そして赤ずきんは猟師になる
「そして少年は大人になった……」
というと、今はむかしの昭和アニメ、劇場第二作『さよなら銀河鉄道999』のラストシーンに、そのままズバリの文字列がテロップされていた記憶がありますが……。
そういう意味で、ハリウッド式のヒーローズジャーニーに近い物語構造を予感させる(当時から海外人気もあった?)松本ワールド。
実際、その劇場二作目は、いちおう、たしかに「父」のモチーフにとりくんだらしい形跡もありました。
しかし、むしろ、それは、もしかすると例外……?
なんとなれば、一方では、そもそも、松本アニメというのは、松本美女という名の「母性」にこそ満ち溢れた世界でもあったわけで。
先だってのロコツにパパパパいいまくりのスピルバーグ https://ncode.syosetu.com/n7715ll/43/ とは、だいぶ風合いが違うようにも思うのです。
そもそも999の主人公・鉄郎は、「母」を殺されてその復讐を企てるのですが……原作やTV版では第一話であっというまにその復讐を遂げてしまいますし、大ヒットした劇場一作目でさえ、映画中盤で復讐を遂げてしまいます。
いや、復讐譚、終わっちゃいましたけど? そしたら、そのあと、何をするのよ? という話ですが……
そもそも、復讐は、あくまで旅立ちのきっかけであって、物語全体のテーマではないのかもしれませんね。
そういう意味では――善悪の両義性は物語にはままあることではありますが――母のカタキの機械伯爵というのも、主人公を旅に(広い世間に)ひっぱりだしてくれた、という意味では、むしろ、少年の導き手としての機能をこそ、一定、はたしているともいえるのかもしれません。
(育ての親を殺したカタキが実の父親でした的なSW展開はヒーローズジャーニーにもありがちです)
というか……
物語発端時点の主人公は、母一人子一人、かなりの母子密着の状態にあるわけで。
グレートマザー(オオカミ)を殺害することで、テツロー(赤ずきん)を外界(旅)へひきずりだす伯爵(猟師)という……
そういう構図すら成立するのかもしれません。
それはそれで、「赤ずきん」は、そのあと、何をやるんだよ?という、メデタシメデタシの「その後」という問題は、やはり、のこるわけですが……。
一話完結式かつ長大な原作やTV版はさておいて、わかりやすくまとまった劇場一作目を見るかぎりでは(それはそれで松本零士の世界なのか、りんたろうの世界なのか、曖昧ですが)、娘が父の力をかりて母を殺そうとする――しかし途中でへたれてしまうので、少年がそれを代行する、というのが、映画後半の(第二の)展開でした。
つまるところ、これもまた、グレートマザー(プロメシューム)に飲まれた赤ずきん(メーテル)を、救済する猟師(鉄郎)という構図。
かつて救済された赤ずきんが、今度は救済者の猟師になった、と、いう意味では、たしかに、少年の成長物語でもあるようです。
少年は大人になった≒赤ずきんは猟師になった。
と、同時に、主役はあくまで赤ずきん、と、見ることもできるでしょう。少年の側からも、少女の側からも、どちらからも解釈することができる。それこそ作品世界の奥行というものかもしれません。
ということで、少女側から見るならば、映画後半は、マザコン娘の物語。
しかも、このマザコン娘が、少年にとっては、もともとは松本美女という名の母親代理の典型だったわけですから、わりと母性全開。
しかも、原作やTV版とは違って、劇場一作目には特にキモチワルイ設定――メーテルの肉体は若いころの鉄郎の母のそれ――が導入されていましたから、なおさらです。
パパ一辺倒のスピルバーグとはかなりちがいます(作家性なのかお国柄なのかは、さておいて)。
だからなのか、どうなのか――先述の劇場二作目『さよなら~』では、逆に、のっけから、父がせがれがという父性モチーフが強調され、ドラマのなかでも、少年と実の父親(少年は認知していませんが)との対決が描かれ、最後はその父親の旧友が、少年に何やらイイ感じのはなむけの言葉をおくるという……父と子の物語をより強く意識したシナリオにはなっていたかと思います。
デザイン面でもわりとロコツでしたが、ファウスト≒ダースベイダー&ハーロック≒オビワン的な、今は敵味方にわかれたかつての仲間いう名の父性たち。
それが成功したかどうかというと……まあ、その、なんだ、ほら、あれで(汗
(※あくまで個人的な印象としては……元マザコン息子の猟師(鉄郎)が、現マザコン娘の赤ずきん(メーテル)を、グレートマザー(プロメシューム)から奪い取るという映画全体の――前作の焼き直しのような――プロットのなかで、猟師自身のファザコン展開は、あまりうまくハマっていないという気がしないこともありませんでした)
父性の導きもないわけではないにしても、かなり母性が色濃い松本ワールド(りんたろうワールド?)。
どうも、スピルバーグのように、母性と父性を截然ときれいに切り分けて完全に別々の物にしてしまう、という、わざとらしい操作とは別の、もっと未分化などろどろしたところに、根本のところでは、根差しているのかもしれません?
そもそも、男の子であろうと、女の子であろうと、おぎゃあと生まれてくるのは母の胎内から、という、スタートラインは同じわけですし。
母性のモチーフをあからさまに排除した、スピルバーグの健全な、あまりに健全な家父長制の――60年代70年代アメリカのホームコメディのような――世界というのは、やはり、あまりにも健全すぎるがゆえに、かえって偏頗な世界のように、個人的には、思われてなりません。
ユング的な全体性の回復は、相反する要素の統合によって成就するのであって、排除によってではなかったはずでしょう。
グレートマザーが、やさしいお祖母ちゃんであると「同時」にのみつくすオオカミであるとすれば。同様に、グレートファザーもまた、子どもを救いだす猟師であると「同時」に子どもを食い殺すオオカミでもあるでしょう。
その関係の網目のなかで、第三項としての赤ずきんもまた、男の子であり女の子であり、犠牲者であり救済者であり、孤児であり貴種であり……さまざまに変転するのかもしれません。
その変転に――一定の傾向や目安はあるにしても――唯一絶対の至上命題「なければならない」など、あるのでしょうか?
創作術・脚本術の世界ではほとんど意識されないことかもしれませんが、そもそも、ヒーローズジャーニーの元祖、ジョゼフ・キャンベルは、また、ユダヤ・キリスト教の父権的なエデンの神話は、もともとは、むしろ母性的な神話だったものから、歪曲・改変されて成立したものである、と、指摘した神話学者でもあったことを、思いだします。
――――(引用ここから)――――
それにしても人は、聖書のとギリシャ、ローマ派のとを問わず、すべての光輝ある正義の行為者の男性的な道徳的態度には、何か無理じいで終局的には納得できぬものがあるのを感じざるをえない。
(ジョゼフ・キャンベル『神の仮面』第一章「蛇の花嫁」より)
インドでもギリシアでも、父権的と母権的との二つの対照的秩序の間に対話が起ることが許されているけれど、そういうことは聖書の伝統ではもっぱら男性の利益になるように入念に抑圧されてきた。
(ジョゼフ・キャンベル『神の仮面』第四章「ヨーロッパの神々と英雄たち」より)
――――(引用ここまで)――――




