赤ずきんの父――「かみかくしの木」について
童話一本書きました。
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赤ずきん赤ずきんという、ここのところの一連の世迷言は、つまるところ、これを書くためだったのか、というかなんというか(笑
ぼうやが母離れという「成長」のステージにいるとすれば、お父さんがいるのはぼうや救出という「活躍」のステージ。
ぼうやが母胎の中へ"行って・帰ってくる"物語であると同時に、お父さんが沼に"行って・ぼうやをとりもどして・帰ってくる"物語でもあるわけでしょう。
夢や昔話において、森というのは、しばしば無意識の領域をあらわしているとかナントカ……とすれば、今回、そうしたユング派的な定式にも、いちおう、ちゃんと、のっとっているようでもあります?(それこそ無意識のうちに?)
以前も考えたように、「成長」と「活躍」は、同じ一人の主人公の、同じ一つの「旅」の別々のステージなのだとしても……
その二つは、単に時系列的に並立しているだけではなく、常にかどうかはわかりませんが、ときに、入れ子的に噛み合わさっていることもあるようです?
猟師の「活躍」が同時的に赤ずきんの「成長」をもたらすものでもあるように――。
『はてしない物語』におけるアトレーユの「活躍」が、第一部においてはバスチアンを学校の物置き部屋からファンタージェンに「連れだす」ことであり、第二部においてはバスチアンの成長≒ファンタージェンからの「脱出」を後押しすることであったように――。
猟師の「活躍」とは、すなわち、赤ずきんを「成長」させることそのもの。それが大人の、なかんずく「父」の役割というものかもしれません?
そして、ルネ・ジラールではありませんが、結局のところ、人間は「まね」をする生き物。
ならば、幼い誰かを「成長」させてやるためには、すでに「成長」しおえている誰かが――大人が――その「活躍」を見せてやる必要がある。ロールモデルになってやる必要がある、とも、言いかえることができるかもしれません。
いわゆるひとつの、子どもは親の背中を見て育つ、というやつでしょうか。
だとしたら、あたりまえみたいな話です。
話ですが……
それができる「大人」が、いま、どれくらいいるでしょう?
以前、この連載でも書いたように、イニシエーション不全は、時代の、社会の、病弊であるような気もします。
https://ncode.syosetu.com/n7715ll/8/
30年来の宿痾として、イニシエーションの不全感をかかえている当方が、当時、切実に欲していたものこそ――そして当時の「大人」が見失ったものこそ――まさにそのロールモデル≒「父」の「活躍」の提示、だったのかもしれません。
それが単に時代的なものだったのか、あるいはそれこそ河合隼雄がいうように「母性社会日本」に本質的につきまとう困難さなのか、そこまではわかりませんが……
つまるところ、今回にせよ、冬童話2026にせよ、当方がしばしば"父親が活躍する童話"を書いてしまうというのも、それだけそれを欲しているから――欠落を感じているから――という、そんな理由なのかもしれません?
――――(引用ここから)――――
私たちの多くは、父親を失ってしまっています。父親たちは私たちを物理的にも精神的にも置き去りにしたのです。私たちの傷ついたインナーチャイルドは絆を結ぶ父親がいないために、母親との結びつきを断ち切ることができないのです。父親との絆を結ぶことなしに、あなたのインナーチャイルドは、男性から男の愛情を感じることはできません。
(ジョン・ブラッドショー『インナーチャイルド』)
――――(引用ここまで)――――
……。
…………。
と、ここで終わっておけばきれいにまとまるかもしれませんが(笑
ただ、以前も少しふれたことですが、いわゆる「昔話」には、そこまでストレートに「父」そのものの活躍を描いたオハナシは、意外と少ないかもしれません?
(だからこそ、だったら自分で書いてしまえー、とも、なるのかもしれませんが)
昔話に登場する「父」といえば、継母の継子イジメにも気がつかないマネケだったり――
または継母の継子イジメを知っていながら止められない弱い父だったり――
あるいは、主人公自身の実父ではなく、難題求婚譚の姫側の父親だったり――
などなど、することが、わりと多いというか、目立つのでは?という気がしなくもありません。
(「ヘンゼルとグレーテル」の父親なんて、なにか善人面してますけど、普通に子捨てのガチクズですよね…)
昔話がグレートマザー的な世界だとして、そこからの脱出・救済は、子ども自身の自力によるか、または外部からおとずれる他者によってもたらされることが、多いのではないでしょうか。前回のシンデレラのように、善い魔法使いとか、王子サマとか。
これも前回ふれたことですが、当方お気に入りの赤ずきんにしてからが、猟師というのは――ユング的には切断という「父」の機能云々だとしても――設定上は父親というわけでもなく、魔法使いや王子とおなじく、外部からおとずれる他者のほうに近いとも、いえばいえるかもしれません。
しかも、グリム版よりペロー版のほうが古い形態だとすれば、その外部からの救済者自体、後付け要素にすぎないかもしれません。
まあ、西洋のように、父権が強い(強すぎる?)社会の場合、逆に、かえって、いまさら、ことあらためて、「おとーさん、がんばる」なんて、やらなくてもいい。むしろ、たちはだかる父(難題求婚譚のような?)に、どう立ち向かうか、というほうが主題にしやすい――のかもしれませんが。
とすれば、むしろ父権の弱い(日本のような?)時代や社会においてこそ、援助者としての父の活躍が描かれるべき必然性があるのでしょうか?
