第7話「口コミは冒険者を乗せて、あるいはブルーオーシャン市場の開拓」
筋肉ダルマのベテラン冒険者、バドの治療を行ってから三日が経過した。
あの日、私たちはバドからふんだくった(正当な報酬として受け取った)銀貨三枚を元手に、シエナの案内で市場の食料品エリアへと向かい、久しぶりに「まともな食事」にありつくことができた。
カビの生えていない柔らかいパン、新鮮な野菜と少量の肉が入ったスープ、それに清潔な飲み水。現代日本にいれば当たり前すぎる質素な食事だったが、スラムで死にかけていたロッツやシエナにとっては、涙を流すほどの御馳走だったようだ。私も、胃袋に温かいスープが染み渡るのを感じながら、異世界で生き抜いていくための最低限の活力を取り戻していた。
しかし、商売というものはそう甘くない。
バドの一件以降、私たちの露店――冒険者ギルド裏のゴザ――には、ただの一人も客が来ていなかった。
「あーあ。今日もボウズだな、ボス」
ゴザの後ろに置いた木箱に腰掛け、大剣の手入れをしていたロッツが、大きなあくびをしながらボヤいた。
ギルドの裏口からは、今日も泥だらけになったり、軽い怪我を負ったりした冒険者たちが出入りしている。だが、彼らは私たちの胡散臭い露店を一瞥するだけで、足早に立ち去っていく。あるいは、ギルド正面にある薬師ギルドの出張所へと向かっていくのだ。
「仕方ないわよ。医療ってのは『信用』が全てなんだから。どこの馬の骨ともわからない小娘が、得体の知れない透明な液体や青カビのペーストを売ってるんだもの。普通なら警戒して当然でしょ」
「じゃあ、どうするんだ? このままじゃ、せっかく稼いだ銀貨も食費で底をつくぞ。俺がその辺の魔物を狩って……」
「だから肉体労働は却下だって言ってるでしょ。脳筋は黙って用心棒としての威圧感だけ放ってなさい」
私はピシャリとロッツを制し、手元の乳鉢で新たな薬草をすり潰す作業に戻った。
隣では、シエナが私の指示通りに、採取してきた植物を種類ごとに丁寧に仕分けている。彼女の小さな手は驚くほど器用で、有毒な雑草と薬効成分のある草を正確に見分けてくれた。
「お姉ちゃん、心配しなくても大丈夫だよ。お姉ちゃんの薬は本物だもん。絶対にみんなわかってくれるよ!」
「ありがとう、シエナちゃん。そうね、私も焦ってはないわ。……そろそろ『結果』が出る頃だしね」
私が不敵な笑みを浮かべた、ちょうどその時だった。
「おーーーい!! 嬢ちゃーーーーん!!」
ギルドの裏口から、地響きのような大声と共に、見覚えのある巨体がドスドスと駆け寄ってきた。
あの筋肉ダルマのベテラン冒険者、バドだ。
「チッ、あのオッサンか。おいボス、やっぱり俺が前に出るぜ。あの痛みがぶり返して、文句を言いに来たに違いねえ」
ロッツが大剣の柄に手をかけ、警戒心を露わにして私の前に立ち塞がった。無理もない。あの日、バドは私のアルコール消毒によって地獄の責め苦を味わい、涙と鼻水を垂らしながら絶叫していたのだ。恨みを持たれていても不思議ではない。
だが、私はロッツの広い背中をポンと叩き、横に退かせた。
「いいから、見てなさい。クレームを言いに来る人間の顔じゃないわよ」
私の言葉通り、ゴザの前に立ち止まったバドの顔には、怒りや恨みといった感情は微塵もなかった。
あるのは、極度の興奮と、驚愕、そして純粋な歓喜の表情だった。
「嬢ちゃん! 嬢ちゃん、あんた一体何者なんだ!? いや、そんなことはどうでもいい! これを見てくれよ!」
バドは興奮した様子で、右腕に巻かれていた包帯(私が煮沸消毒した清潔な布)を、乱暴な手つきでスルスルと解き始めた。
ロッツが息を呑み、シエナが目を丸くする。
三日前、オークの牙に深くえぐられ、黄色い膿と悪臭を放ち、敗血症の一歩手前まで進行していた彼の右腕。
包帯の下から現れたのは、その無惨な傷跡……ではなかった。
「おおっ……!?」
ロッツが驚きの声を上げた。
