赤い民話
民話というと「むかしむかし」。
しかし、現代の今この瞬間にも、「民話」は生まれつづけている、と、松谷みよ子さんは語っていました。
そしてそれら「現代の民話」は、表面は現代的なよそおいをまとっていても、その実、むかしながらの民話の類型を踏襲しているのだとか。
たとえば、夜に幽霊を乗せたタクシーの怪談などは、まったく同じ話が明治時代には人力車のそれとして語られていたかもしれませんし、江戸時代には辻駕籠のそれとして語られていたかもしれません。というか語られていたそうです(※手もとに出典が見つからなくて恐縮ですが、松谷さん自身「目的地に着いた駕籠屋が垂れを上げると誰もいない。さては、という話がよくあった」というようなことを書いていたとかいなかったとか)。
――――(引用ここから)――――
整理してみると、何気なく語られている話が一連の話型を持ち、その話型は突然生まれたものではなく、遠いはるかな昔に語られたものをふまえていること、地域にひろがりがあること、ほんとうにあったことだよと語られていること、などがある。
(松谷みよ子『現代の民話 あなたも語り手、わたしも語り手』より)
――――(引用ここまで)――――
上の引用によれば、それら現代の民話のもうひとつの特徴は、「ほんとうにあったこと」として語られることだそうですが、松谷さんはこれを、語り部の口調から、「あったること」と呼びならわしていたようです。
当然ですが、「あったること」イコール「事実」という意味ではありません。
あくまで、「あったること」「として語られる」「フィクション」です。
口裂け女のような都市伝説も、トイレの花子さんのような学校の怪談も、いかにも「あったること」として語られますが、実際に、現実に、そんな妖怪が実在するわけではありません。
どこまでいっても、実録「風」、実話「風」、事実めかしてよりいっそうフィクションを楽しむ手口。
と、わかったうえで賞玩するのが大人の作法。
小学生ならかわいいもので笑い話にもなりますが、いい大人が口裂け女や花子さんの実在を本気で信じておびえていたら、それこそユング派のカウンセリングでもお受けになったほうがよいでしょう。
にもかかわらず……
その「あったること」としてかたられる「フィクション」の収集作業の中で、松谷さんは、ある一群のナラティブについてだけは、その規範から逸脱して、掛け値なしの「事実」だと主張したりもしていたようです。
以下、前掲書からとびとびに引用。
――――(引用ここから)――――
このように、戦争による残酷さ、あるいは権力による、あるいは天災による人びとの苦悩は、事実を語ることによって、伝承の重みをたしかなものにするように、私には思われる。百万言の説明よりも、実感のこもった事実が、まざまざと非条理なできごとを浮かび上がらせるのである。(P151)
このとき私は卒然として、被害者の戦争だけを語ってはいけないと悟った。しかし女性である私が、加害者としての戦争をどのように実感としてとらえることができるか……。
(中略)
これは「現代民話考」の仕事としてやるしか方法はないと思った。(P155)
原爆の話、収容所の話、引揚げの話、いや、もっとさかのぼって思想弾圧の話。かずかぎりなくある証言を、そのまま語っていくことが大切だと思うのである。長々語る必要はなく、事実を短く語る。それは聴く人の肺腑に迫り、心の奥深く残るのではないか、と思うのである。(P158)
事実はそのとき民話としての形に近づくのではないだろうか。ごく短く、事実を述べる。それも現代民話の一つの側面である。(P158-159)
(松谷みよ子『現代の民話 あなたも語り手、わたしも語り手』より)
――――(引用ここまで)――――
たいそう力説されていますが……
しかし、「事実」を「民話」として収集するということ、「事実」と「民話」が接近するということは、ほんとうのところ、何を意味するでしょう?
そのような不用意な接近は、むしろ、単なる「混同」を生むことになるのではないでしょうか?
事実と虚構、ホントとウソの垣根がとけてなくなる、という結果に、なるのではないでしょうか?
それは、正直者よりもむしろ、ウソツキどもにとってこそ、都合のよい状況を生むのではないでしょうか。
クソとミソをいっしょにすれば、ミソのほうが食べられなくなるだけのことではないでしょうか。
それは「伝承の重みをたしかなものにする」どころか、「事実」の信憑性を「伝承」のレベルに引き下げることにもなるのではないでしょうか。
ゾウをなでるのたとえのとおり、そもそも何が「事実」であるか、その認定さえ困難であるとするならば、なおさらです。
松谷さんが列挙されている「事実」のなかには、本物の事実も含まれてあるのかもしれません。
しかし、もしもそこに、作為的な虚偽話が、まぎれこんでいたとしたならば……あるいは、くりかえし語られるうちにいつか尾ひれがつき、そこに事実よりも誇張や隠蔽や、願望や作為さえ混入してくるとするならば……
それら歪んだ「事実」の種からは、いったい、どんな「民話」の花が咲くのでしょう? 結実するのは、毒の実ではないでしょうか?
