むかしむかし赤ずきんは鬼ヶ島へ
当方にとって「赤ずきん」という昔話は――『銀河鉄道999』のようなマンガ・アニメでさえ、その類型で理解したくなるというくらいには――ココロひかれる構造をもったオハナシであるようです。
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猟師がオオカミのお腹を裂いてヒロインを取り出してメデタシメデタシという物語は、ユング的な死と再生のモチーフ――イニシエーションの物語として理解しやすくもあります。
しかし、そうすると……
猟師がオオカミのお腹をかっさばくのと同じように、おじいさんが竹や桃をかっさばいて主人公を取り出す。しかし、それでメデタシメデタシではなく、逆に、そこから物語がはじまる――かぐや姫や桃太郎といった――異常出生譚の場合は、どういうことになるのでしょう?
赤ずきんならお話が終わってしまいます。
つまり、ユング的なイニシエーション≒成長は、そこで完了してしまっている、のでしょうか?
なのにそこから始まる物語、とは、いったい何なのでしょうか。
かぐや姫にしても、桃太郎にしても、月から地球にやってきて月に帰っていく話だったり、鬼ヶ島にいって・やって・帰ってくる話だったりするのですから、ヒーローズジャーニーの形式をふんでいるとはいえそうですが……
それが、同時に、河合隼雄やジョゼフ・キャンベルが強調したがるような、主人公自身の成長・変容のイニシエーションの物語にもなっているかといえば、どうもピンときません。
かぐや姫にしても、桃太郎にしても、肉体的な意味では、それは、まあ、大きくなりはしますが、しかし、精神的な――それこそユング「心理」学が主題とするような――意味では、どうでしょう? かれらは「成長」などしているでしょうか?
あるいは、こういってもいいかもしれません――かれらは「成長」など必要としているでしょうか? 成長などしなければならないような、未熟な、未完成な存在でしょうか?
否。
物語のはじめから、桃太郎は桃太郎であり、かぐや姫はかぐや姫であって、鬼ヶ島へ行ったからといって、貴公子に求婚されたからといって、彼/彼女自身の内面が変化したようには思えません。
桃太郎が「日本一」のヒーローであるその理由は、まさに「桃から生まれた」という異常出生の事実そのものによるのであって、かれが何か苦労したとか修行したとかいう出生後の経験によっているわけではないのではないでしょうか(そもそも苦労も修行もしませんし)。
かぐや姫だって、彼女の属性はつまるところが「竹から生まれた」ことにつきるのであって、さらに終盤にいたっては、天界のクスリを飲んで地上での出来事をすべて忘れてしまうなどという展開だってあるのですから、なおさら地上の経験は無意味。成長もへったくれもありません。
あるいは……変容したのは、主人公たちというよりは、むしろ「鬼の脅威から解放され平和になった村落共同体」のほうであったり、「自分たちの卑小さを痛感させられた貴族社会」のほうであったりするとも、いえるでしょうか?
そういう意味では、これらは、ヒーローズジャーニーよりヴァージンズプロミスの物語に近い、とでも、考えればよいのでしょうか?
しかし、それはさすがにコジツケめいていますし、なにより、キム・ハドソン自身が重視するヴァージン自身の自己発見というモチーフは、これらふたつの物語には、やはり、希薄なように思います。
それに、ヴァージンの自己発見にしろ、ヒーローの成長にしろ、いずれ、ユング的な試練を経て達成されるのは同様だとするならば……その試練そのものと無縁であるように見える昔話を、ヴァージンとヒーローの二者択一に帰するのは、そもそも失当という気もします。
そうではなくて、異常出生からはじまる「桃太郎」も「かぐや姫」も――深層心理的には――異常出生によって終了した「赤ずきん」のアフターに相当する、第二ステージの物語。
ユング的な、赤ずきん的な「死と再生」のイベントを完遂した主人公の、その「再生」後の物語――とでも、見たほうがよいのではないでしょうか。
それこそ、主人公が映画中盤でメインイベントを完遂≒マザコン少年から大人の男性へと成長してしまった。そのあとで、今度は、その主人公がマザコン少女をグレートマザーから救出する第二幕がスタートする、という……前回ふれた『銀河鉄道999』劇場版第一作と同じように。
むかしむかし、赤ずきんは、鬼ヶ島へ鬼退治に、宮中へは難題をふっかけに、いきました……。
また、なにをテキトーな駄法螺をふいてやがる……と、いわれるかもしれませんが(笑
しかし、そもそも、ジョゼフ・キャンベルのヒーローズジャーニー自体、世界中の神話をツギハギしてでっちあげた「合成神話」であるわけで……昔話の解釈にだって、そうした「合成」を利用することはできるのではないでしょうか。
イニシエーションによる成長の物語と、成長後の活躍の物語は、おなじひとつの合成昔話の二つのステージと考えてもよさそうなものですし……そうしたステージの区別、一連の物語の分節化は、実作者のハシクレとしても、思考の整理に役立ちそうな気がします。
つまるところが、ヒーロー未満の主人公が試練を経て完全無欠のヒーローに成長する過程を描いた物語というのも、もちろん、カタルシスではある、その一方で――
そうして成長したあとのヒーローの問答無用の痛快な活躍をこそみたい、という欲求だって、読者にはある、というのも、また、たしかかと思うのです。
ウルトラマンの本体はスぺシウム光線であり、仮面ライダーの本体はライダーキックであり、時代劇の本体は「この紋所」であり「余の顔」であり「桜フブキ」であって、そこへいたる「物語」などは実にテンプレのつけたりにすぎない……というように。
少年・少女の成長物語――
成長後のヒーロー・ヒロインの痛快無双――
こうしてみると、あるいは、これは、もしかすると、この連載の初期にふれた、二種類のおもしろさとも、かかわってくるモンダイなのかもしれません?
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