ネバーエンディング・レッド・ライディング・フード
と、いうことで……
・赤ずきんは「成長」する。
・桃太郎は「活躍」する。
あるいは――
・赤ずきんは「成長」するが「活躍」しない。「活躍(狼退治)」するのは猟師。
・桃太郎は「活躍(鬼退治)」するが「成長」しない。「成長」はすでに終えている。
以下、同様に……
・劇場第一作の鉄郎は前半で「成長」し(母から自立し)、後半で「活躍」する(プロメシュームからメーテルを救う)。
・ルーク₌スカイウォーカーは第一部で「活躍」し、第二部で「成長」し、第三部で「勝利」する。
・アトレーユは第一部で「活躍」し、バスチアンは第二部で「成長」する。
などなど、などなど、と……。
いっていいのかもしれません?
というより、いいだしたらきりがないのかもしれません。
「赤ずきん」と、「桃太郎」あるいは「猟師」。
「成長」と、「活躍」。
物語はその二つのフェーズを、ぐるぐる、どこまでも、はてしなく循環しつづけるものなのかもしれません。
してみると、ミヒャエル・エンデの『はてしない物語』などは、まさにそのネバーエンディング・サイクルを構造化した作品であるかにも見えてきます。
ミヒャエル・エンデ『はてしない物語』の第二部スタートラインは異世界転生です。
召喚からの、女神との対面からの、転生ボーナスからの、チート無双。能力どころか外見までイケメンに変身します。
しかし、能力はいっちょまえでも、外見はイケメンでも、中身は結局クソガキのままです。
敵のおだてにのって増長してすべて失う――その寸前まで行き、そこからいかにして復活するか。それが第二部主人公バスチアンのメインタスク。死と再生。成長の儀式。
その過程で、安心・安全な場所で英気を養うフェイズがあり、そこで登場するのが、まさに、この連載で――赤ずきん的ユング的キャンベル的イニシエーションの舞台として――何度もくりかえし登場している、母胎的空間。
やさしい「アイゥオーラおばさま」なる母性的な植物系クリーチャーのもとで(≒胎内で)、あまやかされ、疲れをいやし、力をたくわえ……やがておばさまが枯れるころには、復活して、ふたたび旅に出る、と。
(ユング的な父による切断は、この時点ではまだ登場しませんが、それは、おばさまが「オオカミ」ではなく「おばあさん」であり、子離れのタイミングをあやまたない善きグレートマザーだからかもしれません。オオカミに相当するグレートマザーからの脱出は、まだ、このあと、メインミッションとして残されているのかもしれません。たぶん)
そうして善きグレートマザーの胎内でエネルギー備給したあとに待っているのが、採掘場で「絵」を見つけだすというミッション。そこで発見される絵こそ、まさに「父」のそれです。
バスチアンは「父」を見いだしたことによって、ファンタージェンを脱出し、現実世界に帰還する端緒を得るのです。
ファンタージェンとは何か? イコール、モンデンキント。つまりはグレートマザーの胎内世界(だからこそ、モンデンキントはどこにでも存在するが、対面することはできない≒胎児はつねに母を感じることはできるが、母に会うことは出産後しかできない)。
その胎内からの脱出は「父」のおかげ、という、まさしく、ユング的解釈の赤ずきんパターンが、ここにおいてもまた成立することになります。
そして胎内回帰からの帰還≒ユング的なキャンベル的な死と再生のミッションを終えて「成長」したバスチアンは、現実世界において、父との関係を刷新し、古書店主と対面し、学校生活をしきりなおす、という、英雄的な「活躍」のステージに到達する……わけで。
あらゆる点で似ても似つかないアトレーユとバスチアンがどうして同一人物なのか?というのも、この「成長」する主人公と、「活躍」する主人公――赤ずきんと桃太郎または猟師――という、「合成昔話」のステージのちがいから、理解することができるのではないでしょうか。
主人公は死と再生によって「成長」し、「活躍」し……その過程で、さらに「成長」を必要とする"だれか"と出会い、その後は、バトンを受け取ったその"だれか"が、またぞろ「成長」し、やがて「活躍」し、そのはてにまた"だれか"と出会い……とするなら、なるほど、それは、エンドレス。
赤ずきんは成長して猟師になり、またあらたな赤ずきんに出会い、かくて円環はとざされる――。
まさしく、輪になって尾をくわえあう二匹のヘビのイコンさながらです。
蛇は脱皮します。
主人公も「脱皮」します。
イメージを少しずらせば、赤ずきんはオオカミの皮を脱ぐ――と、そんなイマーゴも成立しないではないかもしれません。
このビフォー&アフターの主人公の二つの様相は、結局、つまるところ、やはり、ハドソン的「バージン」と、キャンベル的「ヒーロー」の区別に帰着するのでしょうか?
だとすれば、それは、「バージンズプロミス」と「ヒーローズジャーニー」が、決して個々別々の物語類型ではない、ということを(ハドソンやマードックには申しわけないですが)いっていることにもなるのかもしれません。
「バスチアン/赤ずきん」が「アトレーユ/猟師」になるという過程が、「バージン/プリンス」が「ヒロイン/ヒーロー」になる、という過程に他ならないとするならば……
それは、結局のところ、千の顔をもつ同じ一人の主人公の「旅」のひとこまひとこまに、わざわざ別の名まえをつけただけのことでしかないのかもしれません?
さんざっぱらこだわったあげくに、結局、所詮は、キャンベルの手のひらの上かよ、と思えば「ぐぬぬ」な気もしないではないですが……(汗
いや、まあ、ここのところの一連の考察というか妄想というか迷走に、きれいにオチがついたとも、いえるでしょうか?
追記:
ただしもちろん、それはあくまで、キャンベル的なイニシエーションが、教科書的かつ模範的に成功した場合の話。
一方では、バスチアンの背後には、無数の、破滅した元・王たちがいるわけですし、「赤ずきん」にはグリム版だけでなく、ペロー版だってあるわけです。ほかの異伝だっていくらもあるかもしれません。
赤ずきんは、それは、猟師になることもできるでしょう。しかし、おばあさんになることも、オオカミになることだって、ありうるのかもしれません。あるいは、そのいずれにもなれずに終わることもあるでしょう。
まかりまちがえば、童話なんか書くようになってしまう「赤ずきん」だっているかもしれません(笑
赤ずきんは、猟師になり、おばあさんになり、オオカミになり、そして赤ずきんに出会う/出会わない……それもまた、はてしなく分岐する物語。
ユング的両義性に忠実なモンデンキントは、そのすべての可能性を「よし」とする……ということなのかもしれません?




