ハリウッド・マッチョイズム
フロイトはもちろん、悪しきグレートマザーが父によって調伏されるというユングもまた、最終的には父権的。
そのユングの影響をおおきくうけたジョゼフ・キャンベルも、そのキャンベル神話学を下敷きにしたハリウッド脚本術も、やはり、ベースは父権の世界。
――というような話をしました。
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そのハリウッドの父権的マッチョイムズを、当方に、しみじみ実感させてくれた映画というのがあります。
スティーブン・スピルバーグ監督の『フック』です。
ジェームズ・バリの"ピーターパン"は、『ケンジントン公園』にせよ、『ウェンディ』にせよ、すこぶる母性的な世界です。
ピーターはみなしごなので、そこにあるのは、母性の欠落ともいえますが、欠落しているがゆえに、より強く母性が意識され、欲求されるともいえます。
母親の不在が浮き彫りにするのは、けっして、思春期的な父との葛藤の世界ではなく、幼児的な母子密着の欲求です。
みなしごという現実の様態はさておき、内心の欲望の形態において、原作のピーターたちは、永遠に大人にならない≒母子密着の世界にとどまっているといえそうです。
――――(引用ここから)――――
「ああ、メイミーさん」とピーターは叫びました。「あなたが、帰れると思っているのなら、あなたをつれてゆくのはよくないことです。あなたのお母さんは」――ここで、また、こみあげてくる悲しさを呑みこんで――「あなたは、僕ほどには、お母さんというものを知らないんだ」
(ジェイムズ・バリ『ピーターパンの冒険』本多顕彰訳)
――――(引用ここまで)――――
哀切な母恋いの響きをおびた『ピーターパンの冒険』はもちろんですが、それなら、より人口に膾炙した二作目――フック船長という大人の男との対決も内包している――『ピーター・パンとウェンディ』が、思春期的な父権的な作品かといえば、けっして、そんなことはありません。
フック船長との対決というのは、一見すると、ハリウッド式脚本術(≒ヒーローズ・ジャーニー)における父性との対決か、と、思いたくもなりますし、あるいは、アニメ化・映画化などされたときには、そのように再解釈されたことも、あったかもしれません。
しかし、実際に、バリーの原作を読んでみれば、その様相は、ハリウッド映画的なそれとはまったく異なることがわかります。
なんといっても、バリーの原作においては、ピーターと手下の迷子たちは、少女のウェンディを自分たちの「母親」にしようとするのですし……。
図体はオトナであるはずの、フック船長率いる海賊たちでさえ、そのウェンディを奪って、やはり、自分たちの「母親」にしようとする――というのが、バリーの原作なのです。
――――(引用ここから)――――
「船長」スミーは言いました。「あのガキどもの母親をさらって、あっしらの母親にできないものですかね?」
「素晴らしい考えだ」フックは叫びました。たちまち、その偉大な頭の中で、計画がしっかりまとめられました。「ガキどもを捕まえて、船に連れていく。板の上を歩かせ、海に落とす。それで、ウェンディは我々の母親になる」
(ジェームズ・M・バリー『ピーター・パンとウェンディ』大久保寛訳)
――――(引用ここまで)――――
父と息子の対決どころか、そこにあるのは、徹頭徹尾、コドモたちによる、コドモたちのための、「母性」の争奪戦です。
その闘争の結果、ピーターたちはフックを倒します。
それは、表面的には、ヒーローズジャーニーの展開。「そして少年は大人になる」……かのようにも見えるかもしれません。
しかし、ほんとうか?
