異類について
むかしむかし、河合隼雄さんがこんなことを書いていました。
――――(引用ここから)――――
ところが、西洋の話と日本の話と決定的にちがうところは、娘が獣のところへいき、彼女の愛によって獣が王子さまに変身するということです。
(河合隼雄『中空構造日本の深層』所収「日本昔話の心理学的解明」より)
――――(引用ここまで)――――
そして、西洋の場合は、「獣は魔法によって獣にされているんだけれども、その魔法が解けて人間になって、最後は結婚してめでたしめでたし」になるのに対して、日本の場合は「蛇は蛇であって殺されてめでたしということになる」のだ、と……。
一見するともっともらしいようですが、これは、実は、あまり適当な比較ではないようにも思います。
なんとなれば、獣といっても、河合さんが例に挙げている種類の西洋の昔話は――「蛙王子」にせよ、「美女と野獣」にせよ、「七羽のからす」にせよ、なんなら「黄金の鳥」の姫の兄にしても――もともと人間だったものが一時的にすがたを変えられているだけにすぎません。
魔法で姿を変えられた「人間」が、ほんらいの姿に「戻る」だけのことであって、純然たる意味で、異類が人間に「なる」わけではないのです。
ヒロインの結婚相手が、つねに「実は人間でした」となるのであれば――そうでなければならないというのであれば――それは所詮、徹頭徹尾、人間同士の結婚であって、そこにあるのは、異類と人間とを徹底して区別しようとする意識の強烈さではないでしょうか。
とすれば、それは、そもそも「異類婚姻譚」ですらないのではないでしょうか?(※魔法で動物に変えられるのが往々にして「王子」であることからすれば、むしろ「貴種流離譚」の一変種?)
それを、日本の異類婚姻譚と比較して、ダカラ日本ハー、というのは、方法的にずれている気がします。
河合さんが西洋の比較対象にされている日本の昔話は「蛇婿入り」ですが、こちらは異類のほうが一時的に人間に化けていたのであって、人間が異類にされていたという西洋の場合とは、話が逆です。
たしかに、日本のフォークロアにおいても、異類との結婚生活は、破綻で終わるケースが多くはあるでしょう。
しかし、裏を返せば、破綻するまでは、結婚生活を営むことができていたということでもあって、場合によっては子づくりまでできてしまうケースもあります。というか、珍しくありません。
異類と人間とのあいだの敷居は、(結婚自体がそもそも人間相互でしかおこないえない西洋に比べて)、ずいぶん低いといえるのではないでしょうか。
それどころか、河合さんはスルーしていますが、日本の昔話には「タニシ長者」(または「ツブ息子」)などというものもあって……これも異類婚姻譚といえば異類婚姻譚ですが、結婚生活は破綻せず、それどころか、さいごは「人間になってめでたしめでたし」です。
さきほどの西洋の「美女と野獣」パターンと何が違うというのでしょう?