バドの右腕のえぐれていた肉は、周囲から綺麗に盛り上がり、傷口はピタリと塞がっていた。周囲のドス黒い変色や腫れは完全に引き、代わりに健康的なピンク色をした新しい皮膚が形成されている。
もちろん、一瞬で無傷になる魔法のポーションのような真似はできないため、大きな傷跡は残っている。だが、化膿の兆候は一切なく、炎症の「発赤・熱感・腫脹・疼痛」は完全に消え去っていた。
現代医学における『創傷の一次治癒』が、極めて順調に、かつ爆発的な速度で進行した完璧な結果だった。
「嬢ちゃんが言った通りだ! あの死ぬほど痛い水をかけられて、気味の悪い青カビの軟膏を塗られた翌朝には、もう腕の熱がスッと引いてたんだ! それから三日間、嬢ちゃんに言われた通り酒を抜いて大人しく寝てたら……ほら、この通りだ!」
バドは信じられないものを見るような目で、自分の右腕をさすった。
「俺は、十年間冒険者をやってきた。仲間がゴブリンの錆びた剣で斬られて、傷が腐って熱を出して死んでいくのを何度も見てきたんだ。神殿の高位魔法や、金貨何枚もする高級ポーションが買えない俺たちみたいな底辺冒険者にとって、腕や足が化膿するのは『死』か『引退』を意味してた……」
歴戦の筋肉ダルマの目から、ボロボロと大粒の涙がこぼれ落ちた。
「あのまま泥を塗ってたら、俺は間違いなく腕を切り落とすことになってた。嬢ちゃん……いや、サキ先生! あんたは命の恩人だ! あんたの薬は、神殿のバカ高い魔法なんかよりずっと効く、本物の『奇跡』だ!」
バドは地面に膝をつき、私に向かって深く頭を下げた。
周囲を通行していた他の冒険者たちが、ベテランのバドが見知らぬ小娘に土下座している光景を見て、何事かと足を止め始める。
(……きたわね。最高のデモンストレーション)
私は内心でガッツポーズを決めながらも、表面上はあくまで冷静な、有能な医療従事者としての態度を崩さなかった。
「頭を上げてちょうだい、バドさん。奇跡なんかじゃないわ。私はただ、あんたの傷口にいた細菌をアルコールで殺し、軟膏の成分で増殖を抑えただけ。傷を治したのは、あんた自身の体の『治癒力』よ。あんたが私の指示通り、安静にして栄養を摂ったからこそ治ったの。よく頑張ったわね」
「サキ先生……っ!」
「さあ、経過観察も良好みたいだし、もう私の治療は必要ないわ。ただ、完全に皮膚が再生するまでは無理しちゃダメよ。……それで、今日はお礼を言いに来ただけかしら?」
私がスッと流し目を送ると、バドはハッとして顔を上げ、腰の革袋を力強く叩いた。
「とんでもねえ! サキ先生には、まだ正式な『追加の礼』を払ってなかったからな! あんたの治療の価値は、銀貨三枚なんてもんじゃねえ。命と右腕の恩代だ、これで美味いもんでも食ってくれ!」
バドは革袋から、ジャラジャラと無造作に硬貨を掴み出し、私のゴザの上にドンッと置いた。
銀貨が十枚、いや、二十枚近くはある。日本円にして数十万円単位の臨時ボーナスだ。
スラムで餓死しかけていた私たちにとって、これは莫大な財産だった。ロッツとシエナが、信じられないものを見るように銀貨の山を凝視している。
「あら、気前がいいわね。受け取っておくわ」
私は全く遠慮することなく、手際よく銀貨を回収して懐にしまった。ボランティアで人助けをする趣味はない。私は稼ぐためにここへ来たのだから。
「サキ先生! 俺はこれからギルドの中に行って、あんたの腕前を全員に宣伝してくるぜ! ポーションなんか買ってる馬鹿どもに、本物の薬ってやつを教えてやる!」
「ふふ、宣伝してくれるのはありがたいけど、あんまり大げさに言わないでよね。私の薬は魔法じゃないんだから」
「わかってる! 任せとけ!」
バドは元気よく立ち上がると、ギルドの裏口の扉を蹴り破るような勢いで中へと突入していった。
数秒後、ギルドの中からバドの地響きのような大声が聞こえてきた。
『おいお前ら! 聞け! 俺の右腕を見ろ! あの化膿して腐りかけてた傷が、たった三日で塞がったぞ! 銀貨五枚の泥水ポーションなんか窓から投げ捨てろ! 裏口に、魔法も使わずにどんな怪我や病気も治しちまう、凄腕の『薬師の嬢ちゃん』がいるぞ!!』