それこそ、『母性社会日本の病理』とかナントカ? 何十年も前から、ときどき、思いだしたように「父性の復権」なんて空念仏もとなえられたりしていますからねえ……。
そこにもいろいろ安易な誤解・曲解・コジツケ・マトハズレがありそうな気も、それは、まあ、しなくもないですが。しかし、いいかげん、ン十年もやってるのですから、空念仏を、せめてちゃんとした念仏にくらいは、してみる努力が、必要なころあいでは?という気も、やはり、しないことはないのです。
(あー、つまり、今回のような、「父」の活躍を描いた当方の童話にも需要がある……ということであれば、いーなー、というところですかね笑)
追記1:
冗談はさておき、昔話に登場する、父性的な人物の活躍といえば、それこそ、日本の場合、山姥を豆に変身させて食べてしまう、和尚さんのようなキャラが、いたかもしれませんね。
まあ、別の昔話では、小僧さんにしてやられるコミックリリーフになったりすることも多い役どころですが……
だからこそ、ここ一番の本気の活躍にシビレるあこがれるゥ、というやつで。あー、つまり、休日のパパと、平日職場のお父さんの違い、みたいなものかしら(笑
追記2:
グリム童話なら「二人兄弟」に登場する狩人がカッコイイ父性そのものでした。捨てられた双子をひきとって義父として守り育てる善人。そして職業訓練をほどこし、自立へと送りだす。息子の社会化をうながす理想の「父」。
(※「二人兄弟」はいくつものエピソードからなる長編童話で、物語類型の連発ですが、それを「影」の一面からだけしか論じなかった河合隼雄の『昔話の深層』はちょっと物足りなかった記憶。親世代の兄弟はわかりやすくシャドウだとしても、主人公たち兄弟は「自我」と「自己」だとかいいだすのですから、河合さんの論自体、その時点でもう「影」とは違ってきてんじゃないかという気もしますし……当方的にはむしろ「父」が気になる童話でした)
しかして、この狩人も、先述の和尚さんも、赤ずきんの猟師と同じく、やっぱり、実父ではない、わけで……
実母が善で、継母が悪というグレートマザーの場合とは逆に、男親の場合は、実父がダメで義父が活躍という……このパターンは、なんなのでしょうね。やはり、父が「外部」への導き手だからでしょうか。
そういえば、キャンベル&ルーカスの『スターウォーズ』などでも、実の父は敵で、実父のかつての仲間(父性的な他者)が味方でしたっけ。
追記3:
昔話の継母が本来は実母だったとよくいわれるように、義父もやはり、ほんらいは実父だったのかもしれません?
以前もふれたように、家庭「内」を差配するのが母親なら、家庭「外」から稼ぎをもちかえってくるのが父親。最初から社会性≒外部性≒他者性をおびていますし、まして、イニシエーションにおける「父」の役割は、グレートマザーの胎内から子どもを外へひきずりだすこと。外部の社会からやってきて、子どもをそこへ連れていくこと。それは子どもにとっての最初の「他者」というものでしょう。
単に射精して受胎させればそれで父親というわけではなく……文化的な意味で「父親」に「なる」とは、子どもに対してのこうした他者性・外部性を引き受けることでもあるのかもしれません?
難題求婚譚のように、立ちはだかる父――
赤ずきんのように、帝王切開で引きずり出す父――
その暴力性が、同時に、子への祝福でもある、という……それこそユング派的な両義的図式でしょうか?
追記4:
とすれば、大国主神話におけるスサノオのような難題求婚譚の「父(≒嫁の父≒義父)」こそが、日本においても、やはり、「父」のアーキタイプなのか?
一方で、母性社会が云々だとすれば……むしろ、古代にはあったはずのそのアーキタイプの喪失こそが、現代日本の病理なのか?
――――(引用ここから)――――
「その汝が持てる生太刀・生弓矢をもちて、汝が庶兄弟をば、坂の御尾に追ひ伏せ、また河の瀬に追ひ撥ひて、おれ大国主神となり、また宇都志国玉神となりて、その我が女須世理毘賣を嫡妻として、宇迦の山の山本に、底つ岩根に宮柱ふとしり、高天の原に氷椽たかしりて居れ。この奴」
(『古事記』上巻より)
――――(引用ここまで)――――
英国ダメパパ、米国マッチョパパ。
なら、日本の場合は……?
えっと……ツンデレ?
というのは冗談にしても……。
このスサノオ自身が、もとは、マザコンでシスコンだったんですよねえ。姉の支配する高天原という母胎から追放されることで「成長」し、オロチ退治の「活躍」へ、という……スサノオもまたひとりのアトレーユであり元バスチアンであったのかもしれません。
追記5:
ところで、このオロチ退治のスサノオ神話の場合、「結婚」のモチーフが――西洋に比べて日本の昔話には希薄だと河合隼雄はいいますけれど、その日本としてはめずらしく――高らかに歌いあげられてもいる(文字通り和歌なんかもつかって)わけで……
日本のフォークロアとしては、やはり、少々、異質さを感じないこともありません?
「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣つくる その八重垣を」
が、その一方で、このスサノオが――なぜ&どういう経緯でかは記紀からはわかりませんが――のちには根の国(≒母の国)の王になっているわけですし、大国主の前に立ちはだかる父性であると同時に、やはり、どこか、マザコン息子なのでしょうか(クシナダvsイザナミの嫁姑バトルとかあったのですかねえ?)
まあスサノオという神格も、キャンベルの「合成神話」同様、いろいろな「顔」から合成されているのかもしれませんが……その「顔」のそれぞれが、ユング的にはわりとアーキタイプに見えてこないことはなく。つまるところ、やはり、この手の話は、例によってネーバーエンディング・スパイラルなのかもしれません?




