第3話「拠点作りは命がけ? 大剣モップとアルカリ水の魔法(物理)」
「……燃やそう」
それが、スラムの奥深くにひっそりと佇む『空き家』を案内された私の、偽らざる第一声だった。
どんよりと曇った空の下、目の前にあるのは『家』と呼ぶのもおこがましい、ただの巨大な木箱の残骸だった。屋根はところどころ抜け落ちて空が見え、壁の板は腐りかけて隙間風が吹き放題。半分外れかかった木製のドアは、風が吹くたびにギィ、ギィと断末魔のような悲鳴を上げている。
だが、問題は建物の構造ではない。ドアの隙間から漂ってくる、目や鼻を突き刺すような強烈な悪臭だ。
長年放置されたホコリと、湿気を吸って増殖したカビ、それに得体の知れない小動物の糞尿が混ざり合った、まさに『バイオハザード』と呼ぶにふさわしい空間。
「は!? も、燃やす!? なんでだ!? せっかくタダで住める場所を見つけたのに!」
私の物騒な発言に、隣に立つ巨漢の獣人ロッツが慌てて身を乗り出してきた。彼の大きな狼耳が、驚きでピンと立っている。
「なんでって、見ればわかるでしょ。こんな雑菌とカビの温床で生活したら、あなたの治りかけの胃潰瘍が悪化するどころか、私が呼吸器系の感染症で死ぬわ。見てみなさいよ、あそこの壁。黒いシミみたいになってるの、全部クロカビよ。床に生えてるあの不気味な色のキノコなんて、私の『成分鑑定』スキルがさっきから【致死性の毒素・胞子飛散中】ってけたたましくアラートを鳴らしてるんだから」
私はドアの隙間から見える惨状を指差し、心底うんざりした顔でため息をついた。
現代日本で薬剤師として働いていた私にとって、衛生管理は何よりも最優先されるべき絶対のルールだ。調剤室の床はチリ一つなく磨き上げられ、アルコール消毒の匂いが常に漂っているのが当たり前だった。
それがどうだ。異世界の、しかもスラムの空き家は、私の衛生観念のハードルを地下百メートルまでぶち抜いていった。
「カビ? 菌? なんだそりゃ。ただの汚れだろ? 汚れなんて気合でどうにでもなる。それに、冒険者や傭兵なんてのはな、少しくらい泥水すすって汚い場所で寝起きした方が、体が頑丈になるってもんだぜ!」
ロッツが己の胸の筋肉をドンッと叩き、ドヤ顔で言い放つ。
ああ、出た出た。前近代的な根性論。これだから医療後進国の住人は困るのだ。
「あのねぇ、ロッツ。気合で細菌やウイルスが死滅するなら、この世に医者も薬局もいらないのよ。泥水をすすって体が頑丈になるんじゃなくて、泥水の中の雑菌に耐えられなかった弱い個体が淘汰されてるだけ。生存バイアスってやつよ。いい? 私たちはこれからここで、人の命を救うための『薬』を作るのよ? そんな神聖な場所が、犬小屋以下の不衛生空間であっていいわけないでしょ!」
「い、犬小屋……俺、一応狼の獣人なんだけどな……」
「黙りなさい。燃やさないなら、今から徹底的に、文字通り『塵一つ残さない』レベルの大掃除を敢行するわよ! もちろん、あなたがメインの労働力としてね!」
「お、俺が!?」
悲鳴を上げるロッツを無視して、私は周囲を見渡した。
掃除をすると言っても、現代日本のように便利な掃除機もなければ、強力な合成洗剤があるわけでもない。手元にあるのは、私の知識と、ロッツの無駄にでかい筋肉だけだ。
だが、絶望するにはまだ早い。洗剤がないなら、作ればいいのだ。薬剤師の知識は、化学の知識と直結している。
「ロッツ、まずはその背中に背負ってる無駄にデカい剣を抜きなさい」
「お? おう! ついに俺の『斬竜剣』の出番だな! 近くに魔物でも出たか!?」
ロッツが嬉々として背中の大剣を引き抜く。刃渡りだけで私の身長ほどもある、分厚く巨大な鉄の塊だ。鈍い光を放つその剣は、確かに数々の戦場をくぐり抜けてきた凶器としての迫力があった。
