赤い児童文学
子どものための文学というのは、子どもが子どもでいられる時代・社会――子どもが余暇をもつことができる時代・社会――つまるところが経済的に豊かな時代・社会――でしか、成立しえないジャンルだとか。
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児童文学は、子どもが子ども独自の"時代"をもち、その時代独自の読みものを必要としていると考える文化のなかからしか生まれない。だから、世界を見わたすと、「子ども文化」などという贅沢なものが生まれる余地のないところもある。「一九世紀に植民地をもつくらいに大きな国力を有する国々でなければ、児童文学は育たなかった」といわれるくらい、経済力と文化的余裕のたまものなのである。
(川端有子『児童文学の教科書』P10)
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で、あるならば、社会の貧困化――「経済力と文化的余裕」の喪失――は、童話作家・児童文学作家にとって、文字通りの死活問題。端的に読者の喪失を意味しているわけで、なんとしても阻止すべきものということになるのではないでしょうか。
にもかかわらず……
昭和はもとより、おそらくは平成も(もしや令和も?)、児童作家のかなりの部分が、それもそうそうたる面々が、ひとにぎりの権力者以外のすべての人民を平等に貧しくする――「経済力と文化的余裕」の喪失をもたらす――社会主義・共産主義に傾倒していたらしく思えることは、いまからふりかえると、なかなかに奇異な光景ではあります。
たとえば、古田足日の『宿題ひきうけ株式会社』は、いかにも小学生受けしそうなキャッチーな題名ですが、その肝心の「会社」は、第一部で解散してしまいます。
じゃ、第二部、第三部では、なにをやるんだ?といえば、いわゆるひとつの労使交渉です(アニキの会社で首切りが~、今日組合の人がうちに集まるんだ云々……)。
第三部のラストシーケンスは"子どもたちが小学校の窓から労組のデモに声援をおくるエンド"です。
松谷みよ子なども、「北の大きな国」への憧憬が目立つ作家さん。
民生局がケーディスがピンカーズが云々という初期GHQの政策を「民主主義」と呼んでみたり、それが逆コースで失われたと嘆いてみたりというくらいには、左向きのバイアスが強かった作家さんだったようでもあり……その他、ことばの端々に昭和左翼風味を感じるケースは、枚挙にいとまもありません(松谷みよ子『民話の世界』『現代の民話』『現代民話考』などなど参照)。
作家として、民話収集者として、まちがいなく、すぐれた方だっただけに、その業績のはしばしに、社会主義・共産主義のにおいを感じるたび、ふしぎの念にうたれるのは、はたして、当方だけでしょうか?
(童話の中でまで、幼女をつかって「センソーハンタイ」とか政治利用みたいなことをやられると、昨今なら、辺野古の活動家なども連想させられたりするのですよねえ…)
ズッコケシリーズで有名な那須正幹さんなども、共産党への期待や支持を複数回、表明していたことで知られているようですが、これなどは、ソ連崩壊後の二〇〇〇年代の話です。
文学畑ではないですが、児童向けの良心的なアニメ作品で知られる宮崎駿や高畑勲が、思想的には社会主義・共産主義ということも、よく知られているでしょう。
なぜそうなるのか?
それぞれの作家さんには、それぞれに、理由なり経験なり、あったのかもしれません。
しかし、そうした個別事情に還元するだけでは、こうも軒並み、という説明には、足りないようにも思います。
そういう時代だった、と、いってしまえばそれまでかもしれません。
世界中の知識人がむかしは共産主義にハマっていたんだというなら、まあ、そうなのかもしれません。
しかし、そうなると、なおさら、数少ない「例外」が、異彩をはなって見えてきたりもするわけで。
当方のかってにココロの師――佐藤さとるさん――なども、そうした"時代"に左右されなかった――少なくとも、作品の表現には、あらわさなかった――ひとりだったのかしらん?と思えば、あらためて、驚嘆させられたりもするのです。
――――(引用ここから)――――
近ごろ、道徳講話まがいのうすっぺらな教訓童話は、さすがに影をひそめているが、それと同程度のうすっぺらな公害童話や平和童話やイデオロギー少年小説がはびこっているように見える。文学だから何を書いたっていいが、文学どころか、文献的価値もないようなものは、どう考えたっていただけない。
(佐藤さとる「ファンタジーの世界――6児童文学について」(講談社『佐藤さとるファンタジー全集15』所収)より)
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佐藤さんだって、佐藤さんなりに「時代の子」ではあっただろうに、と、思うのですけれどね。




