第49話「王宮魔道医の屈服と衛生マニュアル」
王都を覆っていた分厚い死の影が、完全に晴れようとしていた。
私、千川咲――王国の特別医療顧問が発令した『サキ式・公衆衛生ルール(手洗いと煮沸消毒の徹底)』と、サキ薬局オールスターズの過酷なブラック労働によって生産された『特製・経口補水液』および『広域抗菌シロップ』の大量配布。
この徹底的なカガク的アプローチ(と冒険者たちによる物理的な指導)により、王都で猛威を振るっていた水系感染症(コレラ等の類)のパンデミックは、発生からわずか数週間という異世界の歴史上あり得ないスピードで、完全なる鎮圧へと至ったのである。
王城の隔離テントは次々と解体され、街には再び活気が戻りつつあった。
王太子殿下も、毎日私が処方した『超高濃度ビタミン・ハニーレモネード』を飲み続けた結果、見事に壊血病を克服。今ではベッドから起き上がり、新鮮な野菜スープを自らスプーンで口に運べるまでに回復していた。
そして現在。
王城の奥深く、私に与えられた豪華な執務室にて。
私は、山のように積まれた真っ白な羊皮紙の束に向かい、羽ペンを猛烈な勢いで走らせていた。
「よし、第七章『細菌学の基礎と接触感染のメカニズム』の記述はこれで完了、と。……メイラ! 次は第八章『消毒法と医療器具の滅菌プロセス』よ。私が口述するから、一言一句間違えずに書き写しなさい!」
「はいっ、サキ工場長! 私の筆記スピードは、魔力炉の火力制御と同じく完璧であります!」
魔力枯渇の地獄から生還し、すっかり私の優秀な秘書(社畜)として板についたエルフの魔法使いメイラが、隣のデスクで凄まじい速度でペンを走らせる。
私たちが今作っているのは、ただの記録書ではない。
前世の現代社会では義務教育レベルの常識でありながら、この異世界においては神の奇跡すら凌駕する『究極の真理』――現代医学と公衆衛生の基礎知識を全て詰め込んだ、一冊の分厚い本である。
「おいサキ、相変わらず精が出るな」
執務室の扉が開き、ドワーフの豪商カルラが分厚い葉巻の煙を吐き出しながら入ってきた。その後ろには、二メートルの巨漢獣人ロッツが、大量の茶菓子や飲み物を抱えて続いている。
「ボスの命令で、王都の最高級の茶葉と焼き菓子をもらってきたぜ。全部、王室のツケでな」
「ご苦労様、ロッツ。そこに置いておいて」
私が指示すると、カルラは呆れたように肩をすくめた。
「お前が王室や貴族どもから巻き上げた特別ボーナスの金貨、すでに城の金庫室の一つを埋め尽くすほどの量になっているぞ。これ以上、何を企んでいるんだ? まさか、その羊皮紙の束まで金に換えるつもりか?」
「当然じゃない。これこそが、今回の王都出張における『最大の目玉商品』よ」
私は、分厚く束ねられた羊皮紙の表紙をポンと叩いた。
そこには、『サキ式・公衆衛生&基礎医学マニュアル(完全版)』という題名が、美しいカリグラフィーで記されている。
「カルラ社長。いくら私が特効薬を大量生産しても、この王都の連中の『根本的な衛生観念』が変わらない限り、また数年後には同じように疫病が流行るわ。悪霊だの呪いだのって寝言を言ってる連中の頭を、カガクの論理で物理的に叩き割って、OS(常識)をアップデートしてやらなきゃいけないのよ」
「なるほどな。でお前は、そのOS(常識)の書き換えプログラムを、国に超高額で売りつけようというわけか。相変わらず、底なしの強欲さだ」
「強欲じゃないわ。人類の進歩に対する正当な技術指導料よ。……で? お客さんたちは来てるんでしょ?」
私が視線を向けると、カルラはニヤリと笑った。
「ああ。執務室の外の廊下で、もう三時間も前からお前のお呼びを待って、直立不動で震えているぞ。……あの、プライドばかり高かった『王宮魔道医』の連中がな」
* * *
「……入りなさい」
私が声をかけると、重厚な扉がギギギと開き、十数名の男たちが恐る恐る執務室へと足を踏み入れた。
先頭に立つのは、筆頭王宮魔道医のガリウス。その後ろには、王太子殿下の病室で私に論破され、物理的に放り出された特権階級の医師たちが、まるで借りてきた猫のように背中を丸めて並んでいた。
かつて彼らが身にまとっていた、金糸や宝石で飾られた傲慢なローブは、今は見る影もない。豪華な装飾は外され、全員が真っ白で清潔な(しかしどこか着慣れない様子の)簡素な服を着ていた。
そして何より、彼らの両手は、石鹸で何度も何度も洗いすぎたのか、少し赤く擦り剥けてすらいた。
「……王国の特別医療顧問、千川咲殿。お忙しいところ、我々のような愚か者の面会をお許しいただき、感謝の念に堪えません」
ガリウスが、かつての高圧的な態度はどこへやら、消え入りそうな声で口を開いた。
私は革張りのソファに足を組んで座り、冷ややかな視線で彼らを見下ろした。
「ずいぶんと殊勝な態度ね。少し前まで、私のことを『田舎の小娘』だの『詐欺師』だのって罵ってたのはどこの誰だったかしら? それに、あんたたち自慢の『悪霊を祓う煙』とやらはどうしたの?」
「うぐっ……!」
私の容赦ない皮肉に、ガリウスをはじめとする魔道医たちは一斉に顔をしかめ、恥辱に身を震わせた。
