ユング・フロイト・リンガ・リンガ
フロイトのいわゆるエディプスコンプレックスは、日本では、一時、マザコンの代名詞のようにもいわれましたが、本質的には、むしろ、どちらかというと、ファザコンのほうに近いものかと思います。
なんとなれば、そこにおける主題はあくまで父と子の葛藤であって、母は勝者のためのトロフィー程度のものでしかない――のではないか?
エディプスのみを過剰に特権化せず、むしろ、ルネ・ジラールの三角形的欲望、その内的媒介の思春期男子的ヴァリエーションのひとつとでも思えば、すっきり理解できるものかと思います。
対して、ユングは、母性のはたらきを、グレートマザーの原型として実体化してみせます。そのぶん、母性社会日本の病理~のように、河合隼雄的に便利ではあったかもしれません。
さりとて、そのグレートマザーの負の側面からの、子どもの救済者として登場するのは、やはり、父。
母子密着を否定して、子ども(≒男の子)に向かって、「大人になれ」と命じる、父権的な世界であることは、実は、ユングもフロイトとそれほど異なるわけではない、ようにも思えます。
ハリウッド脚本術の元ネタになったジョゼフ・キャンベルの神話学は、ユング派の影響をおおいに受けていますが(実際に読んでみると、それだけというわけでは決してなさそうですが)、そうして生み出されたハリウッド映画というのは、かなりの部分が、すこぶる父権的でマッチョなものです。リンガ崇拝。パパダイスキ。
しかし、そうなると、問題は、やはり、フロイト的テーゼ――「抑圧されたものは回帰する」かもしれません。
父たちのいとなむ健全な・あかるい・社会的・経済的・政治的生活――昼の世界。
それは、悪しきグレートマザーの「闇」を排除することによって成立している。
とすれば、その排除され、抑圧され、追いやられた「闇」は、いずれ、かならず、回帰してこざるをえないことになるでしょう。
異界・他界・神隠しといった遠野物語的な世界も、あるいは先日の谷川ゆに子のいうなつかしい故郷としての「あの世」も、いずれこうした排除・抑圧から、必然的に析出されてくるものなのかもしれません。
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しかし、また、光と闇はいずれ共犯関係。光に闇が添う云々。そもそも、人間が、単なる男や女ではない、父や母になるのは、子づくりの結果なのだから……ボーイ・ミーツ・ガールも、誕生も、死も、いずれはおなじく生命のサイクルの一断面。単に相互に排斥的なだけではないでしょう。
などというと、いちおう、きれいには、まとまりますが……
しかし、やはりどうにも、父性の導きと母性の誘惑――光と闇の綱引きというこのまとめでは、焦点となるのは、あくまで「男の子」。
「そして少年は大人になる」≒「そして男の子は男になる」
どこまでいっても、父と息子の物語、ということになってしまって……。
女の子はどーすんだろうね?という素朴な疑問は、置き去りになる気がしなくもありません。
というところで、唐突ですが、長くなるのでいったん〆
この稿、つづきます。




