第5話「ポーションなんて非効率の極み、あるいは現代薬学によるファンタジー全否定」
翌朝。
スラムの隙間から差し込む朝日が、私たちの拠点の床をうっすらと照らしていた。
昨日、私とロッツが死に物狂いで磨き上げたおかげで、室内の空気はスラムの悪臭とは無縁の清浄さを保っている。深呼吸してもカビの匂いはせず、肺の奥まで澄んだ空気が入ってくる感覚は、何よりも代えがたい安心感があった。
「お姉ちゃん、おはよう!」
部屋の隅に敷いた清潔な布の上で寝ていたシエナが、元気よく飛び起きてきた。
昨日の夜、特製のエナジードリンク(魔物の骨と酸食草の煮込み汁)を飲ませ、さらに市場で買ってきた柔らかいお粥を食べさせたおかげか、彼女の顔色は見違えるように良くなっていた。
カサカサだった肌にはわずかにツヤが戻り、落ち窪んでいた目には子供らしいキラキラとした光が宿っている。ビタミンとミネラルの急速チャージが、彼女の細胞を劇的に活性化させたのだ。
「おはよう、シエナちゃん。体調はどう? どこか痛いところはない?」
「うん! 全然痛くないし、なんだか体がすっごく軽いよ! あたし、こんなに元気になったの、何年ぶりかわかんない!」
シエナは嬉しそうにその場でぴょんぴょんと跳ねてみせた。その様子を見て、私はホッと胸をなでおろした。壊血病の初期段階だったとはいえ、子供の回復力は本当に目を見張るものがある。
「ふぁぁぁ……よく寝たぜ。やっぱりカビ臭くねえ部屋で寝るのは最高だな……」
壁際で大の字になって寝ていたロッツも、大きなあくびをしながら起き上がってきた。彼の胃潰瘍も、昨晩の消化に良い食事と安静のおかげで、ひとまずは落ち着いているようだ。
「二人とも、無事に朝を迎えられたみたいで何よりね。でも、喜んでばかりもいられないわよ」
私は、昨日市場で買い物をして残った小銭をチャリンと鳴らした。
「私たちの全財産は、今やこの銅貨数枚ぽっち。今日の夕食代にも事欠く有様よ。サキ薬局を本格的に稼働させるためには、どうしても『まとまった資金』が必要なの。薬を調合するための乳鉢、フラスコ代わりのガラス瓶、それに良質な薬草を買い付けるための元手がね」
「資金って言ってもなぁ。俺がまた傭兵稼業で魔物でも狩ってくるか? 胃の調子もいいし、ゴブリンの数匹なら今の俺でも……」
「却下。病み上がりの体に負担をかけるのは三流のやることよ。それに、怪我でもされたらまた薬代がかかるじゃない。私たちは『医療従事者』として、もっと賢く、安全に稼ぐのよ」
私は立ち上がり、白衣の代わりに羽織っている少し大きめの清潔な上着の裾を翻した。
「シエナちゃん、あなたの出番よ。この街で一番大きな市場、特に『薬草』や『ポーション』を扱っているエリアに案内してくれる?」
「うん、任せて! 薬師ギルドの人たちがいっぱいお店を出してる大通りがあるんだ。あたし、あそこのゴミ箱からよく薬草の切れ端を拾ってたから、道は完璧だよ!」
シエナが胸を張って答える。ゴミ箱から拾っていたというスラムの過酷な現実に一瞬言葉に詰まったが、私はすぐに営業スマイルを浮かべた。
「頼もしいわね。それじゃ、サキ薬局の市場調査に出発よ!」
* * *
シエナの先導でスラムを抜け、私たちは街の中心部にある大市場へとやってきた。
スラムのどんよりとした空気とは打って変わり、市場は活気に満ち溢れていた。石畳の大通りには数え切れないほどの露店が立ち並び、新鮮な野菜、肉、色とりどりの布地、そして鉄の匂いを漂わせる武具などが所狭しと並べられている。
