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童話についてアレコレ  作者: 七瀬みる


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ハッピー・デッド・エンディング

 もしもキューブラー・ロス的な意味で「死後の生」が存在するとしたら、(遺族にとっての喪失は別にして、死ぬ本人にとっては)、「死」は悲劇ではなくなる――

 ので、ドラマ的にもりあがるポイントではなくなって困った(汗)、みたいなことを、先日チラッと書きましたが……

https://ncode.syosetu.com/n7715ll/38/


 ある意味、それを地で行ってるのが、アンデルセン?

 キリスト教的な「死後生」が前提になっているので……

 一般的には悲劇みたいに思われている、彼の、いわゆる死亡エンドのいくつかの作品――子どもむけの改作とかではない、大人向けの文庫本とかのエディションを読んでみると、わりとしばしば頻繁に、結構的にはハッピーエンドになっていたりするので、おどろきます。「おれの知ってるアンデルセンとちがう」


「死」それ自体が悲劇ではなく、むしろ喜ばしいものだとしたら、彼の作品の泣かせどころ・感動ポイントは、それでは、どこにあるのか? 「死んで悲しい」ではないとすれば、その物語構造は、どういうものになっているのか?

 すこし考えてしまいます。



――――(引用ここから)――――

 この子は暖まろうとしたんだね、と、人々は言いました。けれども、少女がどんなに美しいものを見たかということも、また、どんな光につつまれて、おばあさんといっしょに、うれしい新年をむかえに、天国へのぼっていったかということも、だれひとり知っている人はありませんでした。

(アンデルセン「マッチ売りの少女」矢崎源九郎訳)

――――(引用ここまで)――――



 ↑はまだ悲劇の尻尾を引きずって、わかりにくいかもしれませんが……。

 それでも、少女は単に幻を見たのではなく、ほんとうに実在の神に召されたのであって、それを知らない俗物どもこそべらんめい、というニュアンスが、しっかり忍び込んではいるようです。


「人魚姫」なんかは、もっとビックリ。なんと、泡になったあとが、長い長い(笑



――――(引用ここから)――――

 そのとき、お日さまが海からのぼりました。やわらかい光が、死んだようにつめたい海のあわの上を、あたたかく照らしました。人魚のお姫さまは、すこしも死んだような気がしませんでした。

(中略)

 人魚のお姫さまは、そのものたちと同じように、自分のからだも軽くなって、あわの中からぬけ出て、だんだん上へ上へとのぼっていくのを感じました。

(アンデルセン「人魚の姫」矢崎源九郎訳)

――――(引用ここまで)――――



 このあとまだ(令和より字が小さかった昭和の新潮文庫で)3ページ弱くらいつづきます。

 人魚姫、しぶとい(笑


 ヒロインがはかなく死んで終わりならわかりやすい悲劇ですが。死んでも死なない生きつづけるなら……それはいったい何だろう? ゾンビ? ひゃくまんかい?


 どうしてこういうことになるかというと、キリスト教的な死後生≒神の実在が前提になっているからですね。


 死んで、まあ、ジゴクにおちるとかいう場合もあるのかしりませんが、清く正しい主人公の場合、天国コース。

 それが比喩でもなんでもなく、カミやテンゴクが本当に実在する設定で描かれているなら、そこへ行くのは悲劇どころかむしろメデタイ。


 のこされる王子のほうが、いい面の皮(≒マッチ売りの群衆とおなじように)。

 このへんになると、もはや、王子云々とかひとこともいいませんからね、人魚姫……というか、そもそも、王子とかわりと二の次なのですよね、これ(笑


 人魚姫が人間に化ける動機。一般的には恋愛感情と思われているでしょうし、そういう側面もありますが。

 原作の場合、むしろ、さらに根底にあるのは、人間だけがもっている(とキリスト教会・教義的にされている)「不死の魂」。


 人魚とかその他ドーブツは、死んだら消えてそれっきりなのに、人間というトクベツな生き物だけは、神さまがウンタラカンタラで、不滅の魂がドータラコータラ……

 人魚姫は、単に王子さまとチョメチョメしたいというだけではなく、むしろ、この「不死の魂」こそがほしいといって、999に乗……じゃなかった、魔女と取引するという展開。


 この時点で、子ども向け再話しか知らない一般人は「え、そうだっけ?」と記憶の齟齬を感じるわけですが……



――――(引用ここから)――――

 ところが、人間には、いつまでも死なない魂というものがあってね、からだが死んで土になったあとまでも、それは生きのこっているんだよ。そして、その魂は、すんだ空気の中を、キラキラ光っている、きれいなお星さまのところまで、のぼっていくんだよ。わたしたちが、海の上に浮びあがって、人間の国を見るように、人間の魂は、わたしたちがけっして見ることのできない、美しいところでのぼっていくんだよ。

(アンデルセン「人魚の姫」矢崎源九郎訳)

――――(引用ここまで)――――



 なので、人間になりすまして王子をたぶらか……もとい結ばれて云々というのは、この「魂」をGETするための手段にすぎない、ともいえるわけで……。

 人魚姫は、その王子GETには失敗するわけですが、恋敵を殺せない、その清くただしい心根のゆえに、かえって神さまに認められて、文字通り「のぼっていく」のが、先に引用した、泡になったあとのハッピーエンド。

