古びる。
以前に書いた童話『きんいろのどんぐり』のラストシーンに、さらっと「縁側」が登場しています。
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これについては、のちに姉妹編『金色のどんぐり』で、カフェになってしまうレベルの「古民家」なので、ぎりぎりセーフだと思いますが……
しかし、そうした古民家というほどではない、昨今の、町なかの建売住宅に、「縁側」などというものは、あるのか?
そのあたり、気にかかったので、少し下調べをしたうえで、最近作『おばあちゃんのえんがわ』では、当初予定を軌道修正。
購入した住宅にもともとあった「縁側」ではなく、おじいちゃんお手製の「縁台」ということに、なりました。
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縁側だろうと濡れ縁だろうと縁台だろうと、プロット自体は成立しますから、したがってそこまで「本質」的な問題ではないとは思うのですが。
非本質的な、表層的な、ディテール的な部分では、やはり「イマドキ」というツッコミが、ありうるかも、とは、思ったわけです、はい。
メンドクサイといえばメンドクサイですが、しかしまあ、そのかわりというとナンですが、おかげで「空を飛ぶ」なんて展開にもしやすかったので、結果オーライでもありました(笑
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物語には類型というものがあって、本質的には、実は、バリエーションはそう多くはない。1000年前の物語も、プロップなりキャンベルなりその他もろもろの手法で分析してみれば、実は「同じ」お話だったりする、などということは、わりとよくあることかと思います。
そういう意味では、物語に古いも新しいもない。あるいは永遠に古びたりしない。永遠に新しい。ともいえるかもしれません。
しかし、それは、あくまで、「本質」についての話。あるいは「類型」についての話。
いわゆるひとつの「美は細部に宿る」として、その「細部」の意匠なり何なり、表層的なディテール的な部分は、当然に、時代の制約を受けて、「新しい!」と褒められたり、「イマドキ古臭い」と笑われたり、新しすぎて理解されなかったり、いろいろ、するのでしょう。
時代がどんなに変わっても、本質は変わらない。表層的な部分が古びても、名作傑作はいつの時代にも通用する……というのは、その通りではあるし、そうであってほしいとも思いますが。
場合によっては――本質的には傑作なのに――表層的な部分が古びてしまった結果、理解しにくくなってしまう。そして残念ながら読まれなくなってしまう、といった作品も、出てきてしまうのかもしれません。
たとえば、ワタクシゴトですが、先日、安房直子さんのとあるエッセイで興味をもって、宮口しづえの短編集を一冊読んでみました。
内容的には、山村の子どもたちの姿がいきいきと描かれていて(多少、きれいすぎる気もしましたが、一方では、さもしさとか、うらぎりとか、気恥ずかしさからの八つ当たりとか、いろいろちゃんと観察・描出されていましたし…)、さすが安房さんがほめるだけのことはあると感心したのですが……
ただ、いかんせん、時代背景が、昭和どころか、著者の子ども時代の回想などは大正時代でもあったりするようですから、すれすれで民俗学の領域。大人ならともかく、令和の子どもたちが、注釈なしに理解するには、少々きびしいものがあるかもしれない、とも、残念ながら、思えました。
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宮口しづえは、さすがに、すこし極端な例かもしれませんが……こうしたことは、ほかにも、しばしば、あることなのかもしれません。というか、作家もまた時代の子である以上、必然的におきうることでしょう。
ファッションなどはその最たるもので、うかつに当節流行の装いなど登場させてしまったら、あっというまに古くなります。特定の時代性を表現したいならあえてそれをねらうという場合もあるでしょうが、そうでないなら、あくまで架空の流行にしてみたり、具体的なブランド名をさけて「かっちりしたかたちの~」とか「ラフな印象の~」などの形容ですませる作家さんもいたとかいなかったとか?
マンガ・アニメのキャラクターなども、むかしむかしはいつもおなじ服しか着ていなかったものを、最近はずいぶんおしゃれになったものですが、それはそれで、あっというまに古びたりしてしまうものかもしれません。
家電などもそうですね。
たとえば、昭和の電話事情。それをつかった待ち合わせや、すれちがい、といった展開も、このスマホ時代にはなかなかやりにくかったりするような話は、ありがちですし……
児童文庫にうっかり「電話ボックス」なんて登場させた日には――いまはまだ完全に絶滅したわけではないとはいえ――それだけで「?」になってしまう世代というのも、生まれてきつつあるのかもしれません?