行き交う人々も、みすぼらしいスラムの住人ではなく、立派な鎧を着た冒険者や、身なりの良い商人たちばかりだ。
「すっごい人……。やっぱり大通りは活気があるね」
「スリに気をつけなさいよ。私たち、スるようなお金も持ってないけど」
はしゃぐシエナの手を引きながら、私は周囲の露店に鋭い視線を巡らせた。
ロッツという二メートルの巨漢が後ろをついてきているおかげで、怪しい連中が寄り付いてこないのは非常に助かる。やはり用心棒の存在は偉大だ。
「お姉ちゃん、あそこ! あそこが薬師ギルドのお店だよ!」
シエナが指差した先には、他の露店とは一線を画す、立派な天幕を張った大型の店舗があった。
看板には、薬草とすり鉢を交差させたような仰々しい紋章が描かれている。店先には、ガラス瓶に入った色とりどりの液体がズラリと並べられ、裕福そうな冒険者たちが群がっていた。
青、赤、緑。いかにもファンタジーの世界の『魔法の薬』といった出立ちだ。
「あれが、この世界のポーション……」
私はゴクリと息を呑み、人混みを縫ってその店先へと近づいた。
店番をしているのは、恰幅の良い、いかにも傲慢そうな中年の男だ。彼は、怪我をした冒険者に向かって、緑色の液体が入った瓶を高く掲げていた。
「さあさあ、薬師ギルド謹製の『中級ポーション』だよ! どんな深い傷も、これを飲めば一晩で塞がる! お値段はたったの銀貨五枚! 命が惜しければ安い買い物だろう!」
「銀貨五枚……っ! 足元見やがって。だが、この傷じゃあ明日のクエストに行けねえ。……くそっ、わかった、買うよ!」
冒険者は渋々といった顔で銀貨を支払い、緑色のポーションを受け取ってその場で一気に飲み干した。
だが、ポーションを飲んだ直後、冒険者は「ごふっ!?」と激しくむせ返り、顔をしかめた。
「ま、不味ぇ……っ! 泥水にカメムシをすり潰して入れたような味がするぞ……!」
「文句を言うな! 『良薬口に苦し』と言うだろう! それだけ強力な薬効成分がたっぷり詰まってる証拠だ!」
店主の言葉に、冒険者はうめき声を上げながら去っていった。
その光景を横で見ていたロッツが、忌々しそうに舌打ちをする。
「あいつらだ……。俺にバカ高い値段で泥水みたいな胃薬を売りつけやがった連中。あの店主の言う通り、良薬口に苦しとか言って、飲めば飲むほど具合が悪くなる薬を売りつけてきやがったんだ」
「ふーん……良薬口に苦し、ね」
私は目を細め、店先に並べられたポーションの瓶の一つに焦点を合わせた。
脳内で【成分鑑定】のスキルが発動し、視界に詳細なデータがポップアップする。
【成分鑑定:中級ポーション(緑)】
・原材料:ヒールグラス(治癒草)、マンドラゴラの根、レッドペッパー(香辛料)、トロールの血、その他雑草十数種類。
・状態:極めて劣悪。
・分析結果:ヒールグラスの細胞修復成分が、マンドラゴラの微量な神経毒とレッドペッパーの刺激成分によって完全に相殺(拮抗)されている。さらに、トロールの血に含まれる寄生虫の卵が未処理のまま混入。
・効能:なし。むしろ強烈な胃腸炎を引き起こす可能性大。ただの不衛生な泥水。
「……………………は?」
私は、自分の目を疑った。
あまりのひどさに、一瞬脳の処理が追いつかなかった。
「ちょっと、サキ? どうしたんだ、急に立ち止まって」
「ロッツ。あれ、いくらって言ってた?」
「銀貨五枚だ。日本円で言えば五万円ってところだな」
「……五万円。あの、ゴミ以下の泥水が、五万円……?」