万感の思いをこめて汽笛が鳴るどころか、ピーター自身は大人になることを拒否しますし、ネバーランドを去って現実世界に回帰したはずの迷子たちにしたところで――いちおう図体だけはオトナになりはするものの――「つまらない大人」になってしまった、と、地の文で明記されてしまうのです。
そして、そのつまらなさのカリカチュアは――フックたちがそうであり、またダーリング氏がそうであるように――やはり、幼稚なマザコン息子のそれのように思われるのです。
これでは、ヒーローズジャーニーというより、ヒーローズジャーニーに対するネガキャンであって……いわゆるバリーの「風刺」とはまさにこのネガキャンのことなのかもしれません。
というか、そもそもバリーの原作には、つまらなくないマトモな大人の男というのが一人も登場しないのです。
ウェンディの「父」であるダーリング氏など、その代表で、徹頭徹尾、幼児性が強調され、露悪的なまでにカリカチュアライズされています。
母子密着のヘソの緒を断ち切って云々などというユング的な父性の栄光とは無縁なキャラ造形。
そのような「父」がもしも子どもを社会生活に導き入れるとしたら、その社会生活自体が、グロテスクな"ごっこ遊び"の戯画のようなものにしかなりえないでしょう。
それが当時の英国社会だ、とでも、言いたいのなら……
どーだ、この世に大人の男(≒父)など存在しないだろう、母親とマザコン息子しか存在しないだろう、と……調伏されたはずの悪しきグレートマザーの嘲笑・哄笑が、地の底から響いてくるのではないでしょうか?
そこにはもはや社会風刺というより以上に、病理的なものさえ感じられるかもしれません。
では、そのような不健全なマザコン世界は、やはり、真の父権によって、切断され、解放され、救済されなければならないのか?
永遠に大人にならない≒母子密着のピーターパンは、それでは、どのようにすれば、健全な大人に≒「父」になることができるのか?
もしも、ピーターパンが大人になったら――
スピルバーグの『フック』は、まさに、その大人≒父になったピーターパンという、ほんらいは禁じ手であるはずの、キャラ崩壊・原作崩壊を(おそらくは確信犯的に?)たくらんだ映画でした。
そこには、過剰なまでにこれでもかと、父権的なコンテクストに満ち満ちた世界が描き出されていました(それもまた裏返しの病理なのかもしれませんが)。
大人になったピーターには、息子と娘がいて、二人ともフックに誘拐されます。
が、娘のほうは物語の核心にはなりません。事実上はほとんど存在しないも同然といってもいいくらい、物語的には空疎なキャラです。
彼女は、素直に親を信じ、海賊たちを拒否し、おとなしく父に救出されるだけの、おとぎ話のお姫さまのような、かわいい、つごうのいいお人形――客体でしかありません。
物語性をもっているのは、息子のほう。映画全体の構造的フォーマットはどこまでも父と息子の物語であって、父と娘には一切の「物語」が存在しません(それこそまさにボグラーや、マードック、ハドソンらが、ハリウッド業界にモノ申したくなるのもナットクというほどに https://ncode.syosetu.com/n7715ll/42/ )。
そして、この映画におけるフック船長は――「母親」を手に入れようとした原作のフックとは違って――ピーターの「息子」を懐柔し、手なずけ、自分の息子にしようとするのです。つまり「父親」になろうと企図するのです。
フックのくわだてはなかば成功しかけ……ピーターは物理的にだけでなく、精神的にも息子を取り戻さなければならない窮地に追いやられます。
それは、大人にはなりながら、息子の父親にはまだなりきっていなかったピーター自身の、<少年→男性→父親>という、三段階変身フォームの最後のステージを描いた成長物語でもあるといえるでしょう。
「そして少年は大人になった」
から~の、
「そして男性は父親になった」
つまるところ、これは――原作が「母親」を奪い合う息子たちの物語だったのに対して――「息子」を奪い合う父親たちの物語。いや、息子を手に入れることで、父親になろうとする二人の男の対決の物語。どちらがふさわしい父親か決めようという親権争奪バトル。偽の父と真の父、悪の父と善の父、ダークサイドの父とライトサイドの父による、最終決戦の物語であるわけで……。
スピルバーグとならぶ、当時のハリウッドの二枚看板、ジョージ・ルーカスの作品にたとえるなら、ダース・ベイダーとオビワン・ケノビがルーク・スカイウォーカーをめぐって対立しているような構図であって……やはり、どうにも、ハリウッド映画というのはまさに「おなじだがちがうもの」であり、「ちがうがおなじもの」であるのかもしれません。
