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第14話 王太子殿下の失言

 慈善音楽会というものは、たいてい善意よりも椅子の配置が大事である。


 誰が前列に座るか。誰が誰の隣に座るか。

 誰の名が寄付者名簿の上にあり、誰の名が端に追いやられるか。

 孤児院の子供たちへ贈るための音楽会であっても、宮廷人はまず自分の座る場所を気にする。善意とは、飾り紐のついた権力である。


 オーレリア・フォン・クラウゼンベルクは、南区の侯爵夫人の館に着くと、まず配られた寄付者名簿を見た。


 予想通りだった。


 王太子アルベルトの名が中央にある。

 その隣に、ミリア・フォン・エーレンフェルトの名。

 そしてクラウゼンベルク公爵家の名は、紙面の下端に小さく置かれていた。


 侍女がわずかに眉を動かした。


「お嬢様」


「見事ね」


 オーレリアは名簿を閉じた。


「紙面でも席次遊びをする。子供の積み木より幼いけれど、インク代がかかっている分だけ悪質だわ」


 会場には、すでに多くの貴族が集まっていた。


 弦楽器の調弦が聞こえる。

 窓辺には白い花が飾られ、中央の卓には孤児院への寄付箱が置かれている。

 善意を見せるには、ちょうどよい配置である。

 見せるための善意は、見えやすい場所に置かれる。


 オーレリアが入ると、会話の流れがわずかに変わった。


 誰も露骨には避けない。

 だが、目線の角度が変わる。

 扇の向きが変わる。

 笑い声が半拍遅れる。


 噂は働いていた。


 オーレリアは、自分が冷たい女として描かれていることを知っていた。

 王太子を金で縛ろうとする女。

 真実の愛を妨げる女。

 男爵令嬢を追い詰める女。


 便利な女である。


 人が嫌いたいものを、ひとまとめに押し込めるには、ちょうどよい。


「オーレリア様」


 声をかけてきたのは、南区侯爵夫人だった。


 年配の婦人で、笑みは柔らかいが、目は笑っていない。

 社交界で長く生きた者の顔である。

 人を刺す時にも、白い手袋を脱がない。


「お越しいただけて、嬉しゅうございます」


「招かれましたので」


「このような時ですから、お心を痛めておいでかと」


「ご心配には及びません。痛むべき方々は、他にたくさんいらっしゃいます」


 夫人の笑みが少し固くなった。


「今日は、孤児院の子供たちのための音楽会です。争いごとは、どうか外に置いてくださいませ」


「ええ。争いを持ち込んだのがどなたか、受付で確認していただければ助かります」


 近くの若い夫人が、扇の陰で目を丸くした。


 侯爵夫人は、それ以上は言わなかった。言えば、次に自分が記録されると察したのだろう。


 やがて、王太子アルベルトとミリアが現れた。


 ミリアは薄い水色のドレスを着ていた。

 控えめだが、よく選ばれている。

 派手すぎず、貧しすぎず、慈善音楽会にふさわしい慎ましさ。

 ヨハンの手が入っているのは明らかだった。


 アルベルトは機嫌がよさそうだった。


 いや、機嫌よく見せようとしている。

 自分の周囲に好意的な視線が集まっていると信じたい男の顔である。


 ミリアは孤児院の子供たちに近づき、小さな包みを手渡した。

 子供たちは礼を言い、彼女は涙ぐんだ。


 会場の一部から、ため息のような同情が流れる。


「お優しいこと」


「お可哀想に、あれほど心を痛めて」


「王太子殿下も、あの方のような女性に癒やされていらっしゃるのね」


 オーレリアは、その声を聞いていた。


 侍女が小さく言う。


「どうなさいますか」


「何もしないわ」


「よろしいのですか」


「劇は最後まで見ないと、演出家の癖がわからない」


 音楽が始まった。


 孤児院の子供たちが短い賛歌を歌い、貴族たちは慈愛に満ちた顔でそれを聞いた。

 何人かは本当に感動していたかもしれない。

 それを否定するほど、オーレリアは人間不信ではなかった。


 人間は、善意と虚栄を同じ胸に入れて持ち歩く。


 問題は、どちらを口実に何をするかである。


 曲が終わると、南区侯爵夫人が立ち上がった。


「本日は、孤児院の子供たちのために、多くの方々から温かいご寄付を賜りました。とりわけ、王太子殿下とミリア様には、心より感謝を」


 拍手が起きた。


 ミリアは俯き、アルベルトは満足げに頷いた。


 その時、侯爵夫人が言葉を続けた。


「愛とは、与えるもの。見返りを求めぬもの。地位や金銭に縛られぬもの。わたくしどもは今日、その尊さを改めて思い知らされました」


 会場の視線が、ちらちらとオーレリアへ向いた。


 露骨ではない。だが十分だった。


 オーレリアは扇を開いた。


 侯爵夫人はさらに続ける。


「どうか、若き方々の真心が、不要な争いによって傷つけられませんように」


 拍手がまた起きた。


 その拍手の中で、オーレリアはゆっくり立ち上がった。


 拍手が止んだ。


 侯爵夫人の顔に、わずかな緊張が走る。


「侯爵夫人」


 オーレリアは穏やかに言った。


「本日の寄付者名簿を、子供たちへもお渡しになるのでしょうか」


 夫人は瞬きをした。


「ええ、記念として」