バドの声は、ギルドの分厚い壁を貫通してこちらの裏路地まで響き渡っていた。
まさに、歩くスピーカー。生きた広告塔である。実際に死にかけていたベテラン冒険者の右腕が完治しているという『揺るがぬ証拠』は、死と隣り合わせの冒険者たちにとって、何よりも説得力のある宣伝だった。
「……ボス。なんだか、ギルドの中からすげえ足音が近づいてくるんだが」
「お姉ちゃん、いっぱい人が来るよ!」
ロッツとシエナの言葉通りだった。
バドの演説から数分と経たないうちに、ギルドの裏口から、屈強な冒険者たちが雪崩を打って飛び出してきたのだ。
腕を吊っている者、足を引きずっている者、顔色の悪い者。魔法使い風のローブを着た者から、重戦士まで。彼らの目は血走り、まるで救世主を求める亡者のように、私のゴザへと殺到した。
「い、いたぞ! バドのおっさんが言ってた薬師だ!」
「嬢ちゃん! いや、先生! 頼む、俺の足を診てくれ! ゴブリンの矢を受けてから、ポーションを飲んでも傷口の熱が引かねえんだ!」
「俺も頼む! 数日前から胃がキリキリ痛んで、食い物を吐いちまうんだ! ポーションを飲んだら余計に悪化して……!」
「先生、俺の股間が……いや、足の指の間が猛烈に痒くて、皮がむけて血が出てるんだ! これは呪いか何かか!?」
あっという間に、裏路地は私の露店を囲む冒険者たちの人だかりで埋め尽くされた。
ロッツが慌てて前に出て、押し寄せる男たちを大剣の柄で押し返している。
「お、おいお前ら! 順番を守れ! ボスに近づく奴は俺が叩き斬るぞ!」
「ロッツ、威嚇はそこそこにしておきなさい。彼らは敵じゃなくて『お客様』よ」
私はゆっくりと立ち上がり、白衣(もどきの上着)の襟を正した。
目の前に広がるのは、適切な医療を受けられず、迷信と非効率なポーションに搾取されてきた哀れな患者たちの群れだ。
私の脳内では、すでにブラック薬局時代に培った『超高速・患者さばきモード』のスイッチが入っていた。
「シエナちゃん! 左の木箱から特製エタノールと青カビ軟膏のセットを出して! ロッツは怪我の重症度順に患者を並ばせて、暴れる奴は物理で押さえつけるの! さあ、サキ薬局の本格営業、スタートよ!」
「「了解(ボス/お姉ちゃん)!!」」
そこからは、まさに怒涛の勢いだった。
私は次々と患者の前に立ち、脳内の【成分鑑定】スキルをフル稼働させて、的確かつ容赦のない診断を下していった。
「あんたの足の傷! 矢尻のサビが体内に残ってるわ! まずは切開して異物を取り除き、消毒するから歯を食いしばりなさい! 料金は銀貨二枚!」
「ギャアアアアアッ! 痛ェェェェッ! でも……あ、あれ? すぐに痛みが引いた……!?」
「次! 胃痛で吐き気がするあんた! それはポーションのせいじゃなくて、ギルドで提供された保存肉の『食中毒(サルモネラ菌)』よ! これから出す特製経口補水液と抗菌薬を二時間おきに飲みなさい! 絶食は禁止、消化のいいお粥を少しずつ食べること! 料金は銀貨一枚と銅貨五十枚!」
「は、はいっ! ありがとうございます!」
「次! 足の指が痒いって騒いでるあんた! それは呪いでもなんでもない、ただの『水虫(白癬菌)』よ! 四六時中そんな蒸れる革靴を履きっぱなしだからカビが繁殖するの! 今日から毎日足を石鹸で洗って、この抗真菌ペーストを塗り込みなさい! 料金は銀貨一枚!」
切開、消毒、縫合、投薬。
私の現代知識に基づく的確な処置は、迷信と魔法に頼り切っていた冒険者たちにとって、まさに神業のように映ったのだろう。アルコール消毒の激痛に悲鳴を上げる者もいたが、処置が終わった後の不快感の消失と、理路整然とした病状の説明に、全員が納得して大金を支払っていった。
