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童話についてアレコレ  作者: 七瀬みる


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男と女のデカルチャー

 前回、ユングだフロイトだといいましたが……

 https://ncode.syosetu.com/n7715ll/41


 その末尾で書いたように、ああした父権的な精神分析のモデルというのは、父‐息子関係や母‐息子関係にはよくあてはまるでしょうが、それでは、父‐娘関係や、母‐娘関係には、どうなのか?

 いまどきフロイトのエレクトラなどは、ギャグみたいなものでしかないでしょう。

 さりとて、それではそれ以外に、精神分析の世界に、女の子の成長について、ユング&フロイトレベルの業績は、あるのか?

 それは、まあ、あるところにはあるのかもしれませんが。ユング・フロイト的な音量では、門外漢の耳にまでは聞こえてこないというか、どうにも、心もとない印象です。


 ユング、フロイトなら、門外漢でも知っているし、アドラーやフロムに手をのばす人くらいなら、門外漢にもいるでしょう。なんなら現存在分析でもいいかもしれません。

 しかして、そのどれが、どれほど、女の子の精神分析に、大きな発展をもたらしたのか?

 などということになると、当方ごとき門外漢(のなかでも特に頭の出来がアレなほう)にはさっぱりイメージできないのです。


 クリストファー・ボグラーが、キム・ハドソンの『ヴァージンズ・プロミス』によせた序文で、「ヒーローズジャーニーはわかった。で、ヒロインのジャーニーは?」という女性陣からの当然の問いかけについて語っていることは、以前、この連載でも(たぶん、たしか)ふれたと思いますが……

https://ncode.syosetu.com/n7715ll/16/


 まさにそのヒーローズジャーニーの大元、ジョゼフ・キャンベルは、モーリン・マードックの問いに答えて、女の子には旅は必要ないとまでいい放ったことがあるそうで(汗



――――(引用ここから)――――

するとキャンベル氏は、そもそも女に旅は不要だと言った。「神話の女性はただ『存在』するだけです。女性は人々が目指す行き先、たどり着く場所だ。自分でその価値に気づけば迷わずに済みます」。

(モーリーン・マードック『ヒロインの旅』より)

――――(引用ここまで)――――



 このキャンベルの言いぐさ自体、彼のヒーローズジャーニー、およびそれを下敷きにしたハリウッド的世界、また心理主義的物語分析の、父権的な性格をよくあらわしていますし、マードックが不満をならすのも無理はないというものでしょう。

 が、一方のマードックも、ヒーローの旅に対して、ヒロインの旅を対置して対抗するというのでは、結局、鏡合わせのトートロジー。おなじマッチョイズムの枠内に終始してしまう可能性もあるのではないでしょうか?


 いさましい身振りのわりに、マードックの著作が、古典的なユング的な「全体性の回復」の枠内に終始してしまった(ような記憶がありますが誤読かもしれません汗)ために、個人的にはさほど新鮮さを感じなかったのに対して……。

 先述のキム・ハドソンの『ヴァージンズ・プロミス』は、それこそユング的なアーキタイプを利用しているにもかかわらず、個人的にはかなり新鮮だったのですけれども……。

 あらためて、上で引用したマードックの一文というか、キャンベルの発言を見なおすと、その秘密が垣間見える気がします。


 なんとなれば、上の引用文で、キャンベルは、女性に旅が不要になる条件として「自分でその価値に気づけば」という"たられば"を提示しています。

 そして、自分の価値≒真に自分が何者であるかに気づくという、この発見こそ、ハドソン的なヴァージンズ・プロミスの核心だったのではなかったでしょうか。



――――(引用ここから)――――

「本当の私になる」というテーマを持つ映画や神話、おとぎ話があることに私は気づき、リサーチを始めました。そして、物語にくり返し出てくるパターンと、ユングの理論を比べてみました。ユングはヴァージンの元型を「変容と存在の能力の発達プロセス」であるとしています。そのプロセスは、物語の構成とぴったり一致することがわかりました。

(キム・ハドソン『新しい主人公の作り方――アーキタイプとシンボルで生み出す脚本術』より)

――――(引用ここまで)――――



 マードックはキャンベルの言いぐさに感情的に反発しますが、キャンベルの提示した条件を深堀りしていけば、ハドソン流の女性主人公の物語に、ちゃんと到達するという……

 だからユングは巨人だというか、そのレベルで女性を論じた精神分析が出てきづらい(だって、まわりくどいけれども、ユングにすでに含まれてはいるから)のかもしれません?


 ……などと門外漢の妄想はさておき。


「男が旅をするなら女だって旅をするもんね」というだけなら、畢竟、男に対抗するために男と「同じもの」になろうとするという、「存在」への欲望にとらわれることになりかねません(ちなみに、前回の冒頭でちらとふれたルネ・ジラール的には、そうした存在への欲望こそ、内的媒介の地獄への直通路です)。

 真に男に対抗するのなら(そして相補的に協働する≒全体性を回復する気があるのなら)、むしろ「男が外へ出ていくなら女は内にもぐるもんね」と、男と「違うこと」をするという、「行動」への意志こそが、ひとつの正解たりうるような気は、しないでもありません(まあ、ハドソン自身は真の自分という存在に「なる」と表現していますが……あくまでレトリックの問題かな?と)。


 当然、気のせいかもですが(笑

 ただ、ハドソン自身、以下のようには、書いていますね。



――――(引用ここから)――――

 しかし、「ヒーローの旅」とは別に、もう一つのモデルが存在します。それが「ヴァージンの自己実現」です。世の中に陰と陽があるように、男性に対して女性があってバランスがとれるのです。

(キム・ハドソン『新しい主人公の作り方――アーキタイプとシンボルで生み出す脚本術』より)

――――(引用ここまで)――――



 男&女のバランスという、これこそ、すこぶるユング的な、両義・相補のロジックであって、男vs女という発狂的敵愾心とはちがって、調和的です。

 それがうざい、という向きもあるのかどうかしりませんが……。

 男の子の成長物語という父権的な側面をもつユング心理学の枠内でこそ、ハドソンのヴァージンズ・プロミスの物語類型が発見されえたというのも、なかなかおもしろいなりゆきではあろうかとは思います。

 あるいは――前回ふれたフロイト流の抑圧と回帰と同様――それこそが、「物語」の呪縛なのかもしれませんが。。




追記:

 ちなみに、当方が最近書いた童話にことよせていうならば……

https://ncode.syosetu.com/n9395mg/

https://ncode.syosetu.com/n4952mh/

 男の子であるタマは、教科書的にわかりやすいユング的な「行って・やって・帰ってくる」イニシエーションによって、母子密着から父の手で救済されたみたいですが。

 女の子であるフン姐さんは、さて、どうするか?

 ハドソン的なアーキタイプでいうなら「娼婦」の仮面をまとった姐さん。

 ならば、その仮面を投げ捨てて、真の自己を発見するという、ヴァージンズ・プロミスの物語が、ここからはじまる……のか?

 それとももうすでに、真の自己の発見の失敗という闇落ちものとして完結してしまっているのか?

 またぞろよけいなことを考えてしまいそうな今日この頃だったりしないでもありません(汗


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