第4話「スラムの少女と新型栄養失調、あるいはしたたかな現地採用」
スラムの空が、赤黒い夕焼けから濃い紫色の夜闇へと変わろうとしていた。
夕暮れ時特有の、湿った冷たい風が路地裏を吹き抜ける。どこかの家から漂ってくる安っぽい油の匂いや、焦げた穀物の匂いが、私たちの空腹感をこれでもかと刺激してきた。
「ぐるるるるるぅぅぅ……っ」
隣を歩くロッツの腹から、まるで大型の魔物が唸り声を上げているような凄まじい音が鳴り響く。
拠点の大掃除で限界まで体力と魔力(という名の腕力)を使い果たした私たちは、夕食の買い出しと称してスラムの市場へと向かっていた。もちろん、私たちの手持ちは銀貨一枚(約一万円)と銅貨数枚しかない。これで当面の食費と、薬作りのための初期機材を揃えなければならないのだ。
「うるさいわね。少しは腹の虫を黙らせなさいよ。ただでさえひもじいんだから」
「無茶言うなよボス……。俺の胃袋は空っぽ通り越して背中とくっつきそうだ。なぁ、その辺のネズミでも焼いて食わねえか? 泥抜きすればいけるぜ」
「絶対に嫌。あんな雑菌の塊みたいなもの食べたら、今度こそ寄生虫で腹を壊すわよ。いい? 私たちはこれから医療従事者になるの。食の安全には人一倍気をつけなさい」
私は道端に生えている雑草を片っ端から【成分鑑定】スキルでスキャンしながら歩き続けた。
異世界とはいえ、植物の構造は現代とそれほど変わらないらしい。ただの繊維質の塊だったり、微量の毒を含んでいたりするものばかりだが、中には薬効成分を持つものもチラホラと混ざっている。これらをタダで集めて薬に加工し、金持ちからふんだくる。それが私の描くサキ薬局の基本ビジネスモデルだ。
「……ん?」
ふと、薄暗い路地裏の隅っこに、ボロ布の塊のようなものが落ちているのが見えた。
最初はただのゴミかと思ったが、そのボロ布がわずかに上下に動いている。呼吸をしているのだ。
「ロッツ、ストップ。あそこ、誰か倒れてない?」
「あ? ああ、本当だ。……ほっとけサキ。スラムじゃ行き倒れなんて日常茶飯事だ。昨日の夜まで普通に話してた奴が、朝には冷たくなってるなんて珍しくもねえ。関わると死体処理の面倒を押し付けられるぜ」
ロッツは顔をしかめ、私を促すように先を急ごうとした。
確かに、彼の言うことはスラムの常識なのだろう。自分たちの生活で手一杯な貧困層にとって、他人の命にかまっている余裕などない。
だが、私は千川咲。前世で数え切れないほどの患者と向き合い、時には理不尽な死にも直面してきた元・現役薬剤師だ。
「馬鹿言わないで。目の前で急患が倒れてるのに、素通りできるわけないでしょ。私は守銭奴だけど、医療ネグレクトをするような悪徳業者じゃないわ」
私はロッツの制止を振り切り、ボロ布の塊へと駆け寄った。
そこに倒れていたのは、十歳前後と思われる人間の少女だった。
髪は伸び放題でパサパサに乾燥し、顔には泥と煤がこびりついている。着ている服はロッツのもの以上にボロボロで、ところどころから覗く手足は枯れ枝のように細かった。
「ちょっと、大丈夫!? 意識はある!?」
私は少女の肩を揺すり、脈をとる。
脈拍は弱く不規則。皮膚は異常に乾燥しており、触れただけでパラパラとフケのように角質が落ちる。
だが、私が一番気になったのは『痩せ方』だった。
(……おかしいわね。確かに痩せているけど、餓死寸前というほどの極端な体重減少じゃない。腹部にはわずかに皮下脂肪が残ってる。なのに、この極度の衰弱状態は何?)
