第15話 皇帝の親書
パルマティア帝国の親書は、朝に届いた。
黒馬に乗った帝国騎士二名が王宮正門を通り、使節団の客館へ向かった。
封筒は深い赤。
封蝋には、パルマティア帝国皇帝の双鷲章が押されていた。
王宮の門番ですら、その封蝋を見て姿勢を正した。
帝国皇帝レオンハルト・フォン・ゲルンテンシュテルン。
若き皇帝。
美しき覇王。
門閥を削り、軍制を改め、腐った貴族たちを笑顔で破滅させた男。
その名は、メレン王国においても畏れをもって語られていた。
アレクサンデルは、客館の執務室で親書を受け取った。
封蝋を確認し、書記官たちを下がらせる。部屋には、彼と副官ハルトマンだけが残った。
親書の文面は、簡潔だった。
簡潔すぎる文は、たいてい刃物である。
アレクサンデルは読み終えると、しばらく黙った。
ハルトマンが尋ねる。
「皇帝陛下は、何と」
「兄上らしい」
「と申しますと」
「メレン王国が自分で差し出した首に、どの角度で刃を当てるか、たいへん丁寧に書いてあります」
ハルトマンは黙った。
アレクサンデルは親書を机に置いた。
「王宮へ持参します。国王陛下、宰相、王宮法務官、できればクラウゼンベルク公も同席させるように」
「王太子殿下は」
「呼ばれるでしょう。呼ばない理由を作るほど、この王国はまだ賢くない」
ハルトマンは一礼し、退出した。
アレクサンデルは一人になってから、窓の外を見た。
メレン王宮の庭は、相変わらず美しい。
王国というものは、庭だけなら平和に見える。
庭師は王太子より仕事をする。
少なくとも、枝を切る時に真実の愛を持ち出さない。
昼過ぎ、王宮の小会議室に、関係者が集められた。
メレン国王、宰相、王宮法務官、王太子アルベルト、側近ヨハン。クラウゼンベルク公とオーレリアも呼ばれた。
表向きは、司教座審問および帝国交渉に関する確認という名目である。
オーレリアは、部屋に入った瞬間、空気の硬さを感じた。
王宮の者たちは、帝国皇帝の親書というものをよく理解していた。
理解していないのは、王太子だけである。
アルベルトは不機嫌そうに座っていた。
「なぜ私まで呼ばれる。帝国との交渉は父上と宰相の仕事だろう」
ヨハンが低く言う。
「殿下に関わる内容だからです」
「また婚約の話か」
オーレリアは、目を伏せた。
この人は、いまだに婚約の話だと思っている。
アレクサンデルが親書を卓上に置いた。
「パルマティア帝国皇帝レオンハルト陛下より、メレン国王陛下へ」
部屋の者たちが姿勢を正す。
アレクサンデルは、穏やかな声で読み上げた。
その声に、余計な感情はなかった。だからこそ、文面の冷たさが際立った。
「メレン王国王太子殿下のご恋情について、パルマティア帝国は何ら関心を有さない」
アルベルトが少し顔を上げた。
安心したのかもしれない。
続く文で、その安心は踏み砕かれた。
「ただし、王太子殿下が王家と最有力家臣家との正式な婚姻誓約を、いかなる重みで扱われたかについては、帝国として重大な関心を有する」
国王の顔が強張った。
ヨハンは目を伏せた。
アレクサンデルは続ける。
「貴国の次期君主が、公衆の面前において誓約を軽んじ、その後の手続きにおいて有責の所在を曖昧にするならば、帝国は現在進行中の通商協定、国境通行権、ならびに傭兵通行許可に関する前提を再検討せざるを得ない」
部屋に沈黙が落ちた。
「なお、クラウゼンベルク公爵令嬢オーレリア殿については、帝国使節団の記録において、当該争議における主要証人かつ直接当事者として扱う。彼女の無過失および名誉回復について、王国がいかなる正式処理を行うか、帝国は見届けるものとする」
アレクサンデルは親書を閉じた。
「以上です」
しばらく、誰も話さなかった。
最初に口を開いたのはアルベルトだった。
「帝国が、我が国の婚約に口を出すのか。それは内政干渉だ!」
ヨハンが小さく息を吸った。
止めようとしたのだろう。
だが遅かった。
アレクサンデルは、王太子を見た。
「いいえ、殿下。帝国は殿下の婚約に口を出しておりません」
「今、そう読んだではないか」
「帝国が関心を持っているのは、殿下の恋愛ではなく、殿下の誓約能力です」
「同じことだ」
「同じではありません」
アレクサンデルの声は穏やかだった。