「では、訂正をお願いできますか」


「訂正?」


「クラウゼンベルク公爵家の寄付額が、実額より一桁少なく記載されています」


 会場がざわついた。


 夫人の頬が強張る。


「まあ、そのようなことが」


「単なる誤記でしょう。善意の席で、意図的な矮小化が行われるはずはありませんもの」


 オーレリアは微笑まなかった。


「我が家の寄付額は、王太子殿下とエーレンフェルト男爵家を合わせた額の三倍です」


 空気が変わった。


 ミリアの顔が白くなる。アルベルトが不機嫌に眉を寄せた。


「オーレリア」


「はい、殿下」


「ここは慈善の場だ。金額を誇るなど、見苦しい」


「誇っているのではありません。記録を訂正しているのです」


「同じことだ」


「違います。殿下が間違えても違いがなくなるわけではありません」


 アルベルトの顔が赤くなった。


 ヨハンが、会場の端に立っていた。


 彼は動かなかった。

 だが、視線だけが素早く周囲を測っている。

 どう介入すれば傷を最小限にできるか。

 どの瞬間に遮るべきか。

 そういう計算が見えた。


 オーレリアは、それより早く言葉を続けた。


「それから、侯爵夫人。孤児院への寄付品目についても、確認を。クラウゼンベルク家からは医薬品、冬用毛布、修繕用の材木費を出しております。花束と砂糖菓子より、子供たちには役に立つでしょう」


 侯爵夫人の笑みが崩れた。


 ミリアが小さく声を上げた。


「オーレリア様、わたくしは、ただ子供たちに喜んでほしくて」


「ええ。砂糖菓子は喜ばれるでしょう」


 オーレリアはミリアを見た。


「でも、冬の熱を下げる薬にはなりません」


「そんな言い方を」


「現実は、たいてい菓子より甘くありません」


 会場の空気が、完全にオーレリアへ傾いたわけではない。

 だが、少なくとも先ほどの物語は崩れた。


 王太子とミリアの美しい慈善。


 冷たいオーレリア。


 その絵に、寄付額と品目という無粋な数字が入り込んだ。

 人は無粋なものを嫌う。

 けれど、無粋なものほど役に立つ時がある。


 アルベルトが怒りを抑えきれず、前へ出た。


「君はいつもそうだ。愛や善意を、金と物で汚す」


「殿下」


 オーレリアは静かに言った。


「孤児院の屋根は善意では直りません」


「黙れ」


「黙りません。今日は子供たちのための場でしょう。ならば、子供たちに届くものの話をしています」


「君は王家に恥をかかせたいのか」


「いいえ。王家が自分でお脱ぎになった衣を、こちらへ着せようとしないでいただきたいだけです」


 ヨハンが動いた。


「殿下、本日は」


 だがアルベルトは止まらなかった。


「クラウゼンベルク家は王家の臣下だ。臣下なら、王家を立てるのが筋だろう!」


 その瞬間、会場の温度が変わった。


 音が消えたわけではない。

 窓の外では馬車の車輪が響き、遠くで子供が何かを落とした音もした。

 だが、貴族たちの間から、生きた気配が一瞬で引いた。


 臣下なら、王家を立てる。


 それ自体は、珍しい言葉ではない。


 だが今の状況で、王太子がそれを口にした意味は重い。


 王家の過失を、有力家臣家が無条件にかぶるべきだと言ったに等しい。


 オーレリアは、しばらくアルベルトを見ていた。


 それから、ゆっくり礼をした。


「承りました、殿下」


 アルベルトは、勝ったと思ったのかもしれない。


 だが、ヨハンの顔から血の気が引いていた。


「本日、王太子殿下は慈善音楽会において、クラウゼンベルク家に対し、臣下であるなら王家の失態を立てるべきである旨を述べられました」


 オーレリアは、侍女へ目を向けた。


「記録して」


「はい、お嬢様」


 侍女はすでに紙を出していた。


 会場の隅で、数人の貴族が顔を見合わせた。


 侯爵夫人は、もう何も言えなかった。


 ミリアは、泣いていた。


 だが今度の涙は、先ほどまでとは違って見えた。

 彼女自身にも、自分がどんな舞台に立たされていたのか、少しだけ見えたのかもしれない。


 ヨハンが王太子の前へ出た。


「殿下。お戻りを」


「なぜだ。私は正しいことを」


「お戻りを」


 低い声だった。


 アルベルトは不満そうだったが、ヨハンの顔を見て、ようやく口を閉じた。


 その日の慈善音楽会は、予定より早く終わった。


 帰りの馬車の中で、侍女が言った。


「お嬢様。これで、また噂が」


「噂は増えるわ」


「では」


「でも、今度は向こうの望む形だけでは広がらない」


 オーレリアは窓の外を見た。


 夕方の街路に雨の名残が光っている。


「王太子殿下は、社交界の前で言ってはいけないことを言った。ヨハン卿が一晩で包める量を、殿下は一言で超えたのよ」


 馬車は静かに進んだ。


 王太子の失言は、薔薇夜会の婚約破棄よりも遅く、しかし確実に、貴族たちの間へ広がっていった。


 それはもはや、オーレリア一人の名誉の問題ではなかった。


 王家は、家臣の誓約をどう扱うのか。


 その問いが、王都の夜に残った。

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