第1話「過労死からの目覚めは、最悪の衛生環境(スラム)でした」
「千川さん、悪いんだけどこの処方箋の入力、今日中に終わらせといて。あ、残業代は出ないからよろしくねー。それじゃ、お疲れ様!」
深夜十一時。薄暗い調剤薬局のバックヤードで、ふくよかな体型をした薬局長が、小山のように積まれた処方箋の束を私のデスクにドンッと置き、そそくさと帰っていった。
カチャリと自動ドアが閉まる音を聞きながら、私は手元のピルケースを握りしめ、無表情のまま虚空を見つめた。
(……呪ってやる。絶対に、あのハゲタカ薬局長を呪ってやる)
私の名前は千川咲。御年二十九歳、独身。彼氏なし、貯金はそこそこあるが使う暇なし。
医療系の大学を這うようにして卒業し、見事、国家資格である薬剤師免許を取得したまでは良かった。だが、就職先として選んでしまったこの地域密着型の薬局が、完全なるブラック企業だった。
慢性的な人手不足。近隣の総合病院から次々と押し寄せる患者。理不尽なクレームを浴びせてくる老人たち。そして、一切の労務管理を放棄し、すべてを現場に丸投げする薬局長。
毎日朝八時から夜中まで働き詰め。昼食はカロリーメイトを水で流し込むだけ。ここ一ヶ月、まともにベッドで寝た記憶がない。
「はぁ……。まあ、愚痴っても仕事は減らないしね。やるか」
ため息をつきながら、パソコンのキーボードを叩き始めたその時だった。
ドクンッ、と。
心臓が、今まで経験したことのないような不気味な脈打ち方をした。
「え……?」
途端に、視界がぐにゃりと歪む。胸の奥を太い鉄串で貫かれたような、息の止まるような激痛。
パソコンのモニターが急激に遠ざかり、代わりに冷たいリノリウムの床が迫ってくる。
あ、これ、ヤバいやつだ。医療従事者としての冷静な知識が、自分の体に起きている異常を瞬時に分析する。急性心筋梗塞か、それとも過労による心不全か。
薄れゆく意識の中で、私が最後に思ったのは、「来月のシフト、まだ出してないのに」という、どうしようもなく社畜に染まりきった未練だった。
* * *
「……くさい」
それが、私の新たな人生の第一声だった。
目覚めた私を真っ先に襲ったのは、光でも音でもなく、強烈な『悪臭』だったのだ。
「な、何これ……生ゴミ? いや、違う。もっと酷い。下水と排泄物と、何かが腐ったような……」
思わず鼻をつまみながら身を起こす。
そこは、どこかの路地裏だった。見上げると、どんよりと曇った空と、無骨な石造りの建物がひしめき合っている。足元は舗装されていないむき出しの土で、ところどころに得体の知れない汚水が水たまりを作っていた。
病院のベッドではない。自分のアパートでもない。
そして何より、着ている服がおかしい。麻袋を適当に縫い合わせたような、ゴワゴワとしたみすぼらしい貫頭衣。手足は少し細くなっている気がするが、間違いなく私の体のままだ。
「もしかして……これが噂の、異世界転移ってやつ?」
最近、休憩時間の暇つぶしにネット小説でよく読んでいた設定だ。
過労死した主人公が、女神様にチート能力をもらって異世界でスローライフを満喫する、というアレ。
だが、私の心に湧き上がってきたのは、感動でもワクワクでもなく、純粋な『怒り』だった。
「ふざけんじゃないわよ! なんで目覚めた場所がこんな不衛生の極みみたいなスラム街なの!? 女神様はどこ!? 私のチート能力と、フカフカのベッドと、有給休暇はどこにあるのよ!!」
誰もいない路地裏で叫んでみるが、返ってくるのは冷たい風の音だけだ。
周囲を見渡しても、中世ヨーロッパの貧民窟をさらに悪化させたような絶望的な光景しか広がっていない。壁には謎の苔がびっしりと生え、足元にはネズミの死骸のようなものが転がっている。
「最悪……。衛生観念ゼロじゃない。こんな環境に一日いたら、破傷風か赤痢で死んじゃうわよ……」
薬剤師としての潔癖な部分が悲鳴を上げている。とにかく、こんな不衛生な路地裏からは一刻も早く抜け出さなければ。
そう思って立ち上がろうとした時だった。
「……グルァ……ッ……ガハッ……」
すぐ近くのゴミ山の陰から、低く、苦しげなうめき声が聞こえた。
ビクッとして身構える。野犬か何かだろうか。
恐る恐るゴミ山の裏を覗き込んだ私は、思わず息を呑んだ。
「犬……いや、人間……?」
そこに倒れていたのは、身長二メートルはありそうな巨漢だった。だが、ただの人間ではない。頭部には狼のようなピンと立った獣耳があり、全身は筋肉の鎧で覆われ、腰からは太い尻尾が生えている。
ネット小説の知識に当てはめるなら、いわゆる『獣人』というやつだろう。
背中には彼自身の身長ほどもある巨大な両手剣(大剣)を背負っており、一見するととてつもなく強そうだ。
しかし、その屈強な獣人の男は、今は見る影もなく丸まり、小犬のように震えていた。
「ガハッ……ゲホッ……!」
男が咳き込むと同時に、口からドロリとした液体が吐き出された。
赤黒い、血だ。
それも、鮮血ではない。コーヒーの残渣のように黒ずんだ、胃酸と混ざり合った血液。
(……上部消化管からの出血。それも、かなりの量。この吐血の仕方と、みぞおちを抱え込んでいる姿勢からして、重度の胃潰瘍か、最悪、胃穿孔を起こしてる……!)
