一行でいうと?
古人いわく「美は細部に宿る」
まことにもってそのとおり。
したがって、
「セーラ」は「シンデレラ」だの、
「バスチアン」は「赤ずきん」だの、
はたまた、ガミラスという妖怪どもを倒しながら、イスカンダルなる天竺まで、コスモクリーナーというありがたいお経をもらいにいくという『宇宙戦艦ヤマト』は「西遊記」だの、
その他その他……
ゆたかな細部を捨象して、その構造=骨組みだけをとりだしてみせてドヤ顔するというのは、雑な話にはちがいないかもしれません。
しかし、「美」がやどるのが細部だとして……
それでは、「美」以外のものは、どこに宿るのか?
たとえば、「理」は?
「理」が宿るのは、細部というより、全体の構成・構造であったりはしないかしらん?
ゆえに・ならば・したがって・なんとなれば……
……こういった「論法」には「構造」があるのではないかしらん? むしろ、構造を構築するのが、論理というものの機能ではないかしらん?
などと思ったりもする今日この頃……
たとえば、三段論法なんてものは、三段オチといっていいような構造――物語構造――に近いものさえ、もってはいないでしょうか?
大前提:液体は方円の器にしたがう
小前提:ねこは方円の器にしたがう
結論:ねこは液体である
とでもくれば、もはや「どっとはらい」とでもつけたしたくなるような「話」の流れ。起・承・転、じゃないのか、これ、というかなんというか……
物語作品もまた、こうした「論理」の「構造」を、なんらかのかたちで、もつものであるとするならば――細部を捨象してその構造だけをとりだしてみるという作業にも、一分の理くらいはあるのではなかろうかと……。
そして、また、当方も一応そのハシクレであるところのいわゆる実作者にとっては、そうした作業にも、たんなるヒョーロン家さまとはまたちがった意味があるのではなかろうか……。
……などと、思ったり思わなかったりしないでもない今日この頃。
実際、ハリウッド式の映画シナリオ作法の世界などでは、映画の内容を「一行であらわす」などということも行われているとかいないとか?
「ストーリー」以前の「プロット」の、さらにもっと以前の「ログライン」。
――――(引用ここから)――――
私はこれまで数多くの脚本家と話をしてきたが、プロでも素人でも、脚本を売りたいと言ってきたときには、ストーリーを聞く前にまずこの質問をする。「一行で言うとどんな映画?」不思議なことに、脚本家というのは脚本を書き終えた後でこれを考えることが多い。(中略)つまり、どんな映画なのかひと言で説明できないのである。一〇分以内でストーリーの核心部を説明できないのだ。
いやあ、まずいよ、それは!
(ブレイク・スナイダー『SAVE THE CATの法則』より)
――――(引用ここまで)――――
「ログライン」の何たるか、なんて、あんまり長々と引用してもいられませんが……
まあ、たとえばの例をあげてみるなら、
「将軍サマがおしのびで悪人を成敗する話」とか、
「天下の副将軍サマがおしのびで悪人を成敗する話」とか、
「お奉行さまがおしのびで悪人を成敗する話」とか、
そんな感じの一口まとめみたいなことになるのですかね?(ちがうかも汗)
その例、全部いっしょじゃねーか、と、声が聞こえてきそうな気もしないでもないですが……
(スナイダーの本にはもっとちゃんとした例がいろいろ載ってるので読んだらいいと思うのデス)
しかし、時代劇以外でも、たとえば変身ヒーローなんて、キホンは正体かくしてるやつばっかりなので、やっぱり「おしのびで**を成敗する話」だらけだよなという、偉大なるマンネリの世界。
もちろん、ログラインをまとめる切り口というのはひとつではないでしょうから、全身タイツのマッチョメンのおしのび成敗ストーリーが、同時に、ユング式のイニシエーションの物語だったり、過去のトラウマ克服物語だったり、ロミオとジュリエット的難題純愛物語だったり……その他その他であってもぜんぜんいいわけですが、そのそれぞれもまた、畢竟、偉大なるマンネリ的な王道プロットだったりするのが、いわゆるエンタメというものではないかしらん?
実際、スナイダーに言わせれば、「同じだが違うものをくれ」が興業サイドのご意向。
「違う」が「細部」なら、「同じ」は「構造」――
所詮、普遍的無意識に"ささる"のは、ひたすらつねに「同じ」パターン。ワンパターンの永久機関。永劫回帰のワンパターン。
ログラインというのは、その構造を可視化したものとでも、いっておくべきなのかもしれません?
ゆえに、したがって、だとするならば……
苦心のケッサクをつかまえて、「あー、要するに○○のパターンね~」と一行で片づける、キラワレモノのパターン認識定型文も、裏を返せば、このログラインを見抜いているともいえないことはないかもしれず……
さらにもっかい裏返すと、ログラインが明確に見て取れる作品ということは、ログラインを見失って何がやりたいんだかさっぱりわからないグダグダ作品よりは、むしろマシということにもなるのかもしれません?
有名な作品に、著名な昔話の「パターン」=「構造」を見て取るという、ここ一連のこの連載の作業も、したがって無駄ではないというか、むしろ、そんな作業にとりくんでいる、ワタシハエライ、といっていいのではなかろうかと……自分にいいきかせる今日この頃。
プロップ式の物語素ではないですが、昔話のよくあるパターンのひとつふたつを、多少なりとも意識できるようになってみると、作品の読み方も書き方も、いろいろ、ふくらんできたりしないものか――などと、妄想したりもしてみるわけです。
追記1:
たとえば、とある対談によると、安房直子さんのいちばんの愛読書がまさにグリム童話だったようにもお見受けしますが、そこから逆算してみると、安房童話の楽しみ方がひろがったりしないかしら?
とくに安房さんの場合、たんに「あー、これはあのパターンだわ」というだけでなく――以前、「写経」のときにでもさらっと触れたことがあったかもしれませんが――昔話のパターンを大いに取り入れながら、逆にそのパターンをうまく外してくるようなものも、あったりしたようにも思うので、なおさらです。(異類との約束をやぶったのにしっかりちゃっかりハッピーエンドになったりとか?)
そのパターンの外し方も、初期の作品の場合は、違和感になっていたこともあったかもしれませんが、後々の傑作群になると。ちゃんと面白さに結びついていたりする(ような気がする)ので、舌を巻くしかなかったり……するのですよねえ。
追記2:
グリム童話自体にも、「二人兄弟」など、複数のプロットを接合して長編化したような、合成昔話みたいなものがあったりして……ちょっと章立てとかしてくれませんかね?という気分にさせられたりすることがありまして、それはそれだけ、こちらが「構造」を意識しているということかもしれません?
複数のプロットの接合=複数のログラインの併存ということで、「そのお話ここで終わりでしょ?」なポイントが何回も何回も出てくるんですよねえ、「二人兄弟」。……でも、終わらない。ゴールだと思ったら第一チェックポイントでしかなかった、しかもチェックポイントの看板も出てるわけではないという、鬼畜マラソン状態だったりします。
まあ、そのへんについては、またつぎの機会にでも?
この連載も、もそっとマジメに「章立て」しろよって、ブーメランかもですしね(笑