私はワナワナと震え始めた。
薬剤師としての誇りが、現代医療の叡智が、私の心の中で激しい怒りの炎となって燃え上がっていた。
「ちょっとお姉さん! 買わないなら邪魔だよ! どいたどいた!」
店主が私を邪険に手で払おうとした。
私はその手をピシャリと叩き落とし、店主を正面からキッと睨みつけた。
「あんた、これが『薬』だと思って売ってるの?」
「ああん? なんだ小娘、冷やかしか? 見ての通り、薬師ギルドの誇る最高品質のポーションだぞ。素人が口出しするな」
「素人はあんたの方よ! なにが最高品質よ、笑わせないで!」
私は緑色のポーションの瓶を指差し、周囲の客にも聞こえるような大声で言い放った。
「あんたたち、これを作る時に『ヒールグラス』と『マンドラゴラの根』を一緒に煮込んだわね?」
「なっ……!? なぜお前が製法を知っている!? それはギルドのトップシークレットだぞ!」
「シークレットも何も、臭いと色で一発でわかるわよ! いい!? ヒールグラスの治癒成分はアルカロイド系の一種よ! それをマンドラゴラの神経毒と一緒に煮込んだら、化学反応を起こして成分が互いに打ち消し合う『拮抗作用』が起きるに決まってるでしょ! プラスとマイナスを足してゼロにしてるのよ!」
「き、きっこうさよう……?」
店主がポカンと口を開ける。周囲の冒険者たちも、何事かと足を止めてこちらを見始めた。
私のスイッチは完全にオンになっていた。ブラック薬局で後輩の調剤ミスを激詰めしていた時と同じ、氷のように冷たく、論理的な説教モードだ。
「それだけじゃないわ! 治癒成分を抽出したいなら温度管理が命なのに、あんたたち、全部まとめて大鍋でグラグラ沸騰させたでしょ! 熱に弱い有効成分が完全に破壊されてるわ! おまけに、トロールの血を未加工で入れてるから、寄生虫の卵まで混ざってる! あんなの飲んだら、傷が治るどころか腸内を寄生虫に食い破られて腹痛で死ぬわよ!」
「な、なんだと!? でたらめを言うな! これは長年受け継がれてきた伝統の秘薬で……!」
「伝統? 無知と怠慢を伝統って言葉でごまかすな! 薬草を適当に混ぜ合わせれば効果が倍増するとでも思ってるの!? 薬の基本は『有効成分の抽出と分量の計算』よ! 余計な不純物は毒でしかないの! あんなものは薬じゃない、ただの【消化に悪い、バカ高い泥水】よ!」
ビシィッ! と私の指先が店主の鼻先を突き刺す。
市場の一角が、シンと静まり返った。
誰も、私の言葉の半分も理解できていないだろう。「アルカロイド」や「拮抗作用」なんて、この世界には存在しない概念だ。
だが、私の言葉の端々から溢れ出る『圧倒的な専門知識の圧』と『絶対的な自信』が、周囲の人間を完全に圧倒していた。
「な、なんだこの女……魔女か? いや、でも言ってることはなんだか妙に説得力があるぞ……」
「そういえば、俺もこの前ポーション飲んだら、傷は治らなかったのに激しい下痢になったんだよな……」
周囲の冒険者たちがざわめき始める。
店主は顔を真っ赤にして激怒した。
「ええい、黙れ黙れ! 薬師ギルドを侮辱する気か! おい、誰かこの頭のおかしい女をつまみ出せ!」
店主の奥から、ガラの悪い用心棒たちが数人飛び出してきた。
しかし、彼らが私に手をかけようとした瞬間。
「あァ? 誰に触ろうとしてるんだ、テメェら」
ドスッ! と地響きを立てて、ロッツが私の前に立ち塞がった。