「殿下が誰を愛されるかは、帝国には関係ありません。ですが、殿下の署名と誓約が、恋情によって簡単に覆るものなら、帝国は殿下を将来の交渉相手として信用できません」
アルベルトの顔が赤くなる。
「私は王太子だ」
「ですから、問題なのです」
その一言は静かだった。
だが、部屋全体を貫いた。
オーレリアは、アレクサンデルの横顔を見た。
彼は怒っていない。声も荒げない。ただ事実を置く。置かれた事実が重すぎて、相手が勝手に潰れる。
怠そうな顔をしたまま、彼は盤面を動かしている。
国王が、低く言った。
「皇帝陛下は、我が国を脅しておられるのか」
アレクサンデルは、国王に向き直った。
「陛下。脅しとは、根拠のない恐怖を与えることです。皇帝陛下の親書は、根拠のある不信を示しております」
宰相が目を閉じた。
王宮法務官は、紙の端を握っていた。
クラウゼンベルク公は黙っている。
オーレリアもまた、口を開かなかった。
ここで彼女が言うべきことはない。
王家の失態を、帝国が言葉にした。
ただそれだけで、十分だった。
国王はしばらく親書を見つめていた。
「……通商協定を保留すると」
「再検討です」
「同じことではないか」
「違います。保留は止まっています。再検討は、条件が変わります」
アレクサンデルは淡々と言った。
「帝国商人の保護権、国境関税、傭兵通行権。皇帝陛下は、それらについて新たな条件を提示されるでしょう」
「婚約破棄ひとつで、そこまで」
国王の声には、ようやく本当の困惑があった。
オーレリアは思った。
違う。婚約破棄ひとつではない。
その後の沈黙。
合意解消への偽装。
王太子の失言。
王家の初動。
それらすべてが、帝国に手紙を書かせた。
アルベルトが苛立たしげに言った。
「父上、帝国の言いなりになる必要などありません。クラウゼンベルク家も、臣下として王家を支えるべきだ」
その場にいた貴族たちの顔が、いっせいに硬くなった。
ヨハンが、今度こそ強く言った。
「殿下、お控えください」
「なぜだ。私は」
「お控えください」
ヨハンの声には、命令に近いものがあった。
アルベルトは、初めて少し黙った。
国王は疲れたように椅子へ沈んだ。
「クラウゼンベルク公」
「はい、陛下」
「そなたの娘について、名誉回復の手続きは進める」
その言葉は、遅すぎた。
だが、言葉として出たことには意味がある。
オーレリアは父の隣で礼をした。
「恐れ入ります」
国王は彼女を見た。
「オーレリア。そなたも、王国の娘であるなら」
「陛下」
オーレリアは静かに遮った。
「王国の娘であるからこそ、王家の誓約が軽んじられたままにされることを、見過ごすわけにはまいりません」
国王は口を閉ざした。
会議は重い空気のまま終わった。
廊下へ出ると、アレクサンデルが隣に並んだ。
「皇帝陛下は、厳しい方ですね」
オーレリアが言った。
「兄上に聞かせれば、褒め言葉として受け取ります」
「実際、褒めてはいません」
「なおさら喜びます」
「ご兄弟仲がよろしいのですね」
「悪くはありません。兄は私をよく使いますし、私は兄に文句を言いながら使われます」
「家族関係というより、帝国の備品管理ですね」
「的確です」
アレクサンデルは少し笑った。
「今回の件を、皇帝陛下は利用なさるのでしょう」
「します」
「隠さない」
「あなたに隠しても、すぐに紙で暴かれそうです」
「否定はしません」
彼は少しだけ表情を改めた。
「兄上は、メレン王国を弱体化させる良い口実だと見ています」
「でしょうね」
「ですが、それだけではありません」
オーレリアは彼を見る。
「何がですか」
「あなたの名誉回復については、帝国も正式に見届ける。これは、政治的利用であると同時に、評価でもあります」
「帝国に評価されるために、私は婚約破棄されたわけではありません」
「でしょうね」
「皇弟殿下」
「はい」
「あなた方帝国の方々は、他国の傷口を測るのが本当にお上手ですね」
「傷を測らないと、切る場所を間違えます」
「切る気ですか」
「兄は」
「あなたは?」
アレクサンデルは少し黙った。
「私は、できれば縫う方で済ませたい」
「怠惰な外科医ですね」
「ええ。切ると後が面倒です」
オーレリアは、ほんの少しだけ笑った。
だが胸の奥は重かった。
メレン王国は、もう引き返せないところまで来ている。
王太子の恋愛は、帝国皇帝の親書になった。
紙は、ついに国境を越えた。




