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第2話「命の恩人と高額請求、あるいは異世界式ブラック雇用の幕開け」

「き、金貨十枚ィィィッ!?」


どんよりと淀んだスラム街の空気を切り裂くように、巨漢の獣人ロッツの悲痛な叫び声が響き渡った。

あまりの大声に、ゴミ山の陰で残飯を漁っていた巨大なドブネズミたちが「チュウッ!?」とパニックを起こして四方八方へ散っていく。

しかし、その程度の騒ぎで私の鋼のメンタルが揺らぐことはない。私はブラック薬局で、薬の待ち時間が長いと理不尽に怒鳴り散らすクレーマー老人たちを、冷徹な笑顔と事務的なトーンで何百人もあしらってきた百戦錬磨の薬剤師である。


「なによ、耳元で大声出さないでよ。そんなに驚くこと? 命の値段としては、むしろ破格の安さだと思うんだけど」

「い、いや、安いとか高いとかそういう次元の話じゃねえ! 金貨十枚っていったら、王都の一等地に家が建つぞ!? あるいは、高位の神聖魔法使いを三人は呼べる額だ!」

「へえ、そうなの。この世界の相場はよく知らないけど、私の治療はその『高位の魔法使い』とやらの施術と同等、いやそれ以上の価値があるってことね」


私は腰に手を当て、まだ地面に座り込んだままのロッツを見下ろした。

身長二メートル、全身筋肉の塊のような大柄な狼の獣人が、身長百六十センチに満たない貧弱な人間の女(私だ)に見下ろされて、なぜか子犬のようにブルブルと震えている。なかなかシュールな光景である。


「いい? ロッツさん。あなたの胃袋はね、度重なるストレスと暴飲暴食、それに加えて劣悪な衛生環境のせいで、胃酸過多による重度の胃潰瘍を引き起こしていたの。放置すれば胃の壁に穴が空いて胃穿孔。腹腔内に内容物がぶちまけられて、急性腹膜炎からの敗血症で、今夜中には間違いなくあの世行きだったわ」

「い、いせんこう……? はいけつ……?」

「要するに、腹の中が腐って死ぬ寸前だったってこと。それを私は、この辺の希少な薬草(ただの雑草)と、特殊な魔法生物の抽出液(干からびたスライムの粘液)を、私の高度な専門技術(素焼きの破片ですり潰しただけ)を用いて調合し、あなたの胃粘膜を緊急コーティングして止血したのよ」


私は人差し指を立てて、流れるように内訳を説明していく。


「初診料、深夜および休日対応の割増料金、緊急救命処置の技術料、特殊成分の調合および新薬のパテント(特許)料。さらに、見ず知らずのむさ苦しい獣人の口の中に、素手で薬を突っ込んだ私の精神的苦痛への慰謝料。これらをすべてひっくるめて、金貨十枚。どう? とっても明朗会計でしょ?」

「め、めいろう……?」

「インフォームド・コンセント(納得診療)の精神よ。さあ、治療内容に納得したなら、さっさと払いなさい。現金一括、もしくはクレジットカード……はないわね。まあ金貨でいいわよ」


私が右手をスッと差し出すと、ロッツは「ひっ」と短い悲鳴を上げ、慌てて腰からくたびれた革袋を外した。

逆さにして振るが、チャリン、と情けない音を立てて落ちてきたのは、くすんだ銅貨が数枚と、薄汚れた銀貨がたったの一枚だけだった。


「…………」

「…………」


気まずい沈黙が、路地裏に降り下りる。

冷たい風が吹き抜け、私の足元を謎の綿毛が転がっていった。


「あの、これだけですか?」

「……これだけ、です。銅貨が八枚と、銀貨が一枚。しめて銅貨百八枚分……」

「金貨一枚って、銀貨何枚分?」

「銀貨百枚で、金貨一枚、だ……」


私は頭の中で素早く計算機を弾いた。

つまり、金貨十枚というのは銀貨千枚。彼が持っているのは銀貨約一枚分。

支払える額は、請求額の『約0.1パーセント』。


「…………舐めてるの?」


私の声の温度が一気に絶対零度まで下がったのを察知し、ロッツは「ひぃぃぃッ!」と巨大な体を縮こまらせた。


「ち、違うんだ! 払いたくないわけじゃねえ! 俺だって傭兵としてそこそこ稼いではいたんだ! だが、数ヶ月前から胃が焼け付くように痛くなって、まともに仕事ができなくなって……! 稼いだ金は全部、『薬師ギルド』の連中に毟り取られちまったんだよ!」