二メートルの巨体、全身を覆う筋肉、そして背中に背負った巨大な斬竜剣。本物の戦場を潜り抜けてきた傭兵の圧倒的な殺気に、用心棒たちは「ヒッ」と悲鳴を上げて後ずさった。
「サキ、どうする? こいつら、叩き斬るか?」
「ダメよ、ロッツ。私たちは医療従事者なんだから、野蛮な暴力は禁止。それに、無知な彼らをこれ以上いじめても一円にもならないわ」
私はフッと鼻で笑い、怯える店主に背を向けた。
「行くわよ、二人とも。こんな泥水を金貨で買ってるバカバカしい市場の調査はもう終わり」
「お、おう。いいのか?」
「ええ。十分に収穫はあったわ」
人混みを抜け、市場の隅へと移動したところで、私は思わず口元を覆って「ふふふ……」と怪しい笑い声を漏らした。
シエナが不思議そうに私の顔を下から覗き込む。
「お姉ちゃん、怒ってたんじゃないの? なんで笑ってるの?」
「ふふ、怒ってるわよ。薬剤師としてはね。でも、経営者としては笑いが止まらないのよ!」
私はガッツポーズを作り、ロッツとシエナに向けて力強く宣言した。
「二人とも、聞いたでしょ? この世界の連中は、薬の『成分抽出』はおろか、『飲み合わせ(相互作用)』の概念すら持っていないの! 効能の違う草を適当に混ぜて、成分を殺し合った泥水を『ポーション』と崇めて高値で売り買いしてる。……これがどういう意味かわかる?」
「えっと……この世界の薬は全部ゴミってことか?」
「その通り! そしてそれはつまり、ここが完全に【ブルーオーシャン(競合のいない未開拓市場)】だってことよ!」
私は興奮のあまり、早口でまくしたてた。
「あの程度の泥水が銀貨五枚で売れるなら! 私が現代の知識で、特定の有効成分だけを抽出し、不純物を取り除いた『本物の特効薬』を作れば、この市場の富を独占できるわ! ポーションなんて非効率の極みよ! これからは『化学式』と『薬理学』の時代! 私たちの薬局が、この世界の医療と経済を根本からひっくり返してやるのよ!」
あまりの熱量に、ロッツとシエナは目をパチクリとさせていたが、やがてロッツがニヤリと悪びれた笑みを浮かべた。
「なるほどな。あのヤブ医者どもを叩き潰して、俺たちが市場をかっさらうってわけか。そいつは痛快だ。俺に泥水を売りつけた復讐にもなる」
「あたしも手伝う! 薬の材料なら、スラムの裏ルートで安く集められるよ!」
「いい子ね、シエナちゃん。そうと決まれば善は急げよ! ロッツ、あなたは冒険者ギルドの裏手に回って、人通りの多い場所に露店を出せるスペースを確保してちょうだい! シエナちゃんは、私の指示する薬草を集めてきて!」
私の脳内では、すでに幾つもの『新薬』のレシピが構築され始めていた。
解熱鎮痛剤、抗生物質、消毒液。どれも、現代の知識と私の【成分鑑定】【調合】スキルを組み合わせれば、この辺りの雑草からでも十分に生成可能なものばかりだ。
「見てなさい、異世界のヤブ医者ども。現代のブラック薬局で鍛え抜かれた社畜薬剤師の恐ろしさ(と、がめつさ)を、骨の髄まで叩き込んでやるわ!」
異世界の市場の片隅で、私、千川咲の壮大な『医療革命』にして『大金持ちへの道』が、ついに本格的な産声を上げた瞬間だった。
手始めにターゲットにするのは、最も怪我人が多く、かつ金払いの良い顧客層――すなわち、『冒険者』たちだ。
私は頭の中でソロバンを弾きながら、これからの荒稼ぎのシミュレーションに胸を躍らせていた。次に出会うであろう『筋肉ダルマのベテラン冒険者』から、どれだけ治療費をふんだくってやろうかと考えながら。