それら「民話」と区別のつかない「事実」をもって、(上の引用中にもあるように)加害者が被害者がという応酬に関与するというなら、その内容のいかんによっては、善意の収集者こそ、とんでもない「冤罪」に加担することにもなるかもしれません。
また、その冤罪の冤罪性が暴かれたときには、同時に列挙された他の語りの事実性にも、当然、疑いの目が向けられてしまうのではないでしょうか。
そして、実際、松谷さんが例示されているそれら「事実」のなかには、以下のようなものが、含まれているのです。
――――(引用ここから)――――
何も知らないで部隊に入ったら要塞のような建物がつくられており、入るとすぐノミの工場へつれていかれた。何億というノミが飼われ、カゴに入れたねずみをエサにやると、ノミが一斉にとびかかりあっというまに白骨となる。(P156)
(松谷みよ子『現代の民話 あなたも語り手、わたしも語り手』より)
――――(引用ここまで)――――
松谷さんいわく、731部隊に入った隊員の証言、だそうですが……
「あっというまに白骨になる」って何でしょう? 『怪奇大作戦』か何かですか? むしろ『ゴジラ』ですか? オキシジェンデストロイヤーでしたっけ?
でも、ノミですよね?
長い口吻で血を吸う、あのノミですよね?
血を吸うだけで肉も皮も食べないのに、どうやったら、一瞬でえものを白骨化できるのでしょう?
(※生物の「死体」を白骨化させるムシならば、別に存在しますが、それだって「あっというま」ではないでしょう。また、それら死肉食の昆虫が、生きた獲物を狩るというのも、ふつうはありえない話かと)。
つまるところ、731部隊がそういうノミを遺伝子操作か何かでつくったとでもいうのでしょうか?
帝国陸軍のバイオテクノロジーすごいですね。
日本驚異のメカニズムですね。
――ということで、ほんとうに、いいですか? それをそのまんま「事実」認定しても?
むしろ――
現代の民話が、松谷さんのいうように「一連の話型を持ち」「遠いはるかな昔に語られたものをふまえている」とするならば、この731部隊の「民話」もまた、なんらかの先行する「話型」をふまえているのではないか?と、そう問うてみたほうがよいように、当方などには思えます。
実際、「魚があっというまに白骨になる」場面なら、前述の『ゴジラ』に登場するフィクションの「話型」としても、あるわけですし……
その方面の教養がないので、確認もできませんが、中国古典の怪異譚にだって、それに類した「白骨化」の場面のひとつやふたつくらい、あってもよさそうな気もします。
それでなくても、敵の悪魔化は戦時プロパガンダの常套手段。
「敵は邪悪な××兵器を開発している」といいがかりをつけて自分たちの攻撃を正当化するというのも、それら悪魔化のためのありふれた「話型」のひとつでしょう。
ブッシュ政権のアメリカはフセインのイラクに対してこれをやりましたし(核開発疑惑)、プーチンのロシアは現在進行形でウクライナに対してこれをやっているのだとか。
(※参照:朝日新聞「ウソを意図的に流すロシア 生物兵器をめぐるプロパガンダと長い歴史」https://www.asahi.com/articles/ASQ3K5PXVQ3HUHBI01D.html )
せっかくの民話収集が、こうした戦争プロパガンダと本質的には大差ない風説の流布におちいるのなら、それこそ、本末転倒。
それらを「事実」としてありのまま語っていくとき、聴く人の「心の奥深く残る」ものは、ほんとうには、いったい、何になるのでしょう?
それら「話型」の坩堝の中で、「731部隊」もまた――もっというなら「帝国陸軍」や「日本」さえも――「口裂け女」や「トイレの花子さん」と大差ない、幻想的な恐怖のイコンとして、容易に煮詰められていくのだと……
そして、幻想的な恐怖は、妄想的な憎悪を煽り、偏執的な敵意をもたらすことにもなるのだと……
……いうようなことには、ならないのでしょうか?
松谷さんのいくつかの仕事を拝読して、フォークロアへの関心を再燃させたこともある当方としては、正直、フクザツなものを感じるのです。
※追記:
なお、松谷みよ子さんは、民話収集にあたって「視点」の必要性を説いていたことがあります。たとえ民衆によって語られていたとしても、「民話」として後世に残すべきではない伝承というものはある、と。
したがって、誰かに冤罪を着せるフィクションであっても、ひとたび語られた以上は「すべて」を収集すべきだ、という擁護は、松谷さんに関しては、成立しないものと思われます。
――――(引用ここから)――――
もし、私たちが民話という言葉をもって、もう一度考えようとするならば、ただいま伝えられたものをそのまま次の世代に渡していくのではなく、必然的に、そこには視点が必要となってくるのではなかろうか。民衆が同じ民衆を差別する話、それをも民話に含めてはいけないのではないだろうか。差別された側の民衆が差別をはねのけていく、その視点こそが民話の本来の姿なのではないだろうか。
(松谷みよ子『民話の世界』より)
――――(引用ここまで)――――
しかし、この「視点」とは、容易に「統制」の視点に転化しうる/しがちなものではないでしょうか? 恣意的なダブスタにも、容易に陥りうるものではないでしょうか?