前世の職業病が、瞬時に男の症状を分析していた。
放っておけば、失血死か腹膜炎で間違いなく死ぬ。
普通なら、こんな得体の知れない異世界の、しかも強面な獣人に近づくべきではない。関われば面倒なことになるのは目に見えている。
だが、目の前で苦しんでいる患者を見捨てられるほど、私はドライになりきれていなかった。
「ちょっと! 大丈夫!? 意識はある!?」
気づけば、私は悪臭も忘れて獣人の男に駆け寄っていた。
触れた皮膚は冷たく、冷や汗をびっしょりと掻いている。完全なショック状態の一歩手前だ。
「……ぁ……ぐる……」
「ダメだ、意識が混濁してる。とにかく止血して、胃粘膜を保護しないと……って、薬なんてあるわけないじゃない!」
自分の状況を思い出し、舌打ちする。
私はさっきこの世界に転移(あるいは転生)してきたばかりで、無一文だ。白衣も着ていなければ、いつもの調剤薬局にあるような制酸薬も、胃粘膜保護薬も、止血剤もない。
「どうする……何か、何かないの!?」
周囲を見渡す。目に入るのは、崩れかけたレンガの壁と、汚い水たまり、そして雑草だけ。
その時だった。
壁の隙間に生えている、赤紫色の小さな花をつけた雑草に視線を向けた瞬間、私の頭の中に『声』ではない、直接的な『情報』が流れ込んできたのだ。
【成分鑑定:ゲンノショウコ亜種】
・主要成分:タンニン(強力な収れん作用、止血作用、粘膜保護作用)
・状態:乾燥不足だが薬効あり。
「え……?」
瞬きを繰り返す。今のは何だ?
まるで見えないARグラスでもかけているかのように、その雑草の成分データが脳内にポップアップしたのだ。
試しに、近くに転がっていた謎のキノコを見てみる。
【成分鑑定:ドクツルタケ変異種】
・主要成分:アマトキシン類(致死性の猛毒。肝細胞破壊)
・状態:新鮮。食べたら死ぬ。
「……なるほど。これが私のチート能力ってわけね」
状況を即座に理解した。
魔法で炎を出したり、剣で無双したりする力ではない。物質の成分を読み取る力。一見地味だが、薬剤師の私にとってはこれ以上ない最強の武器だ。
私は迷わず、壁の隙間に生えていた赤紫色の雑草をむしり取った。タンニンにはタンパク質を凝固させる作用がある。これを飲ませれば、胃の出血部位を物理的に塞ぎ、止血できる可能性が高い。
だが、ただ雑草を食わせるわけにはいかない。弱っている胃に繊維質は逆効果だ。有効成分だけを抽出し、かつ、胃壁全体を優しくコーティングするような『基材』が必要だ。
現代ならスクラルファートのようなアルミニウム塩を使うが、ここにはない。
何か、粘り気があって、なおかつ胃酸を中和できるような弱アルカリ性の物質は……。
血走った目で周囲を探索すると、水たまりの近くで、半透明の水風船のような生き物がピクピクと動いているのを見つけた。
ファンタジーの定番モンスター、スライムだ。ただし、手のひらサイズで、今にも死にそうに萎びている。
【成分鑑定:弱小スライムの粘液】
・主要成分:高純度のムチン質、炭酸水素ナトリウム(重曹)成分を含む。
・状態:衰弱中。粘液の分泌量が低下。
「……ビンゴ!!」
私は悪魔のような笑みを浮かべ、その萎びたスライムを両手で鷲掴みにした。
ムチン質は胃の粘膜を保護する最強のバリアだ。おまけに重曹成分が含まれているなら、胃酸を中和する制酸薬としての役割もバッチリ果たしてくれる。
「ごめんね、ちょっとあんたの体液、使わせてもらうわよ!」
「ピィィィッ!?」
スライムが悲鳴を上げたような気がしたが、命には代えられない。
私は持っていた石でスライムを軽く叩き、分泌されたドロドロの粘液を、落ちていた少しだけ綺麗な(と言っても汚いが)素焼きの破片に集めた。
そこに、先ほどむしり取った雑草を石ですり潰して混ぜ合わせる。
