が決める。行き先は本人が決める」
オーレリアは、彼を見ていた。
この男は、いつも逃げ道を残す。
押しつけない。命じない。だが、選ばせる。
選ぶという行為は、時に命令より残酷だ。
「面倒な方ですね」
「よく言われます」
「たぶん、もっと言われるべきです」
「努力します」
「努力の方向が不明です」
アレクサンデルは少し笑った。
その笑いは、国境の夕暮れに溶けるように淡かった。
まだ何も決まっていない。
だが、何かが動いていた。
王太子が壊したものの向こう側で、オーレリア自身の行き先が、少しずつ形を持ち始めていた。