ピーターの手下である「迷子」たちも同様です。
バリーの原作において、ウェンディという年端もいかない少女に「母親」をもとめたマザコン息子たちは、この映画においては、いつのまにかピーターという「父親」を崇拝するファザコン息子たちに変貌しています。
フックに殺害され、死に際に、ピーターに向かって「あんたのような父親がほしかった」と言い残す、迷子たちのリーダー・ルフィオは、その代表であり象徴的な存在でしょう。
スピルバーグ、どこまで"パパダイスキ"やねん……と、いいかげん、背筋がゾワゾワしてくるレベルですが(笑
そんなパパ映画のなかにも、母親に対する重要な言及が、一応、二つだけあります。
しかし、それさえも、映画全体のコンテクストのなかでは、むしろ、父権的なイデオロギーを追認・強化する機能を果たしているようです。
一つめの言及は、ピーターによる回想で……母親への言及とはいっても、焦点になっているのは、母親からの「逃走」です。
バリーの原作一作目『ピーター・パンの冒険』では、ピーターは母親のもとに帰ろうとして締め出される≒母親に拒絶されるという、トラウマ展開が描かれていました。それだけに母恋いの哀切さもひとしおでしたが……
一方、スピルバーグの映画のピーターは、ただひたすら、母親から逃げ出すだけです。
しかも、話題はすぐ、その母親がピーターの乳母車に入れてくれたという人形に、移行するのですが……なんと、ここに仕組まれているのも、母の思い出とかではなくて、むしろ父親幻想なのです。
その人形の名前として、最初に提示されるのは「タディ」。
しかし、それはピーターがまちがって覚えていただけ、ということになって……やがて、あるタイミングで、本来の真の名前が開示されます。
その記憶回復のタイミングは、大人になってしまって、子どものころは当たり前だった飛行能力を失っていたピーターが、修行?のすえ、ついにそれを回復するという、カタルシス的ターニングポイントなのですが……
そこで思いだされる、その人形の真の名まえというのが、実に「ダディ」でした。
なんと、ピーター・パンの空を飛ぶ能力さえ、取り戻すきっかけは、ダディ=パパのおかげ、という……
よくもまあここまで臆面もなく"パパダイスキ"な映画をしらふで撮れるものだと、もういっそ感心すべきかもしれません。
この映画におけるもうひとつの「母親」への言及は、フックの末期のことば、「たすけて、ママ」ですが……
ここまで見てきたように、かくまで徹底的に母性排除の父性的・父権的世界を構築しておきながら、このセリフはやや唐突で、あまり有効に機能しているとも思えませんが……。
あえて好意的に解釈するなら、先ほどふれた、三段階変身フォームの物語に、図式的には適合するセリフではあるでしょう。
ピーターとフックは、単に息子を奪い合う父親たち「である」のではなく、息子を手に入れることで父親に「なる」ことを目指していたのだとすれば……
息子をとりもどすことで父親に「なる」ことができたピーターに対して、「なりそこなった」フックは、所詮、どこまでいっても父親未満・大人未満のマザコン息子のままだった――という対比を看取することはできようかと思います。
つまり、ここでもまた、父親になることが正義であって、いい年してマザコンのお子ちゃまはみっともない存在、かつ葬り去られるべき敗者。マザコン死すべし、慈悲はない――いってしまえば、これがスピルバーグの、ひいてはハリウッドの、「文法」であるかのようです。
大人・父親をこそ徹底的に「つまらない」存在として拒絶するバリーのマザコン・ユートピアとは、正反対というものでしょう。
(※してみると、こうもいえるでしょうか? バリーのマザコン世界を、確信犯的に否定し破壊しようとするファザコン映画の中にあって、唯一、敗者であるフックのみが、敗者であるがゆえに、映画のイデオロギーではなく、原作のイデオロギーに忠実なキャラクターとして回帰した――そして葬り去られた――のだ、と。それは、ファザコン世界の秩序を守るために、マザコン世界のケガレを一身に背負って殺害されるスケープゴートのようなものかもしれません)
母性的・マザコン的なバリーの原作に対して、スピルバーグの映画がいかに父権的な構造をもっているか、理解するに――すくなくとも示唆するには――以上でも十分かと思いますが……
さらにつけくわえるとするなら、この映画のネバーランドにおいて、女性の存在はどうなっているでしょうか?
