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童話についてアレコレ  作者: 七瀬みる


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59/65

写経:9

 ひきつづき好きな童話をアトランダムに「写経」(書き写し&文字数確認)しています。

 今回は、安房さん&佐藤さん。好物尽くし。


――――――


・佐藤さとる「お母さんの宝もの」


 文字数 1565 文字

 改行除く 1522 文字

 改行・空白除く 1497 文字

 原稿用紙 5 枚


 ささやかな掌編、ショートショートですが、ここまでストレートな母親ネタは、佐藤さとるさんにはめずらしいかも。ちょっと異色作?


 本作の「小さな押入れ」は、アリスのうさぎ穴であると同時に、母胎的空間そのものでもありそう。

(というか、うさぎ穴自体が、本来的に、母胎へ通じる産道なのかもしれません?)


 ここのところの当方、胎内回帰的なグレートマザー元型への関心がつよくなって、安房直子さんなど読み返したり「写経」したりもしていますが……

 佐藤さんの場合は、ふだんは、そうした内への回帰とは逆に、子どもが外で――または親の留守中など、いずれにせよ親の目のとどかない場所や状況で――冒険するお話のほうが、どちらかといえば、多かった気がします。


 代表作コロボックルシリーズにしても、せいたかさんの母親などは、ほぼ登場しません。子どものころからかくれてこっそり小山に通うわけですし。親の庇護下どころか、戦後はむしろ若くして一家を背負う立場にもなります。しかも、やがては、ちび先生と出会って、新たな家庭を築き、せいたかさん自身が父親になるという、王道の成長自立物語。

 二巻目以降、せいたかさんが背景に退いてからも、コロボックルも人間も、次々に登場する若い世代は、わりとボーイミーツガールからの、成長・自立の物語展開が多く……グレートマザーの胎内への回帰などという退嬰的な指向は、ほとんど目につきません。


 佐藤さんの自伝小説など読んでも、お母さんより、お父さんの「最後の敬礼」などのほうが、印象に残りますし……

 無理は承知であえて雑な二択を考えるなら、母性的というよりは父性的なのが、佐藤さんの作風、といっていいかもしれません。


 しかし、それは、完全に母性と無関係ということではなく……父権的な昼の世界の秩序を守るために、グレートマザー的なものを夜の世界に追放し隠蔽した、という、堀切直人の『迷子論』的な文脈にも、あるいは、どこかで通じるものなのかもしれません?


 実家の外で異性と結ばれあたらしい家庭を築くという、ある意味すこぶる「健全」な、父権的な、佐藤さんの世界にしてからが、実は、根底には、母性への指向をちゃんと隠しもっている。幼年向けショートショートという形式が、はからずもそれを露呈した、垣間見せてくれた……のかもしれないと思うと、短いながら、本作品も、なかなか、おもしろく感じました。

 当方のいうことですからいずれ高確率で誤解・曲解・勘違いかもしれませんけどね(笑


 しかし、そもそも、「行って・やって・帰ってくる」冒険にも、「どこから」&「どこへ」という問題は、つきまとうわけで……神話的モチーフ全般に一般化するならそれは「共同体」ということにでもなるのかもしれませんが、幼い子どもにとっては、それは、やはり、「家」であり、とくに「母」なのではないでしょうか。

 つまるところ、冒険・成長・自立の物語も、もとよりグレートマザーと完全に無縁というわけにはいかない。というか、そもそも、その「自立」そのものが、まさにそのグレートマザーからの自立を意味しているのかもしれないわけですし……しかも、その「自立」のためのイニシエーションにさえ、キャンベル的・ユング的・河合隼雄的には、母胎的空間が定番の道具立て。

 徹頭徹尾、グレートマザーに依存して、にもかかわらず、のちにはそれを隠蔽。「ママのおっぱい」をさげすんで、いっちょまえに父権的世界の一員顔をしはじめる……とすれば、とことん難儀な話。そりゃ抑圧されたグレートマザーも何度でも回帰してきますわというところでしょうか。


 いわゆる父権的な成長物語に、母性の存在感が希薄だとしたら……はたしてそれは、もともと関係性が希薄なのか、あるいはむしろ、濃厚すぎて「言わぬが花」なのか???


――――――


・安房直子「星のおはじき」


 文字数 4040 文字

 改行除く 3963 文字

 改行・空白除く 3918 文字

 原稿用紙 12 枚


 安房さんにはちょっとめずらしいかもしれない、ストレートないじめ描写などもありつつ……そこからのファンタジーな救済がしみる良作。

 安房童話には、しばしば木の精が登場しますが、ほぼつねに母性的なイメージ。コワイ場合も、ヤサシイ場合もありますが……この場合は、後者なので、ほっこり。

 悪しきグレートマザーのように子どもを飲みこんでしまうのではなく、「よしよし」とハグして休ませたあと、あらためて背中を押して送りだしてくれる感じの善きグレートマザー。

 なので、最終的には、これもまた子どもが「外」へ出ていく成長譚ということにはなるかもしれませんが……そのためにも、まずは、いったんは、母性による癒しが必要――以前ふれたエンデのアイゥオーラおばさま的に?――という、そのあたりの事情は、安房さんの場合、隠蔽されることなく、むしろ、あからさまかつ濃厚に、くりかえし形象化されているようです?