「ええ、巨大な敵よ。そこの崩れかけた壁の廃材とか、近くに落ちてる適当な木の枝を、その剣で手頃な薪のサイズに叩き割りなさい」
「…………は?」
「薪割りよ。まずは大量の『お湯』と『灰』を作らないと始まらないの。ほら、ボーッとしない! 治りかけの胃に鞭打って働きなさい!」
「お、俺の相棒はワイバーンの鱗すら断ち切る名剣なんだぞ!? なんでただの薪割りの斧代わりに……!」
「うるさいわね。ワイバーンが切れるなら薪なんて余裕でしょ。さあ、サボってないで早く!」
私が両手に腰を当てて睨みつけると、ロッツは「うぅ……泣くぞ、俺の剣が泣いてるぞ……」と半泣きになりながら、スラムの廃材に向かって大剣を振り下ろし始めた。
ドゴォォォン! という、薪割りらしからぬ爆音が響き渡り、木材が粉々に砕け散る。
うん、威力は申し分ない。少し細かすぎる気もするが、燃えやすくてちょうどいいだろう。
彼が薪割り(という名の破壊活動)をしている間に、私は空き家の中に恐る恐る足を踏み入れ、かろうじて形を残していた石造りの「かまど」をチェックした。
煙突部分は鳥の巣のようなもので塞がっていたが、棒で突っついて貫通させる。灰をかき出し、ロッツが砕いた薪をくべた。
幸い、ロッツが火打ち石を持っていたため、すぐに火を起こすことができた。
「サキ、薪はこれくらいでいいか? ぜえ、ぜえ……」
「お疲れ様。次は水よ。水筒でも何でもいいから、近くの井戸から水を限界まで汲んできなさい。ああ、ついでに、あなたが持ってる予備の服の中で、一番どうでもいい布切れを全部出しなさい」
「布? まさか、俺の服を雑巾にする気か!?」
「当たり前でしょ。私の着てる服を破るわけにいかないんだから。後で新しいのを買ってあげるから、今は我慢しなさい」
ブツブツと文句を言いながらも、ロッツは素直に従った。命を救われた恩義があるためか、意外と扱いやすい。
彼が水を汲みに行っている間、私はかまどで勢いよく燃える火を見つめながら、これから作る【特製洗剤】の化学式を頭の中で組み立てていた。
木材を燃やしてできる『木灰』。これには、豊富な『炭酸カリウム』が含まれている。
炭酸カリウムは水に溶けると、強いアルカリ性を示す。アルカリ性の水溶液は、タンパク質を分解し、油汚れと反応して『石鹸』と同じ成分を作り出す性質(鹸化作用)がある。
つまり、木灰を水に溶かして上澄みを取れば、それは立派な『天然のアルカリ洗剤(灰汁)』になるのだ。
現代のホームセンターで売っているセスキ炭酸ソーダや重曹スプレーの、さらに強力な天然バージョンと言っていい。異世界のしつこい皮脂汚れや油汚れ、黒カビの温床を根絶やしにするには、これ以上の武器はない。
「サキ! 水汲んできたぞ! 重てぇ……これ、全部で五十リットルくらいあるぞ……」
巨大な木樽を軽々と担いできたロッツが、ドスンと地面に樽を置く。胃潰瘍の病み上がりとは思えない馬力だ。やはり獣人は基礎スペックが違う。
「ご苦労様。じゃあ、まずはかまどに備え付けの大鍋に水を張って、沸騰させるわよ。殺菌の基本は『煮沸』だからね。そして、沸いたお湯に、かまどでできた『木灰』を大量に投入するのよ」
「灰を水に入れる? なんでそんな泥水みたいなもん作るんだ?」
「泥水じゃないわ、アルカリ水よ。いいから黙って見てなさい」
グラグラと煮え滾るお湯の中に、燃え尽きたばかりの真っ白な木灰をスコップですくって大量に投入する。
しばらく煮立たせた後、火から下ろして静かに放置する。すると、灰の不純物が鍋の底に沈殿し、上の方には少し黄色がかった透明な液体(上澄み液)が残る。