彼らが今まで飲んでいたポーションは、高価な上に成分が相殺し合って効かないか、あるいは『一時的な魔力による痛みの麻痺』しか引き起こさないものだった。根本的な原因(細菌、ウイルス、真菌など)を排除しないため、効果が切れるとすぐに再発し、また高価なポーションを買う羽目になる。
まさに、ヤブ医者ギルドによるマッチポンプの搾取構造だ。
私はその悪循環を、アルコール消毒と抗生物質という『物理的かつ科学的なアプローチ』で、根元から断ち切ってやったのだ。
* * *
数時間後。
夕日がスラムと市場の間に沈む頃、ようやく最後の患者が処置を終えて帰っていった。
ギルドの裏路地は、消毒用アルコールのツンとした匂いと、静寂に包まれていた。
「お、終わった……。腕がパンパンだぜ……」
ロッツが大剣を杖代わりにしながら、その場にへたり込んだ。患者を力ずくで押さえつけたり、整列させたりするだけでも相当な重労働だったのだろう。
「お姉ちゃん、お水飲む? すごかったね、お姉ちゃん、まるで本物の魔法使いみたいだった!」
シエナが尊敬の眼差しで、私に木杯の水を差し出してくれた。彼女も、薬の瓶を補充したり、包帯を巻く手伝いをしたりと、八面六臂の活躍を見せてくれた。
「ありがとう、シエナちゃん。二人とも、本当にお疲れ様」
私は水を受け取り、一気に飲み干した。
喉がカラカラで、足腰も悲鳴を上げている。前世のブラック薬局でのピーク時を思い出すような激務だった。
だが、私の心を満たしていたのは、疲労感ではなく、圧倒的な『達成感』と『全能感』だった。
私の視線の先には、ゴザの上にドンッと置かれた、大きな革袋が三つ。
中には、冒険者たちから受け取った治療費がパンパンに詰まっている。
ざっと計算しただけでも、銀貨三百枚以上。銅貨に至っては数え切れないほどだ。たった半日の露店営業で、前世の私の月給を遥かに超える利益を叩き出したのだ。
「ふふ……あははははっ!」
私は、積み上げられた銀貨の山を見つめながら、思わず声を上げて笑い出した。
それも、上品な微笑みではない。悪代官が千両箱を前にして浮かべるような、野心と欲望に満ちた黒い笑いだ。
「ボス……? だ、大丈夫か? やっぱり過労で頭が……」
「ロッツ、シエナちゃん。見てごらんなさい、この輝く銀貨の山を。これが『ブルーオーシャン』の力よ!」
私は両手で銀貨をすくい上げ、チャラチャラと心地よい音を立ててこぼした。
「この世界の連中は、本当に医療の基礎を知らない。彼らが求めているのは、祈祷や奇跡じゃない。確かな『治癒』よ。そして、それを圧倒的な低コスト(その辺の雑草とカビ)で、論理的に提供できるのは、この世界で私ただ一人! ここはまさに、無限に富を生み出す金の鉱脈よ!」
私は興奮のあまり、拳を天に突き上げた。
もう、カビ臭い空き家で震える必要はない。理不尽な上司に頭を下げて、タダ働きさせられることもない。
私は私の知識と腕で、この世界の頂点に立ってやる。手始めに、店舗を構え、従業員を増やし、ポーションという詐欺商品を市場から完全に駆逐してやるのだ。
「サキ薬局の快進撃は、ここからよ! 明日からはもっと生産ラインを拡大して、本格的に荒稼ぎするわよ!」
「「お、おおーっ……!」」
私の狂気に満ちた宣言に、ロッツとシエナが若干引き気味に同調の声を上げた。
口コミという最強の武器を手に入れた私を、もはや止める者はいない。
……そう、思っていた。
この時の私は、バドの口コミがもたらす『影響力』の大きさを、まだ甘く見ていたのだ。
患者が殺到し、私が巨万の富を築き始めたという事実は、冒険者たちだけでなく、当然『既存の利権をむさぼっていた連中』の耳にも届く。
ギルドの正面で、泥水ポーションをボッタクリ価格で売りつけていた【薬師ギルド】の幹部たちが、私の存在を「看過できない脅威」として認識し、牙を剥き始めるのは、まさにこの翌日のことだった。
だが、受けて立つ用意はできている。既得権益からの嫌がらせなど、ブラック社会を生き抜いた私の前では、ただのスパイスに過ぎないのだから。