私は少女の口元をそっとこじ開け、口腔内を確認した。
途端に、薬剤師としての私の脳内に警鐘が鳴り響いた。
歯茎が異常に腫れ上がり、赤黒く出血しているのだ。さらに、手首のあたりをよく見ると、点状の小さな内出血(紫斑)が無数に広がっていた。
「……なるほど。スラム特有の『新型栄養失調』ね」
「しんがた、えいようしっちょう? なんだそりゃ。ただ腹が減ってるだけじゃねえのか?」
「カロリーはかろうじて足りてるのよ。たぶん、安い穀物のクズとか、カビの生えた硬いパンなんかで、お腹だけは膨らませていたんでしょうね。でも、人間の体はカロリーだけじゃ動かないの。ビタミンとミネラルが決定的に不足してるわ」
私の【成分鑑定】スキルが、少女の体の状態を残酷なまでに数値化して脳内に表示していた。
血中ビタミンC濃度、ほぼゼロ。カルシウム、鉄分、その他微量元素も著しく欠乏している。
これは『壊血病』だ。
大航海時代の船乗りたちが、新鮮な野菜や果物を食べられずにバタバタと倒れていった恐ろしい病気。ビタミンCが不足することで体内のコラーゲンが合成できなくなり、血管がもろくなって全身から出血し、最悪の場合は死に至る。
スラムの住人は、安価で腹持ちのいい炭水化物ばかりを食べるため、カロリーは足りていても必須栄養素が完全に枯渇してしまうのだ。
「ロッツ! この子を拠点に運ぶわよ! 急いで!」
「お、おう! わかった!」
私の剣幕に押され、ロッツはひょいっと少女を小脇に抱え上げ、大股で私たちが先ほど掃除を終えたばかりの空き家へと引き返した。
* * *
「よし、かまどの火をもう一度起こして!」
清潔になったばかりの空き家の床に少女を寝かせ、私は即座に治療の準備に取り掛かった。
彼女に必要なのは、魔法使いのポーションなんかじゃない。高濃度のビタミンCとミネラルを一気に補給することだ。
「ロッツ! あなた、さっき市場の肉屋の裏に『魔物の骨』が山積みになって捨てられてるって言ってたわね!?」
「あ、ああ。角ウサギっていう安い魔物の骨だ。出汁も取れねえから、ただのゴミとして捨てられてるが……」
「今すぐその骨を拾ってきなさい! なるべく髄が残ってそうなやつをね! 私はその辺で薬草をむしってくるから!」
ロッツを外へ蹴り出し、私も再び路地裏へと飛び出した。
目を皿のようにして【成分鑑定】をフル稼働させる。
探すのは一つ。強烈な酸味を持つ植物だ。
数分後、ゴミ山の裏にひっそりと群生している、ギザギザの葉を持った黄色い植物を見つけた。
【成分鑑定:酸食草】
・主要成分:高濃度のアスコルビン酸(ビタミンC)、クエン酸。
・状態:新鮮。非常に酸っぱく、食用には不向き。
「あった……! これよ!」
私は酸食草を両手いっぱいにむしり取り、拠点へと駆け戻った。
ちょうどロッツも、血まみれの太い骨を数本抱えて戻ってきたところだった。
「サキ、持ってきたぞ! で、これをどうするんだ?」
「かまどの鍋でお湯を沸かして! その骨をぶち込んで、さらに私が持ってきたこの草を一緒に煮込むのよ!」
「はぁ!? ただでさえ不味そうな骨を、こんな雑草と一緒に煮るのか!? 余計に食えなくなるぞ!」
「いいからやりなさい! これが『化学』の力よ!」
ロッツは半信半疑のまま、言われた通りに沸騰したお湯に骨と酸食草を放り込んだ。
実はこれ、ただの思いつきではない。立派な理屈に基づいた調理法(調剤法)だ。
骨からカルシウムなどのミネラルを抽出するには、ただお湯で煮るよりも『酸』を加えた方が圧倒的に早く、大量に溶け出すのだ。現代でも、骨付き肉を酢で煮込むと骨まで柔らかくなるのと同じ原理である。
酸食草の強烈なビタミンCとクエン酸が、魔物の骨からカルシウムと鉄分を根こそぎ抽出していく。