「薬師ギルド? なによそれ」

「この街の医療を牛耳ってる連中さ。あいつらの作る『癒しのポーション』とやらを飲めば治ると言われて、金貨を何枚も積んで買い続けた。だが、飲んでも飲んでも一向に良くならねえ。それどころか、泥水みたいに不味くて、飲むたびに胃が痛むんだ! 金が尽きた途端、あいつらは俺をこのスラムに放り出しやがった!」


ロッツの言葉を聞いて、私はピクリと眉をひそめた。

泥水のように不味く、飲むたびに胃が痛む薬。

私の『成分鑑定』スキルがなくても、薬剤師としての経験がその正体を粗方予想していた。おそらく、薬効成分の抽出という概念がなく、適当な薬草を何種類もごちゃ混ぜに煮込んでいるだけだ。結果として成分同士が相殺し合い、ただの消化に悪い刺激物の泥水を「ポーション」と称して高値で売りつけているのだろう。


(……どこの世界にも、患者の無知につけ込むヤブ医者と悪徳業者はいるってことね。しかも、治らないのをいいことに継続的に買わせて金を巻き上げるなんて、ブラック薬局のハゲタカ店長よりタチが悪いわ)


同業の端くれとして、いや、現代の国家資格保持者として、猛烈な怒りが湧いてくる。

だが、それとこれとは話が別だ。


「事情はわかったわ。あなたが悪徳業者に騙された可哀想な被害者だってことはね」

「お、おお! わかってくれるか!」

「ええ。でも、それは私が治療費を免除する理由にはならないわよね?」

「……へ?」


ぱぁぁっと明るくなったロッツの顔が、再び絶望に染まる。


「命は平等よ。でも、タダじゃないの。私はあなたを助けるために、私の技術と時間と知識を提供した。それに対する正当な対価を受け取る権利があるわ。それに、私もさっきこの世界に……ゴホン、この街に来たばかりで、身寄りもないし一文無しなのよ。これから起業して大金持ちになる予定だから、初期投資の資金はどうしても回収させてもらうわ」

「む、無茶苦茶だ! 無い袖は振れねえ! 俺を売って奴隷にでもする気か!?」

「そんなことしないわよ。コンプライアンス的に問題があるし、獣人の奴隷なんてエサ代ばかりかかってコスパが悪そうだもの」


私はため息をつき、ロッツの目をまっすぐに見据えた。


「払えないなら、働いて返しなさい」

「……働く?」

「そう。現金がないなら労働力で現物支給よ。幸い、無駄に図体だけはデカいし、筋肉もついてる。さっきの薬の効き目を見る限り、あと数日消化にいいものを食べれば、力仕事くらいはできるようになるわ」


私は地面に落ちていた手頃な木の枝を拾い、土の上にサラサラと文字(なぜかこの世界の言語が書けるようになっていた)を書き始めた。


「というわけで、今この瞬間から、あなたは私の『専属護衛』兼『雑用係』兼『薬の素材集め担当』よ。借金一千万……じゃなくて、金貨十枚を完済するまで、私の手足となって働いてもらうわ。あ、もちろん住み込みで、まかない付き。ただし、給料は全額借金返済に充てるから、当分は手取りゼロね」

「て、手取りゼロ!? つまりタダ働きじゃねえか!」

「人聞きの悪いこと言わないで。ちゃんとした『債務整理』よ。あなたが死にかけていたところを救って、さらに衣食住まで保障してあげるんだから、むしろ感謝してほしいくらいね。ほら、ここにサインか、手形でも押しなさい」


土の上に書かれた即席の【雇用契約書(という名の奴隷契約)】を指さす。

ロッツは顔を引き攣らせていたが、自身の腹にそっと手を当てた。あれほど四六時中彼を苦しめ、死の淵まで追いやった焼けるような痛みが、今は嘘のように消え去っている。胃の中を冷たくて優しいゼリーが覆っているような、不思議な安堵感。

目の前に立つ、自分よりずっと小さくて線の細い人間の女。彼女が、神聖魔法すら治せなかった自分の病を、たった一発の謎の薬で治してしまったのは紛れもない事実だった。


「……わかった。俺は傭兵だ。受けた恩と、結んだ契約は絶対に守る。命を救ってもらった恩義は、必ずこの体で返すぜ」


ロッツは観念したように息を吐くと、土の上の契約書に、自らの大きな手形をドンッと押し当てた。

よし、言質は取った。これで異世界での最初の『資産(従業員)』を獲得だ。

前世で散々ブラック企業に搾取されてきた私が、まさか異世界に来て数十分でブラック経営者の側に回るとは思わなかったが、背に腹は代えられない。定時退社とふかふかのベッド、そして大金持ちへの第一歩だ。