(そういえば、文学ではないですが、サ〇エさんなんて、いま、どんな電話を使ってるのでしょうね? たまに、時代を超越したアイテムの混在がSNS的にネタになっていることもあったりするとかしないとか小耳にはさみますが…)
那須正幹さんのズッコケ三人組シリーズなども、ケータイ・スマホがあれば成立しないような話が、いくつかくらいはあるかもしれませんし、以前にふれた初期作品『ぼくらは海へ』に登場するスパルタ式学習塾など、令和キッズの理解を超越してしまっているかもしれません。
小学生が学校の窓から労組に声援してしまう古田足日の『宿題ひきうけ株式会社』などもですね。
童話ではなく、少女小説というか、いまでいうラノベの話ですが……少女向けの小説といえば吉屋信子とかだった時代に、それはそれで夢中で読みはしたけれども、さすがに農地改革はないだろう、ジェネレーションギャップが~ということで、コバルト文庫的な少女小説が登場してきたというか、自分で書くようになった、と、どなたかがどこかでお話しされていたのを読んだような記憶もあります。
(どの作家さんだったか、「たぶん」ていどにはおぼえているのですが、それも不確かなので、うかつにお名前をあげるわけにもいかず恐縮です……)。
ほかにも、以前に「写経」した名作絵本『はじめてのおつかい』の個人商店なども、令和の今では、たんに「昭和」というより、むしろ「昭和レトロ」とでもいうべきものになりつつあるかもしれませんし……。
当方のすきな安房直子さんだって、ココロのシショーな佐藤さとるさんだって、ファンタジー童話だから目立ちませんが、生活感覚がにじみだす場合には、やはり、当然ですが、昭和のそれにならざるをえないわけで……
スルーできるならそれでいいですが、しかし、万一、そうしたジェネレーションギャップ的なものが、理解や、新規読者の獲得のさまたげにでもなってしまうとしたら、こんなにもったいないことはありません。
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大人の読者であれば、そうした古さを「カッコに入れて」読むこともできるかもしれませんし、かえってノスタルジーを味わえるくらいのものかもしれません。書き手にしても、意図的に特定の時代を舞台にしたい場合もあるでしょう。時代の刻印は、時代性の表現にもなりうるかもしれません。
一般小説ならそれでいいようなものかもしれませんが……
しかし、第一義的に子どもを読者とする童話・児童文学の場合、時代や世代のギャップは……どうなのでしょうね? 敏感なのか、かえって鈍感、キニシナイ、なのか?
子どもというのは、経験の絶対量が少ないぶん、知らないことはすなおに「そういうもの」として受けいれてくれそうな気もしないではありませんが(そして後日になって現実を知って「ハナシガチガウ」と…空地の土管とか)、よく知っていることについては、やたらキビシそうですよねえ(笑
そうそう、冒頭の「縁側」についても、そういえば、那須正幹さんの『衣世梨の魔法帳』(全6巻)に「濡れ縁」が登場している例がありました。
とくに田舎とか、旧家とか、古民家とかいうわけでもない、住宅地にある主人公の家に、さらっと、ふつうに、あたりまえのように、「濡れ縁」があるのですが(主人公が、その濡れ縁の脚に、犬をつないだり、していたのですが)……
これなども、令和の子どもの目には、どううつるのか?
第一巻の刊行が2005年。一丁目と二丁目は20年前に山を崩して造成、三丁目と四丁目はそれより遅れて10年前に造成スタート。主人公一家はいちばん新しい四丁目に6年前にひっこしてきた……という設定だったかと思いますが。
そのころには、まだ、新築戸建てにも濡れ縁があった。もしくは、濡れ縁を登場させても違和感を感じる読者は少なかった、ということでしょうか。
現実的には、そのころには、すでに、縁側や濡れ縁など、新築にはだいぶレアになっていたのではないかという気もしないでもないですが……まあ、「現実」と「イメージ」には、タイムラグもあるでしょう。
ときに衝突し不協和をもたらすことがありうるのは、そうした「現実」と「イメージ」ではなく、書き手と読者、双方の「イメージ」同士のほうだともいえるかもしれません。
だからこそ、とらえどころがなくて、困るのかもしれませんけどね(汗
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どうにもメンドクサイうえに、せっかくの作品が古くなってしまうなどと、景気もよろしくない話で恐縮ですが……
しかし、まあ、古くなってしまうのは、あくまで表層。うわっつらに"すぎない"ともいえるわけで……
何より大切なのは「本質」のほうなのですし、その「本質」は不変なのですから、その本質をよりよく伝えるために、表層については――うわっつらに"すぎない"ものは――いくらでも、何度でも、刷新し、更新し、リニューアルしていけばよいのかもしれません。
そういえば、以前、辻駕籠を人力車に、人力車をタクシーに、と、つぎつぎのりかえてきた幽霊など、フォークロアの話をしたことがあったかと思いますが……
時代の変遷というのは、なにも創作童話にかぎった話ではなくて、民話、都市伝説、口碑、フォークロアのたぐいにも、ありうること。
古びてかえりみられなくなるお話も当然にある、その一方で、時代に応じてアイテムを更新、リニューアルしながら生き永らえていく物語も、つまり、また、あるわけです。
タヌキなども、明治になると汽車に化けるようになったとか、松谷みよ子さんの指摘するところ。
こうしたフォークロアのたくましさには、創作童話の書き手も、見ならうべきものがあるかもしれません?
流行おくれのファッションも幽霊さんなら亡くなった時代を特定するのにつかえるかもしれませんし、スマホがらみの幽霊だってネットの都市伝説には、とうの昔に登場しているでしょう。
いずれ、近いうちには、タクシーならぬ、ライドシェアを利用する幽霊さんが登場してきたりもするのかもしれません?
利権がどーたら規制がこーたらの日本では、当分、ムリかもしれませんけどね(笑