十分ほど煮込んだ後、私は鍋を火から下ろした。
完成した液体は、骨の髄液と草の成分が混ざり合い、どんよりとした薄緑色の『泥水』のような見た目をしていた。
ツンと鼻を突く酸っぱい匂いと、微かな獣の臭い。
控えめに言って、ゲテモノ料理にしか見えない。
「うげぇ……。サキ、お前、まさかこれをそのガキに飲ませる気か? 毒薬にしか見えねえぞ」
「見た目は最悪だけど、栄養価は現代のエナジードリンク顔負けよ。ビタミンC、カルシウム、ミネラルがたっぷり溶け込んだ特製経口補水液なんだから」
私は少し冷ましたその『泥水』を木の器にすくい、倒れている少女の頭を抱え起こした。
「ほら、起きて。お薬の時間よ」
頬を軽く叩くと、少女はうっすらと目を開けた。
焦点の合わない目で周囲を見回し、私の顔、そして背後に立つ巨大な獣人ロッツの顔を見て、「ひっ」と喉の奥で悲鳴を上げた。
「だ、だめ……。あたし、もう売るようなもの……何も持ってない……。内臓も、病気だから……高く売れないよ……」
かすれた声で震える少女。
スラムで倒れていたところを、怖い獣人と見知らぬ女に拾われたのだ。臓器売買か奴隷商人に捕まったと思うのが普通だろう。この世界の闇の深さが垣間見えて、私は少しだけ胸が痛んだ。
だが、私は努めて冷静に、いつもの薬局のカウンター越しと同じ、事務的だが安心感を与えるトーンで話しかけた。
「誰もあなたの内臓なんて取らないわよ。私はサキ。薬剤師よ。あなたはね、悪い病気じゃなくて、極度の栄養不足で倒れたの。ほら、これを飲みなさい。少しは楽になるから」
私は器を少女の口元に運んだ。
少女は怯えながらも、猛烈な喉の渇きには勝てなかったのか、器の縁にひび割れた唇をつけた。
コクン、と一口飲む。
その瞬間、少女の体がビクッと跳ねた。
「……っ!!」
「ほら、言わんこっちゃねえ! すげえ不味いんだろ!?」
ロッツが慌てて声を上げるが、少女の反応は彼の予想とは違っていた。
少女は目を見開き、両手で器をガシッと掴むと、まるで砂漠でオアシスを見つけた旅人のように、ゴクゴクと音を立ててその薄緑色の泥水を飲み干し始めたのだ。
「ぷはっ……! はぁ、はぁ……っ!」
一滴残らず飲み干した少女は、器を抱きしめたまま、ポロポロと大粒の涙をこぼし始めた。
「おい、泣いてるぞ! やっぱり不味すぎて精神崩壊したんじゃねえか!?」
「違うわよ。……体が、喜んでるの」
私は静かに言った。
壊血病や極度の栄養失調状態にある体は、本能的に自分に足りない栄養素を渇望する。普通なら酸っぱくて飲めないような強烈な酸味や、骨のえぐみも、今の彼女の体にとっては『命を繋ぐ極上の甘露』に感じられるはずなのだ。
「美味しい……。こんな、体に染み込むみたいに美味しいお水……初めて、飲んだ……」
少女は涙と鼻水を拭いながら、夢心地のような顔で呟いた。
先ほどまで青白かった顔に、ほんのりと赤みが差してきている。血管内に急速にビタミンと水分が吸収され、細胞が息を吹き返している証拠だった。
「ふふ、お粗末様。でも、いきなり大量に飲むと胃がびっくりするから、今日はこれくらいにしておきなさい。明日からは、もう少し消化のいいものを食べさせてあげるからね」
私が頭を撫でてやると、少女はハッとしたように身を引き、急に顔を青ざめさせた。
「あ、あの……。あたし、シエナって言います。……お姉ちゃん、これ、お薬なんだよね? あたし、お金なんて一銅貨も持ってないよ……。やっぱり、奴隷として働くしかないの……?」
怯えるシエナ。その後ろで、ロッツが「あーあ、可哀想に。うちのボスは金にはがめついからな。俺みたいに一生タダ働きさせられるぜ」とボヤいている。
私はロッツをギロリと睨んで黙らせた後、シエナに向かって、とびきり優しく、聖女のような微笑みを向けた。
