「GMは見ている」
最近はサブスクが便利になって。
要介護の母にむかしの名作劇場など見せてやったりもしていますが。
たまには自分も、古い映画やアニメなど見てみたりすることがあります。
先日は、ン十年ぶりでしょう。竹宮恵子原作のアニメ映画など二本たてつづけに視聴、気分はすっかり80年代です(笑
『地球へ…』の劇場版と、『アンドロメダ・ストーリーズ』ですが……
考えてみれば、これ、どちらもディストピアSFといっていい内容で。SFのディストピアにはマザーコンピュータがつきもので……
つまるところが、これもまた、この連載でおなじみの、ユング的なグレートマザー・モチーフの変奏かしらん?などと思ったりもした今日この頃。
この二作に限らず、まだソ連が元気だった80年代以前には、マザーの支配を逃れて自立しよう、自由バンザイ、みたいな主題の作品が、ちらほら、ありましたね。
この連載でときどきふれる『銀河鉄道999』なんかも、ラスボスはグレートマザーですし……
竹宮恵子と並び称されることもある萩尾望都なども、光瀬龍の『百億の昼と千億の夜』をコミカライズしていて、「ゼン・ゼンの神」なんてものが(一部エピソードにですが)登場していました。
眉村卓の『時空の旅人』がアニメ化されたとき(キャラクターデザインがその萩尾望都でしたが)未来社会の描写はかなりのディストピア風味だったかと思います。
それら、元をただせば、60年代の手塚治虫『火の鳥未来篇』あたりにでも、たどりつくのかもしれませんが……
それらのマンガ・アニメの描写に共通しているのは、それらディストピアが、ほんらいは、善意に満ちたユートピアを意図している点であって……その采配をふるうのが「マザー」だというのですから、過保護な母性のユートピア/ディストピアという、それ自体、まさにユング的な両義性です。
久しぶりに、そんなアニメを、サブスクで見て、それは、それは、おもしろかったわけですが……
しかし、こうした作品をみようと思ったら、わりと、古い作品をさがすことになってしまうということは、つまり、昨今は、もう、これ系のマザコン・ディストピア(からの自立の主題)は流行らないのでしょうか?
母殺しや自立ではなく、胎内回帰やママのおっぱい云々。女神にチートもらって云々以下略の時代なのでしょうか。
需要があるなら、供給があるのも、まあ、よしですが……
しかし、潮目はいつ変わったのか?
そこはすこし気になります。
やはり――上でもさりげなくふれておきましたが――過去には、ソ連なる巨大なディストピアの存在が、脱出・自立の主題の説得力を担保していたという面もあるのでしょうか。
その現実のディストピアの喪失が、同時に、フィクションにおけるアンチ・ディストピアの主題の喪失をも、意味していたのでしょうか?
ソ連崩壊、バブル崩壊……
だとしたら、この連載で何度もふれたプチ心理学ブームの時代――イニシーエション不全の時代の開幕――とも、重なり合う時期でもあって、もしもそうだとしたら、当方にとっても、他人事ではないかもしれません?
https://ncode.syosetu.com/n7715ll/8/
あの時代に、昭和のチシキ人は、大きな物語の喪失、などと、したり顔に語っていたかもしれませんが、実は、ほんとうに深刻だったのは、グレートマザーから自立する子どもたちの成長の物語――小さき者の物語――の喪失のほうだったのかもしれません?
もちろん、根本的に当方のマトハズレかもしれませんが(笑
しかし、実際、ジョージ・オーウェルであれば「ビッグ・ブラザーが見ている」になるところの全体主義的ディストピアが、日本のマンガ・アニメにあっては「グレート・マザーが見ている」かのような過保護的システムになるという……個々の作家が示し合わせたわけでもないであろう、この偶然の一致は、それ自体、何ごとかを物語っているかのような気がしないでもありません。気のせいかもですが。
ユング派の河合隼雄が母性社会云々などとのたまう、日本人・日本社会にとっては、全体主義のイメージさえも、父権的ではなく、母性的なものになるのでしょうか。
戦時中の疑似的な家族主義(それこそ河合隼雄にいわせれば、あれも母性的なものであって、日本の父は戦前戦中においてもやはり母性社会の枠内で以下略)や、また、戦後にあっても左派政党の過激化にさいして「婦人部(および青年部)」がはたした役割など、思い合わせると……なんとなくですが、そういうこともありそうな気がしてこないこともありません。
してみると、サブカルチャーにおいて、ディストピアSFが、たいして流行らなくなった(かどうかホントのところは知りませんが)昨今というのも……
ソ連なる外部のディストピアの喪失というより、むしろ、そうした「婦人部」的価値観の内部増殖――失われたン十年なる日本国内のディストピアの伸張・発展――のほうにこそ、原因を求めてみるべきかもしれませんし、あるいは、その両者はパラレルだったりウラハラだったりする現象であるとも、見てみることができるのかもしれません?
ディストピアが描けない≒対象化できないのは、われわれ自身が、福祉国家という名のやさしい過保護な母性のユートピア/ディストピアに首までどっぷりつかっているから……などということでなければよいのですが。
「かわいそうな子どもたち!」というのは、これもまたディストピアものの古典、オルダス・ハックスリー『すばらしい新世界』の皇帝のせりふだったでしょうか?