私はその上澄み液を指先で少しだけすくい、親指とこすり合わせてみた。
「……うん、ヌルヌルする。完璧ね」
指先がヌルヌルするのは、アルカリ溶液が私の皮膚の表面のタンパク質をわずかに溶かしている証拠だ。かなり強いアルカリ性が出ている。
「よし、第一段階クリア。ロッツ、あなたがさっき出したボロ布を、この灰水の中にぶち込んで煮洗いするわよ。布の繊維の奥の雑菌まで根こそぎ死滅させるの」
「うおお……俺の一張羅が、謎の汁でグツグツ煮込まれていく……」
ロッツの悲痛な声をBGMに、私は木の棒で鍋の中の布をかき混ぜる。
十分ほど煮込んだ後、布を取り出して真水で濯ぎ、固く絞る。これで、ただの不衛生なボロ布が、完全無菌の『強力アルカリ雑巾』へとクラスチェンジした。
「さあ、いよいよ本番よ。ロッツ、これを使いなさい」
私が手渡したのは、熱々のアルカリ雑巾を、彼の大剣『斬竜剣』の鞘の先端にグルグル巻きにして縛り付けた、即席の【超重量級ロングモップ】だった。
「…………サキ。俺の相棒の鞘に、煮込んだ俺の服が巻き付けられてるんだが。これはどういう冗談だ?」
「冗談じゃないわよ。天井や壁の高いところのカビを落とすには、長い柄が必要でしょ。でもここには手頃な棒がない。だから、あなたの大剣の鞘をモップの柄として代用するの。ほら、重さがある分、ゴシゴシ擦るのに最適でしょ?」
「俺の、数々の戦場を共に駆け抜けた相棒があああぁぁっ!!」
「うるさいっ! 泣き言言ってないで手を動かす! まずは天井のクモの巣とホコリを全部落として! それが終わったら壁の黒カビ! 私は床のヘドロ汚れを落としていくから!」
私のブラック企業仕込みの『大掃除モード』のスイッチが完全に入ってしまった。
かつて、年末の薬局大掃除で、バイトの学生たちを泣きながら働かせた「鬼の千川」の異名が伊達ではないことを見せてやる。
「そこ! 隅っこのホコリが残ってる! 力任せに撫でるんじゃなくて、アルカリ水が汚れの根元に浸透するのを意識して擦りなさい! はい次、窓枠の下! カビの胞子を吸い込まないように布で口を覆う!」
「ひぃぃぃッ! ま、魔物と戦うよりキツいぃぃっ!」
私の容赦ない怒号が飛ぶ中、ロッツは涙目で大剣モップを振り回し、壁をガシガシと擦り始めた。
私は私で、床にこびりついた正体不明の黒いヘドロ(おそらく長年の油汚れや食べかすが腐敗したもの)に、鍋からすくった熱々のアルカリ水をぶちまけた。
ジュワッ、という音とともに、強アルカリ成分がヘドロの油分と反応し始める。
デッキブラシがないため、適当な木の板の破片を使って床をゴシゴシと削り取るように擦る。
「おおっ!?」
上の方で壁を擦っていたロッツが、驚きの声を上げた。
「サキ! なんだこれ! ガッチガチに固まってた真っ黒な汚れが、この汁をつけるとドロドロに溶けて、スッと拭き取れるぞ!? まるで魔法みたいだ!」
「ふふん、魔法じゃないわ。化学よ。油汚れの主成分である脂肪酸と、灰水のアルカリ成分が反応して、水に溶けやすい石鹸の成分に変化してるの。汚れが自ら汚れを落とす洗剤に変わってるってわけ」
「かがく……? せっけん……? よくわからねえが、すげえ! 俺、この家がこんな明るい色の木でできてるなんて、初めて知ったぞ!」
汚れが面白いように落ちる快感に目覚めたのか、ロッツの動きが目に見えて良くなった。
アルカリ水による化学分解と、獣人の異常な腕力による物理攻撃。この二つが組み合わさった清掃力は凄まじかった。
長年蓄積されたスラムの汚泥が、次々と茶色い泡となって剥がれ落ち、下から白っぽい本来の木材の地肌が姿を現していく。
私は床を這いつくばりながら、板の隙間に詰まった汚れまで、木片を使って執拗に掻き出していった。
