第13話 ヨハンの火消し
噂は、形を持たないくせに足が速い。
王都の貴族街では、三日もあれば人の評判は別人になる。
四日あれば、別人どころか物語になる。
五日目には、その物語を信じた者が、まるで自分の目で見てきたように語り始める。
ヨハン・フォン・ライヒェナウは、それをよく知っていた。
だから彼は、噂を嫌っていない。
噂とは、名前のない文書である。
署名がない分、燃やしても煙が出ない。
誰が書いたかを問われれば、皆が「どこかで聞いた」と答える。
これほど便利な道具を、宮廷が放っておくはずがない。
その日、王都の三つのサロンで、同じ話が少しずつ形を変えて広がった。
オーレリア・フォン・クラウゼンベルクは、王太子を愛していなかった。
王太子妃の地位に執着していた。
婚約破棄された途端、金銭を要求し始めた。
ミリアは追い詰められ、夜も眠れないらしい。
王太子は、冷たい義務から真実の愛へ逃れただけだ。
話す者は、皆、善意の顔をしていた。
善意は、悪意より質が悪いことがある。悪意は自分を悪だと知っているが、善意は自分を裁かない。
ヨハンは、王太子府の一室で報告を聞いていた。
「南区の侯爵夫人の茶会では、ミリア嬢に同情が集まっております」
「よろしい」
「一方で、司教座審問の内容も広がり始めています。特に、王家印のある教育命令書と、王太子妃教育費の件が」
「それは止められない」
ヨハンは地図を見ていた。
王都の社交圏を、彼は地図のように記憶している。
誰が誰に手紙を書くか。
どの夫人がどの司祭と親しいか。
どの男爵家が公爵家に借金をしているか。
どの伯爵家の息子が王太子府に官職を求めているか。
恋愛は風だが、噂は水路を流れる。
水路を押さえれば、どこへ流れるか決められる。
「ミリア嬢を、明後日の慈善音楽会に出す」
部下が顔を上げた。
「今出してよろしいのですか」
「泣かせる」
「は」
「言い方を間違えたな。泣いても不自然ではない場に出す。孤児院への寄付音楽会だ。彼女が子供に手を差し伸べ、涙ぐむ。周囲は勝手に物語を作る」
「王太子殿下は?」
「同席させる。だが発言させるな」
「難しいかと」
「難しいから命じている」
部下は黙った。
ヨハンは次の書類を取った。
「それから、クラウゼンベルク家の支出請求を、金銭への執着として広げる」
「しかし審問では、王家要請に基づく支出と確認されつつあります」
「だからこそだ。法的には不利だ。ならば感情で濁す」
彼はペン先で机を軽く叩いた。
「人は正しすぎる相手を嫌う。クラウゼンベルク嬢は、その点でこちらに材料を与えてくれている」
「確かに、発言はかなり」
「毒がある。あれを冷酷と呼び換える」
ヨハンは少しだけ息を吐いた。
オーレリアの発言は、正確だ。
正確すぎる。
そこが弱点になる。
宮廷は正確な刃より、丸い嘘を好む。
正論は痛い。痛いものを、人は長く見ない。
「ですが、帝国皇弟殿下が彼女に関心を示しているとの話も」
部下が言った。
ヨハンの手が止まった。
「どこから」
「客館に入ったことを見た者がいます。帝国記録の写しを受け取ったとも」
「それは、よくない」
ヨハンは低く言った。
王太子の失態を国内問題に留めるには、帝国との接触を最小限に見せる必要がある。だが、オーレリアが帝国側記録を得たとなれば、話は違う。
王家の信用問題。
帝国特使の証言。
王太子の誓約能力。
その線が、ますます濃くなる。
「では、噂を足す」
「どのように」
「クラウゼンベルク嬢は、帝国皇弟に近づき、王家への圧力に利用しようとしている」
部下は少し躊躇した。
「危険では。帝国皇弟殿下を巻き込みます」
「直接名指しはするな。帝国使節団と接触を深めている、でよい」
「承知しました」
部下が退いた後、ヨハンは一人になった。
彼は窓辺へ寄った。