「でも、これじゃあ成分がちゃんと抽出されないわね……煮出すお湯もないし」
そう呟いた瞬間、私の手元がふわりと淡い緑色の光に包まれた。
【固有スキル:調合 を発動します】
頭の中に再びアナウンスが響く。
光が収まると、素焼きの破片の上には、雑草の繊維質や不純物が綺麗に消え去り、エメラルドグリーンに輝くドロリとした液体が完成していた。
成分鑑定のスキルが、その液体の効能を証明している。
【即席・胃粘膜保護および止血剤】
・効能:重度の胃炎、胃潰瘍による出血の停止、胃酸の完全中和。
・副作用:強烈な苦味と青臭さ。
「できた……! 私の、異世界での初調剤!」
感動に浸っている暇はない。獣人の男の呼吸が、いよいよ浅く、不規則になってきている。
私は急いで男の頭を膝に乗せ、強引にその大きな顎をこじ開けた。鋭い牙が手に当たって痛いが、構っていられない。
「ほら、飲みなさい! 気合で飲み込むのよ!」
素焼きの破片から、エメラルドグリーンのドロドロの液体を男の口に流し込む。
男は無意識のうちにそれをゴクリと飲み込んだ。
直後。
「~~~~~~ッッ!!??」
男が、目を見開き、全身の毛を逆立ててビターンッと魚のように跳ね回った。
副作用に書いてあった『強烈な苦味と青臭さ』が、ショック状態の脳を強制的に叩き起こしたらしい。
「う、おおおおおおっ!? に、苦ァァァァァいッ! 毒!? 毒かこれ!?」
「暴れないの! いいから大人しくして! 今、薬が胃壁にコーティングされてる最中なんだから!」
涙目で喉をかきむしる男の背中を、私は思い切りバンバンと叩いた。
数分後。
あれほど苦しそうに吐血していた男の呼吸が、嘘のようにスゥッ……と穏やかになり、顔色(毛皮の下の皮膚の色)にも赤みが戻ってきた。
荒れ狂っていた胃痛が嘘のように消え去ったことに気づいたのか、男は信じられないといった顔で自分のお腹をさすっている。
「……痛みが、ない。あんなに焼けるように痛かったのに……血も止まったのか……?」
「ふう。なんとか間に合ったみたいね。急性期の出血は抑えたけど、潰瘍自体が治ったわけじゃないから、しばらくは消化にいいものを食べること。お酒と香辛料は絶対禁止。ストレスもためないようにね」
私は額の汗を拭いながら、いつもの調剤薬局のカウンター越しと同じトーンで服薬指導を行った。
「お前が、俺を……救ってくれたのか? 治癒魔法も使わずに……?」
「魔法? ああ、そんな便利なもんじゃないわよ。ただのその辺の雑草とスライムの体液を調合しただけ。私は千川咲。ただの薬剤師よ」
男は、まるで女神でも見るかのような、潤んだ瞳で私を見上げた。
大きな犬が恩人に懐くような、純粋な尊敬と感謝の眼差し。
「俺はロッツだ……。傭兵をやっている。恩に着る、命の恩人よ。この大剣に誓って、この恩は必ず……!」
感動的なシーンだ。普通なら、ここで「気にしないで」と微笑み返し、頼もしい仲間をゲットしてハッピーエンド、となるところだろう。
しかし、私は千川咲。
ブラック薬局で身を粉にして働き、無給の残業で命を散らした、骨の髄までの資本主義の奴隷である。
私は、感動で涙ぐむロッツに向かって、極上の営業スマイルを浮かべた。
「命が助かって本当に良かったわ、ロッツさん。さて、無事に治療も終わったことだし、お会計にしましょうか」
「えっ?」
ぽかんとするロッツに向かって、私は容赦なく言葉を叩きつけた。
「初診料、深夜・休日対応の割増し、緊急救命処置、特殊成分の調合技術料、並びに新薬のライセンス料を合わせて……しめて、金貨十枚になります。もちろん、現金一括払いでね」
「き、金貨十枚ィィィッ!?」
スラムの路地裏に、獣人の悲鳴が響き渡った。
のちに、大陸最大規模となる『サキ薬局』の、記念すべき一人目の患者にして、最初の「被害者(従業員)」が誕生した瞬間であった。