額から汗が滴り落ち、灰水で手はガサガサに荒れていくが、目の前の不浄が浄化されていく過程は、薬剤師としての私の魂を深く満たしてくれた。
「……よし。最後は、煮沸した真水で全体を拭き上げるわよ! アルカリ成分が残ってると木が傷むからね! ロッツ、水のおかわり!」
「おうっ! 任せとけボス!」
もはやロッツは完全に私の部下(清掃スタッフ)として仕上がっていた。
巨大な樽から真水を汲み出し、何度も何度も雑巾を洗いながら、壁と床と天井を狂ったように拭き上げていく。
カビの根が深く浸透している部分は、私の『成分鑑定』でピンポイントに特定し、そこだけ熱湯をぶっかけて熱で物理的に細胞を破壊した。
* * *
数時間後。
スラムの空には、赤黒い夕焼けが広がっていた。
空き家の前で、ロッツが「もう……腕が……一ミリも動かねえ……」と、大の字になって地面に倒れ伏している。ワイバーンを倒す大剣使いも、私の徹底的な大掃除の前には完全敗北だった。
私は、腰に手を当て、肩で息をしながら、自分たちが丸一日かけて作り上げた『作品』を振り返った。
そこにあるのは、つい数時間前まで悪臭を放っていたバイオハザード空間ではない。
ドアの蝶番は外れたままだし、屋根に穴は空いているが、内部は信じられないほど清潔だった。
黒カビは根絶され、床のヘドロは跡形もなく消え去っている。代わりに漂ってくるのは、煮沸された古い木材の香りと、清浄な空気だけだ。
脳内の【成分鑑定】スキルを起動して室内を見渡しても、危険なアラートは一つも鳴らない。
「ふぅ……。まあ、及第点ってところね。これなら、薬の調合をしてもしばらくは雑菌の混入を防げるわ」
私は袖で額の汗を拭い、フフッと笑みをこぼした。
無一文で異世界に放り出され、絶望的なスラムで目覚めた時はどうなることかと思ったが、なんとか最初の『城』を手に入れることができた。
ここが、私とロッツの拠点。
そして、異世界初の、現代薬学に基づく真っ当な『薬局』のスタート地点だ。
「おい、サキ……」
「ん? なによ、まだ息があったの?」
「息はあるが、腹が減って死にそうだ……。もう胃は痛くねえから、何か食わせてくれよ……。俺、あんたの借金を返す前に、餓死しちまう……」
「あ……」
ロッツの情けない声を聞いて、私自身の腹の虫も「きゅるるるるっ」と大音量で鳴り響いた。
そういえば、過労死する直前にカロリーメイトをかじって以来、何も食べていない。大掃除で体力を使い果たし、限界だった。
「……そうね。とりあえず、拠点も綺麗になったことだし、何か食べ物でも探しに行きましょうか。スラムの市場みたいなところ、あるんでしょ?」
「ああ。だが、俺たち一文無しじゃねえか。どうやって飯を食うんだ?」
「決まってるでしょ。私の知識と腕で、その辺の雑草をお金に換えるのよ」
私は疲れ切った体に鞭を打ち、ニヤリと悪党のような笑みを浮かべた。
お金がないなら、稼げばいい。治癒魔法なんていう非効率なものに頼っているこの世界なら、私の薬学知識は文字通り『錬金術』に変わるはずだ。
「さあ、立つ! サキ薬局の初仕事、まずは夕食代を稼ぐための素材集めよ!」
「鬼だ……。この女、間違いなく神殿が探してる魔女か悪魔だ……」
ブツブツと文句を言いながらものろのろと起き上がるロッツの巨大な背中を叩きながら、私たちは夕闇に沈みつつあるスラムの街へと足を踏み出した。
明日には、もっと効率よく薬を作るための道具や、有能なスタッフを見つけたいところだ。
そんなことを考えながら歩いていた私たちが、路地裏の片隅で、今にも消えそうな命の灯火を揺らしている『小さな影』に出会うのは、このすぐ後のことだった。