「何言ってるの、シエナちゃん。私はね、『子供からはお金を取らない主義』なのよ」
「え……?」
「大人の患者からはむしり取るけど、未来ある子供を借金漬けにする趣味はないわ。だから、今回の薬代と治療費は、全部タダでいいわよ」
その言葉を聞いて、シエナだけでなく、後ろのロッツまで「ええええっ!?」と大声を上げた。
「ボ、ボス!? お前、俺の時は金貨十枚とかいうふざけた請求してきたくせに! なんでこのガキにはタダなんだよ!」
「うるさいわね。あなたは立派な大人でしょ。大人は自分の命の責任を金で払うの。子供は社会が守るもの。それが私のコンプライアンスよ」
キッパリと言い切る私に、シエナは「お姉ちゃん……女神様みたい……」と拝むような目で私を見た。
うんうん、いい傾向だ。
子供に優しくするのは本当だ。前世でも、小児科の処方箋を持ってくる子供には、いつも笑顔でシールをあげていた。
しかし。
私はブラック薬局で鍛え上げられた、したたかな経営者(予定)でもある。タダで助けるが、ただで帰すとは言っていない。
「でもね、シエナちゃん」
私は、シエナの手を優しく握りながら、営業用の甘い声で囁いた。
「タダで助けてもらったままじゃ、シエナちゃんも気が引けるでしょ? だから、私のお手伝いをしてくれないかな?」
「お、お手伝い……?」
「そう。私はこの街で薬屋を開こうと思ってるんだけど、よそ者だから、どこにどんな草が生えてるのか、誰がどんな病気で困ってるのか、全然わからないの。シエナちゃんは、このスラムの裏道や情報に詳しいわよね?」
スラムで生き抜いてきた子供の情報網を舐めてはいけない。彼らはどこに使えるゴミが落ちているか、どの路地にどんな人間が出入りしているか、大人よりもずっと正確に把握している。
それに、薬草の分別や細かい計量作業には、ロッツのような無骨な巨人の手よりも、シエナのような小さくて器用な子供の手の方が圧倒的に向いているのだ。
「シエナちゃんの知識と、その小さな手が必要なの。もちろん、奴隷なんかじゃないわ。立派な『サキ薬局の現地スタッフ』としての採用よ。毎日、お腹いっぱいのご飯と、必要な栄養素(特製エナジードリンク)を支給する。安全に寝られる場所も提供する。どう? 悪い話じゃないでしょ?」
シエナはポカンとしていたが、やがてその大きな瞳に光を取り戻し、力強く何度も頷いた。
「やる! あたし、なんでもする! お姉ちゃんのためなら、なんだって集めてくるよ!」
「よし、契約成立ね。今日からあなたが、サキ薬局の優秀なスカウトマン兼、採取部隊長よ」
私はニヤリと、今度は悪代官のような笑みを浮かべた。
怪力と武力を担当するロッツ。情報収集と細かな作業を担当するシエナ。
たった一日で、肉体労働と情報網の要となる初期スタッフを、実質『食費のみ』で確保することに成功したのだ。これほどコストパフォーマンスに優れた人材確保はないだろう。
児童労働? いやいや、これは立派な『福利厚生(食事・住居完備)付きの職業訓練』である。少なくとも、前世のあのハゲタカ薬局長よりは、私の方が一万倍ホワイトな経営者だと胸を張って言える。
「よし、それじゃあシエナちゃんも少し元気になったことだし、今度こそ夕食の買い出しに行くわよ! ロッツ、財布(という名の銀貨一枚)を持ちなさい!」
「へいへい……。なんだか、とんでもねえ女に拾われちまったな、俺たち……」
呆れ顔のロッツと、希望に目を輝かせるシエナを引き連れ、私は再び夜のスラムへと繰り出した。
異世界の劣悪な医療事情を鼻で笑い、現代薬学の知識で荒稼ぎする。
私の華麗なる『ボッタクリ(予定)薬局』の経営は、まだ産声を上げたばかりだった。