王太子府の庭では、アルベルトがミリアと歩いていた。
ミリアは白い日傘を差し、王太子は彼女に何かを話している。
二人の姿は、遠目には絵になる。
若い王太子と可憐な令嬢。
真実の愛。
詩人なら、いくらでも甘く飾るだろう。
だがヨハンには、破れた幕にしか見えなかった。
あの二人を守るために、自分はどこまで紙を汚すのか。
考えるだけ無駄だった。
もう始まっている。
同じ頃、クラウゼンベルク邸にも噂の報告が届いていた。
オーレリアは書庫でそれを聞いていた。
侍女が、一つずつ読み上げる。
「お嬢様は王太子殿下を金銭で縛ろうとしている、と」
「王太子殿下を縛れる紐があるなら、王太子府に寄贈すべきね。もっと早く役に立ったでしょう」
「ミリア嬢が、お嬢様の言葉に深く傷ついている、と」
「それは事実でしょう。傷つけないように言った覚えがありません」
「お嬢様が帝国使節団と近づき、王家に圧力をかけようとしている、とも」
オーレリアは、そこで顔を上げた。
「早いわね」
「ヨハン卿でしょうか」
「でしょうね。彼は噂に靴を履かせるのが上手い」
侍女は不安そうだった。
「反論なさいますか」
「しない」
「なぜです」
「噂は否定すると喜ぶの。犬に肉を投げるようなものよ」
オーレリアは、机の上に一枚の紙を置いた。
「噂の経路を記録して。誰が、どのサロンで、誰から聞いたと言ったか。特に帝国使節団との接触に関する噂は丁寧に」
「それをどうなさるのですか」
「出所に戻す」
彼女はペンを取った。
「噂にも帰巣本能があるか、試してみましょう」
夕刻、オーレリアは王都の慈善音楽会への招待状を受け取った。
差出人は、南区の侯爵夫人。王太子府寄りの人物である。そこには、ミリアも出席する予定だと添えられていた。
侍女は眉をひそめた。
「罠では」
「でしょうね」
「行かれるのですか」
「行きます」
「なぜ」
「罠は、相手の構造を見るために近づく価値があります。踏むかどうかは別として」
オーレリアは招待状を閉じた。
その時、クラウゼンベルク公が書庫へ入ってきた。
「音楽会に出るのか」
「はい」
「ミリア嬢を使う気だろう」
「ヨハン卿が?」
「他に誰がいる」
父の声には苦さがあった。
オーレリアは、少しだけ父を見た。
以前の父なら、行くなと言っただろう。王家を刺激するな。噂が増える。女の名誉は傷つきやすい。そう言ったはずだ。
だが今は違った。
「父上は、止めないのですか」
「止めても行くだろう」
「理解が早くなりましたね」
「遅すぎた分を取り戻している」
オーレリアは、ほんの一瞬だけ黙った。
父は机の上の噂の記録を見た。
「お前は、これをすべて追うつもりか」
「はい」
「疲れるぞ」
「慣れています」
「慣れさせたのは、私か」
「王家と父上と、殿下と、だいたい皆様の共同事業です」
父は苦笑した。
「では、せめて今後は出資を減らそう」
「出資ではなく、加害と言います」
「手厳しいな」
「在庫がありますので」
父は、しばらく娘を見た。
「気をつけなさい」
「はい」
「ヨハンは、お前が正しいほど、お前を冷たく見せようとする」
「知っています」
「ミリア嬢は、泣くだろう」
「知っています」
「王太子は、何も知らない」
「それは知っています」
父は、そこで初めて小さく笑った。
オーレリアも、少しだけ口元を緩めた。
だがその夜、王太子府では、もう次の紙が用意されていた。
慈善音楽会で配られる寄付者名簿。
そこには、ミリア・フォン・エーレンフェルトの名が、王太子アルベルトのすぐ隣に記されていた。
そして、クラウゼンベルク公爵家の名は、わざと小さく、端に置かれていた。
ヨハンはそれを見て、静かに封をした。
火は消すものではない。
別の場所へ移すものだ。
少なくとも彼は、そう考えていた。