もちろん、相違はあるのですが……
その相違もまた、上記のような異類と人間の敷居の低さによっているように、当方などには思えますし……決して、出羽守しなければならないような否定的な相違ではないようにも思うのです。
なんとなれば、「タニシ長者」(または「ツブ息子」)というのは――ある夫婦の間に生まれた子どもがタニシだった。それでも息子として大事に育てていたら、いつか異能を発揮して長者の娘を嫁にもらう。その嫁のおかげでタニシはついに人間になった、というお話。
これが最初から純然たるふつうのタニシかというとまた微妙ですが、すくなくともふつうの人間でもない。しかも、このタニシ、人間になったあとで結婚するのではなく、タニシのままで結婚した、そのあとで人間になる、のですから、西洋よりもはるかにレース・フリー、いやさスピーシーズ・フリーな結婚観。
そのうえ、結婚後は、夫が人間になる以前から、仲むつまじく暮らしたことにもなっていますし、夫とはぐれたときなど、嫁さんは必死になって夫をさがすという展開を含んだバージョンもあるようで……種を超越した愛情はたいしたもの。やはり、異類と人間の敷居は、西洋の場合より、はるかに低いようなのです。
日本と西洋との違いというなら、むしろ、これらの点にこそ見るべきではないでしょうか(実際、河合さん自身を含めて、自然との調和を理想とする東洋と、自然と敵対し征服対象と見る西洋、などという比較は、ありふれたものです。その分、手垢もたっぷりですが)。
ちなみに、こうした異類との近しさは、なにも草木虫魚悉皆ナカヨシな日本だけの専売特許ではなく……
夫婦に子どもが生まれたら蛇だった。それでも息子として大事に育てる。やがていろいろあってその蛇息子に嫁がくる。その嫁のおかげで蛇息子は人間になる――という「タニシ長者」の類話みたいなフォークロアなら、アフリカのほうにもあるそうです。ほんとです。岩波少年文庫か何かで読みました(『キバラカと魔法の馬』参照)。
アフリカというのは人類発祥の地ですから、そこと共通のフォークロアをもつということは、日本だけトクベツとかいうことではなく、むしろ人類共通それこそ普遍的無意識の産物。
逆に、西洋こそが「特殊」ということにもなりかねないのではないでしょうか?
もっとも、アフリカというのも野蛮な西洋に奴隷化されたせいで、そのフォークロアも西洋の影響によって歪曲・変形されているかもしれませんし……
無意識が普遍的だというならそもそもこんな雑な比較論自体が無意味という気もしますけどね(笑
それでも、あえてというなら、そうした西洋なるものの特殊性などというものが、もしもほんとうにあるのなら、それこそ、人間と異類を厳密に区別する、その衝動の強烈さとかかわっているのではないかと……そんな気もしないではありません。
それというのも、このあと、河合さんは、前掲論文のつづきで、こうした魔法昔話を持つ西洋が自然科学を発展させたに対して、そのような魔法昔話を持たない日本は自然科学を発展させなかった、などと、と、またぞろ雑な出羽守もとい比較文化論みたいなことを書いているのですが……
その自然科学こそ、まさに、こうした「区別」によってたつ営為であるとも、いえそうですから。
――――(引用ここから)――――
その反論の一つとして私が言いたいのは、こういう魔法のメルヘンを非常にたくさんもっていたヨーロッパのほうが、自然科学が発達しているという事実です。蛇は蛇として、殺してめでたいと思っている国には科学が発達しなかったというのは、非常に大事なことだと私は思います。
(同上)
――――(引用ここまで)――――
これを要するに、西洋というのは、異類婚を語るためにわざわざ「魔法」の介在を必要とする――異類を人間に変身させなければ結婚が許されないという窮屈さをかかえている、ということで。
それすなわち、それだけ、異類と人間とを「別物」と思っている、「区別」している、断絶している、ということでもあるのではないでしょうか(何しろ、人間に食べられるため=殺されるために神によって作られた異類なんてものがゴロゴロしている世界でもあるわけですからね。そういえば以前にふれたアンデルセンの「人魚姫」でも魂をもっているのは人間だけだというキリスト教的イデオロギーみたいなものが噴出していました→ https://ncode.syosetu.com/n7715ll/40/ )。
「区別」とは、同時に「分別」でもあり、理性の機能はそもそも「分ける」ことだともいいますから、それは必ずしも悪いことではなく、自然科学の発達はもとより、河合さんがいうところの日本人と西洋人の自我構造の違いだのなんだのともかかわってくることかもしれませんが……
自然を対象化することで科学を発展させるということは、同時に、自然を即自的に経験する幸福な愚昧の喪失をも意味する~とかナントカなタワゴトくらいは、いっていえないこともないかもしれません?
それがいわゆるひとつの智恵の果実の代償、西洋ブンメイの栄光と悲惨というやつなのかどうかは、知りませんけどね……。