――――――


・安房直子「夕日の国」


 文字数 10378 文字

 改行除く 10102 文字

 改行・空白除く 9944 文字

 原稿用紙 32 枚


 以前に「写経」した同著者の「夢の果て」では、アイシャドウをつかって異界をのぞき見ていましたが、本作では化粧水をつかって異界をかいま見る、という……いずれコスメのたぐいには違いないので、実は通底するものもあるのかもしれません。

 咲子が夕日の国(≒夢の果て?)へ行ってしまった(かどうかほんとうのところは謎ですが)、とするなら、なおさらです。


 ただ、本作の場合、現実世界の男の子であるところの「ぼく」の視点でえがかれているので、単に女の子が異界へ行く話、というだけでなく……

 ぼくがその女の子にみちびかれて夕日の国をかいま見る話――またはせっかく出会った女の子にふり逃げされる話?――が、二重写しになっているようです。


「夢の果て」のヒロインにせよ本作の咲子にしろ、女の子は、あっさり異界へ行ってしまう。むしろはじめから異界に所属しているもののように……男の子の目には見えるかもしれません。


――――(引用ここから)――――

 いま、ぼくは思います。

 もしかしたら、咲子は、はじめから、夕日の国の子どもだったんじゃないかと。ぼくたちが、夏休みに、遠くへ旅行するように、あの子もちょっと、ぼくたちの世界をのぞきにきたんじゃないかと。

――――(引用ここまで)――――


 一方の「ぼく」≒男の子は、異界をかいま見ても、かいま見るだけで、その果てまでは行こうとしない(行ったとしても帰ってくる? or 行ってしまったら敗北――「野の音」のように?)、とするなら、よりこちらがわの「現実」にとらわれた存在。現実的な昼の世界の秩序から逃れられない存在(≒伝統的イニシエーションが想定する共同体の成員)というようにも、定位することができるかもしれません。

 それこそ、母性的女性的な夜の世界と、父性的男性的な昼の世界という、前掲の堀切直人的文脈そのものの二分法。

 だからこそ、あえてその女性的世界に侵入し、何かを獲得して、帰ってくる――というのが、男性的なヒーローズジャーニーの戦術目標にもなるのかもしれませんねえ。

(※実際には男と女のどちらがゲンジツ的か、などと、いいだせばいろいろキリがない気もしないでもありませんが、まあ、普遍的無意識的には……?)


 それは、現実と幻想、二つの世界の往還という――佐藤さとるさんのいう「二次元」的な――「ファンタジー」の文脈にも沿ったもののように思います。

 化粧水&なわとびの儀式めいた行為が「うさぎ穴」だとすれば、咲子はその穴に「ぼく」をまねきいれる「うさぎ」そのものでしょうか。

 それとも、たんなるペテン師……?


 結局、咲子の正体は何だったのか。

 美容師たちのいうとおりに、すべてを現実的に解釈し、そして台なしにすることもできるでしょう。

 しかし、それなら、なぜ、「夕日の国」など見えたのか。しかも「ぼく」だけでなく、ほかの何人もが、それを目撃したのはなぜなのか、と……メルヘンorファンタジー的な解釈の余地も同時に残されています。


 現実と幻想のこの対立的な併存。

 この「二次元」的な構造が、本作品では、とりわけ印象的にきわだっています。

 それは、あるいは、夕日の国のイメージが鮮烈である一方で、本作では、スポーツ用品店だの美容院だの、安房さんの童話としては、リアリズム描写にもわりと力が入っているためかもしれません?

 現実にはありえないことを、実際にあったかのようにありありと――リアリズム的に――描き出すのが、佐藤さん的な「ファンタジー」の要件でもあったわけですからね……

 そういう点でも、佐藤さん的な意味での「ファンタジー」感が強まっているのかもしれませんし……安房さんの童話としては、やや異色作なのかもしれません?


 そういえば、安房さんの童話の場合(先述の「夢の果て」なども含めて)フシギ現象が起こる場合の色彩的シグナルは「青」の場合が多いですが、本作の場合、そこも「オレンジ」になっているのですよね。そういう意味でも、ちょっと異色なのかも……?


――――――


 今回は、以上、三作。


 佐藤さとるさんと安房直子さん、当方のすきな童話作家の双璧。いい年して童話を読みはじめたのは安房さんのせい、自分でも書いてみようなどと思い立ったのは佐藤さんのせい……ですが。

 こうして、あらためて見比べてみると、両者の個性はだいぶ違うというか、もしかするとファザコンとマザコンくらいは違いそうかもしれません?

 その両方にひかれるという当方の嗜好は、それでは、分裂なのか、バランスなのか。

 わかりませんが……

 個人的には、われながら、ナルホドナー、と、みょうな納得感もあった次第です。

(※あるいは、両極というのは、一見まったく違っているように見えながら、その実、比較が可能なくらいには同じ軸線上にのっているのだ、とでもいっておくべきでしょうか?)


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