 まあ、あれですね。

「こうすれば正解、サーやれ、ホラやれ」といわれながらも、「できない、無理」と、失敗するほうが実は正解。アクマのユーワクというか、大岡裁きというか、大ドンデン。

 恋愛悲劇というより、全体の構造は、むしろ、そっちのパターンになっているのですね、これ。


 というか、自然に展開したら悲劇になろうものを、デウスエクスマキナよろしく、キリスト教の教義をもちだして、悲劇ではないと言いくるめ、結果、物語構造が別物にシフトする……とでも見るべきか。

「人魚姫」ほどにもどうどうと死後生が描かれると、そう見えてこないこともありません。すれすれで教条主義。


 つまるところ、一般的に、悲劇と思われているアンデルセン童話において、実際にくわだてられているのは、むしろ悲劇の無効化であり、その無効化を根底でささえているのが、魂不滅、死の非実在性、神のもとでの死後の永生、という、キリスト教的な観念であって……

 それがアンデルセンの長所でもあり、短所でもある、ということになるのかもしれません。

 教義による悲劇の無効化は、(『ダギーへの手紙』的ななぐさめをもたらすかもしれない一方で)、頽落すれば、単なる現実否認・現実逃避でしょうからね……なまぐさ坊主の詭弁という名のプロパガンダに堕しかねません(すれすれでそこまで堕ちずにすんでいる、文学的価値を失っていない、というのが、アンデルセンの作家的才能のすごさか?)。


 実際、アンデルセンには、ほかにも、子どもの死を嘆きつづける母親が、死神にたのんで、死後の子どもに会いに行き、そこで、これこのとおり子どもは神さまのもとでしあわせ、なので嘆いてはいけないと教え諭される、みたいな童話や――

 死んだ子どもを天国につれていく天使が、実は自分は去年死んだ病気の子どもで云々話して聞かせる童話や―― 


 ……などなど、宗教色の強い童話がいくつもありますが。というか、基本的には全部が全部、宗教色ですが。

 当然、なかには、上でいったような教条色の強さから――いくらなんでも説教クサイ・宣伝クサイで――日本人には違和感のあるものもあるわけで。

 違和感どころか、「赤い靴」とか「アンネ・リスベット」あたりになると、個人的には、端的に胸糞でさえあったような記憶があります。


 まあ、イワシの頭にとやかくいってもはじまりませんが……


 アンデルセンの場合、(というか、キリスト教の場合?)、死それ自体が悲劇なのではなくて、神に受け入れられるか否かという「審判」こそが眼目という、タテマエ的にはそういうことになるのかなあ、などとも思う今日この頃。

 しかし、だからといって、「人魚姫」のハッピーエンドがおもしろいか? むしろ恋愛悲劇仕立ての通俗改変版のほうがすぐれていないか? すくなくとも、後者の方が、人口に膾炙する≒ポピュラリティがあるとはいえないか?

 ――というのは、また別問題。


 上で、ほんらいは悲劇になるはずのところをデウスエクスマキナよろしく~と書きましたが……アンデルセン自身の詩情・詩魂にとっても、おそらく、ほんらい、琴線にふれるもの、感動の源泉は、あくまで、悲劇的プロットのほうにあった。それを、作品化・言語化・意識化していく過程で、キリスト教の教義をあてはめていった(いこうとしたのか、いってしまったのか、そこは謎ですが)という事情が透けて見えるような気がしなくもありません。

 アンデルセンほどマジメでも信心深くもない、二次創作の俗物は、かえって、お高尚な教義などそっちのけで、ほんらいの悲劇的展開の魅力≒安っぽい涙に敏感で……大衆にわかりやすく魅力的な悲劇の形式で再話・再々話することになった(することができた?)。

 ……などという推測が、多少なりとも当たっているのか、完全なマトハズレなのか、まあ、後者かもしれませんが(笑


 はばかりながら、童話の書き手のカザシモのハシクレとしては、「マッチ売りの少女」の"ハッピーエンド"に、それでもなおまとわりつきつづける、わりきれなさにこそ、本来のこだわりどころかあるように、思われないでもないのです。

 それが、当方自身もまた安っぽい涙に敏感な俗物のひとりにすぎないということなのであれば……べつにそれでもいいというか。そのほうがいいかなー、とも思ったり。

 だって、「少女ちゃん、死ねてよかったねー」とか、思わんでしょ、フツー(笑

(あー、一方で、「人魚ちゃん、魂GETできそうでよかったねー」とは思わされかねないわけで、アンデルセンおそるべし、かもですが笑)


 あるいはまた、アンデルセンの数ある幸福な死者たちの多くは「神さま」のもとへのぼっていくのだけれども、マッチ売りの少女だけは「おばあちゃん」のもとへ還っていくのであって……

 グレートマザーが云々なユング発想になじみがある当方的には、

https://ncode.syosetu.com/n7715ll/38/

教義だけで片づかない、アンデルセンの本質みたいなものは、そのあたりにこそ、垣間見えたりしたりしないものだろうか、などとも、思ったりしないでもないのです。

 ちょっと無理やりかしら(笑


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