「契約成立ね。私の名前はサキ。今日から私があなたのボス(薬局長)よ。よろしくね、ロッツ」

「あ、ああ……よろしく頼む、サキボス……」

「ボスは余計よ、サキでいいわ。それじゃ、さっそく最初のミッションよ」


私はパンパンと手の土を払い、スラムの周囲を見渡した相変わらずの悪臭と、不衛生な環境。早くここから抜け出したいが、今の私たちには宿屋に泊まる金すらない。


「拠点を探すわよ。雨風がしのげて、できれば水場が近いところ。あなたがスラムに放り出されたっていうなら、どこか空き家の一つや二つ、心当たりがあるんじゃない?」

「……空き家なら、心当たりはあるが。本当にあんなボロ小屋でいいのか?」

「贅沢言える身分じゃないでしょ。案内しなさい」


ロッツはのっそりと立ち上がると、背中に大剣を背負い直し、私の前を歩き始めた。

彼の大きな背中を追いかけながら、スラムの奥へと進んでいく。

道中、明らかにカタギではない、顔に傷のあるチンピラのような男たちが数人、獲物を見るような目でこちらに近づいてきた。金目のものを持っていないか物色しているのだろう。

私が少し身構えた瞬間、ロッツが立ち止まり、クルリと振り返ってチンピラたちを睨みつけた。


「アァ? 俺のボスに何か用か?」


地を這うような低い唸り声。先ほどまで腹を抱えてうずくまっていた病人の姿はどこにもない。二メートルを超える狼の獣人が、殺気を放って立ちはだかる威圧感は凄まじかった。

チンピラたちは「ひぃっ!」と情けない声を上げ、蜘蛛の子を散らすように逃げていった。


(……なるほど。無給の用心棒としては、かなり優秀ね)


私は自分の先見の明(ただ押し切っただけだが)に内心で拍手を送った。

これなら、治安の悪いこの世界でも、安全に薬草の採取や商売ができそうだ。


「着いたぜ。ここだ」


数分後、ロッツが足を止めたのは、スラムのさらに奥まった場所にある、今にも崩れそうな木造の小屋だった。

壁は板が剥がれ、屋根にはぽっかりと穴が空いている。ドアは半分外れかかっており、蝶番が悲鳴を上げていた。


「昔、身寄りのない老人が住んでたんだが、病気で死んじまってな。それ以来、気味悪がって誰も寄り付かねえんだ。どうだ?」


ロッツが申し訳なさそうに振り返る。

私は無言で、半分外れかかったドアを押し開けた。

ギィィィッという不快な音と共に、中から長年蓄積されたホコリとカビ、そして得体の知れない獣の糞の臭いがブワッと吹き出してきた。

床には謎の黒いシミが広がり、隅の方には正体不明のキノコが生えている。


【成分鑑定:腐敗した木材と黒カビ群生地】

・主要成分:アスペルギルス属などのカビ胞子、雑菌の温床。

・状態:極めて不衛生。呼吸器系への深刻なダメージあり。


脳内に直接警告音が鳴り響くレベルの惨状だった。

私は静かにドアを閉め、深呼吸を一つした。


「……ロッツ」

「お、おう」

「あんたの大剣、あれは切れ味いいの?」

「そりゃあな。俺の相棒だ。鉄の鎧だって両断できるぜ」

「そう。じゃあ、まずはその大剣で、そこらへんの木を切り倒してきなさい」

「は? 木を? なんでだ?」

「決まってるでしょ」


私は、前世で薬局の調剤室をピカピカに磨き上げていた時と同じ、一切の妥協を許さない眼差しでロッツを睨みつけた。


「大掃除よ。こんなカビと雑菌の温床で寝起きしたら、胃潰瘍が治る前に感染症で死ぬわ。木灰からアルカリ水を作って、徹底的に洗浄と消毒を敢行するわよ! さあ、動いた動いた! ブラック薬局、もとい、サキ薬局の開店準備よ!」

「な、なんかよくわかんねえが、すげえ気迫だ……!」


大剣をモップとほうき代わりにさせられる運命をまだ知らない獣人の相棒を急かしながら、私の異世界での下剋上生活が、本格的に幕を開けようとしていた。

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