ピーターの娘が、物語的な機能をほとんどもたない「お人形」であることはすでに見ました。
迷子たちは男の子ばかり。女の子はひとりもいません(もしかしたらいたのかもしれませんが二次性徴以前で見分けがつかないレベル)。
バリーの原作に登場したタイガー・リリー(ピーターに恋する女酋長)は登場せず。
あえてというならティンカー・ベルがとうとつに人間サイズになってピーターに恋情をうちあげる場面がないわけではありませんが、ピーターの側が子ども心に目覚めてしまっているので、空振り三振。一瞬で元の妖精サイズにもどります。
あとは……
海賊たちの周辺に、派手な(娼婦的な)装いの成人女性が、何人か登場してはいたようです。
が、あくまで映像的に"商売女をはべらかす海賊たち"という絵面をつくっているだけで、彼女たちが、ピーターたちに加勢したり逆に邪魔したりといった、物語的な機能を果たすことは、一切ありませんでした。
あえてというなら……
迷子たちのセリフに「大人はみんな海賊だ」というのがありましたが、それに対応するかたちで「女はみんな娼婦だ」という世界観を形成する小道具的な機能をはたしていたのが、あの一群の成人女性たちだった、とは、いえるかもしれません?
オトナの女性――性のニオイ――を敏感にかぎ分けて拒絶する、とするなら、それすなわち、空地の"ひみつきち"のちびっ子ギャングの世界観。
あるいは、母をはじめ貞淑な女性が娼婦として登場する分析家好みの思春期の夢。
それとも、人類学的イニシエーションにもしばしばかかわる「若衆宿」か?
いずれにせよ、これらの女性の存在/不在もまた、母子密着から切断され、父の導きにしたがうべき社会化の時期をむかえた男の子の成長過程にかかわる表現の一環として、解釈可能なもののように、当方などには思われるのです。
……。
…………。
こうしてみると、ほんとうに、あらためて、『フック』というのはとてつもなく、ファザコン的父権的リンガ崇拝的な世界であって……
いわゆる「抑圧されたものは回帰する」とすれば、これほどかがやかしい父権の世界は、一皮剥けば、どれほど深い闇を析出することだろうかと、かえって心配になるレベルです(笑
はたしてこれは、たんに、スピルバーグにのみ固有のスタンスなのでしょうか?
先にルーカスにもふれておいたとおり、かならずしもそうではないのかもしれません。
ハリウッド全体(ないし大半? かなりの部分?)に通底するイデオロギー的布置が、こうした父権的なマッチョのそれなのでしょうか?
それも十分にありえそうなことではあります。
もちろん、断言などはできませんが……
しかし、もしもそうだとしたら、それは、ハリウッド脚本術の要諦たるヒーローズジャーニーそのもののもたらす必然なのか? それともまた別の――アメリカ社会の文化的バイアスのような――要因によるものなのか?
あとからあとから、疑問はわいてくるようです。
まあ、どーでもいいといわれれば、どーでもいいようなものですが……。
気になるといえば、気になる気もするのです。
なんといってもヒーローズジャーニーは創作作法として日本にも紹介され、あるいは活用している人もいるかもしれませんし……
しかも『ピーターパン』といえば、あおげばとうとしわがココロのシショー、佐藤さとるさんの回想――小学生全集――にも登場していたタイトルなのですから、なおさらなのです。 https://ncode.syosetu.com/n7715ll/2/