無理もない。彼らが数百年もの間、絶対の真理と信じて疑わなかった『魔法医療(神聖なる祈りによる治癒)』は、私というたった一人の薬剤師がもたらした『手洗い、煮沸、そして特効薬』というカガク的物理療法によって、完全に、完膚なきまでにその無力さを証明されてしまったのだから。
王太子の呪いも、王都の疫病も、彼らは何一つ解決できなかった。
それどころか、不衛生な手で患者に触れ、煙を焚いて苦しめるという『疫病の加担者』であった事実を突きつけられたのだ。彼らの権威は、もはや地に落ちるどころか、地下の汚水(ウンコ水)の中にまで沈み込んでいた。
「サ、サキ顧問……。我々は……我々は、自分たちの無知と傲慢さを、骨の髄まで思い知らされました……」
突然。
ガリウスが、その場にバタンッと膝をついた。
王宮において絶大な権力を誇っていた筆頭魔道医が、自分の孫ほども年の離れた平民の小娘(私)の前に、床に額を擦り付けるほどの勢いで『土下座』をしたのだ。
「筆頭!?」
「我々も!」
ガリウスに続き、後ろに控えていた魔道医たち全員が、一斉に執務室の絨毯の上に土下座をした。
「どうか、どうかお許しいただきたい! 悪霊のせいにし、呪いのせいにして、患者の真の苦しみから目を背けていた我々の愚かさを! そして……!」
ガリウスは顔を上げ、涙と鼻水でグシャグシャになった顔で、私に向かって必死に懇願した。
「どうか、貴女の持つその大いなる秘術(医学)を、我々にお教えいただけないだろうか! 人を真に救うための、あの泥水(経口補水液)の錬成法を! 目に見えぬ悪魔(病原菌)の正体を暴く、あの恐るべき透視の術を! 我々は、一から……いや、ゼロから、貴女の元で弟子として学び直したいのです!」
数十人の老人たちが、涙を流しながら床に頭を擦り付け、私に教えを乞う。
それは、異世界の古い医療常識が、現代医学の前に完全に白旗を上げ、屈服した歴史的瞬間であった。
「……はぁ」
私は、深ーい、深ーいため息をつき、組んでいた足を解いた。
「だから、秘術でも魔法でもないって言ってるでしょ。何回言わせるのよ、学習能力がないわね」
「し、しかし! あれほどの奇跡、魔術や秘術でなければ到底説明が……!」
「説明できるわよ。全部、物質の『理』と、論理的な『証拠』に基づいたカガクの力だからね」
私は立ち上がり、デスクの上に置かれていた分厚い羊皮紙の束――『サキ式・公衆衛生&基礎医学マニュアル(完全版)』――を手に取り、ガリウスの目の前にドサッと落とした。
「ひぃっ!? こ、これは……!?」
「あんたたちが知りたがってる『秘術(笑)』の正体が、全部そこに書いてあるわ」
私が言うと、ガリウスは震える手でマニュアルの表紙をめくった。
そこには、私が前世の記憶を頼りに書き起こした、異世界人にも分かるような徹底的な図解入りの解説がビッシリと詰まっていた。
「さ、細菌学……? 接触感染……? 白血球の免疫機構……?」
ガリウスが、見たこともない専門用語の数々に目を白黒させる。
「いいこと? あんたたちの神聖魔法は、細胞の修復速度を一時的に早めるだけのただの『対症療法』よ。でも、病気の原因である『病原菌』が体内に残ったままなら、いくら細胞を修復してもまたすぐに食い破られるわ。だから、原因菌を特定し、それを殺すための『抗菌薬』と、免疫力を高めるための『栄養(ビタミン等)』が必要なの」
私は、土下座する魔道医たちの間をゆっくりと歩きながら、冷徹な教師のように言葉を紡いだ。
「悪霊なんていない。病気は呪いじゃない。全ては目に見えない微生物やウイルスの仕業であり、不衛生な環境がそれを増殖させる。……手を洗い、水を煮沸し、体を清潔に保つ。それが、どんな高位の回復魔法よりも確実に、人々の命を救う『真の医療』なのよ」
私の言葉は、彼らの心に雷のように突き刺さった。
魔法という神秘のベールを剥ぎ取り、病気の正体を『物理的な現象』として解き明かしたそのロジックは、彼らにとって世界観がひっくり返るほどの衝撃であった。
ガリウスは、マニュアルを抱きしめるようにして、ボロボロと大粒の涙をこぼした。
「おおおおおっ……! なんということだ! これが、真理……! 命を救うための、真の知識! これさえあれば、この国から理不尽な病死を根絶できるかもしれない……!」
「サキ顧問! いや、サキ大先生! どうかこの偉大なる教典を、我々に! この知識を王国の医療の礎とさせてください!」
魔道医たちが、狂喜乱舞してマニュアルに群がろうとする。
しかし、私はその分厚い本をスッと彼らの手から奪い返し、極上の、そして冷酷無比な悪徳商人のスマイルを浮かべた。
「誰がタダであげるって言ったのよ」
「えっ?」
ガリウスたちが、間の抜けた声を出す。
「いい? このマニュアルは、私の現代医学の知識と、数々の臨床データ(ブラック企業での過労経験)が詰まった『最高級の知的財産』よ。あんたたちみたいなプライドだけ高い老害どもに、タダで恵んでやる義理なんて一ミリもないわ」
「そ、そんな……! しかし、この知識があれば、何万人もの民の命が救われるのですぞ!」
「だからこそ、高く売れるんじゃない。需要と供給よ」
私は、執務室の奥でニヤニヤと笑っているカルラ社長を指差した。
「カルラ社長。この『サキ式・公衆衛生&基礎医学マニュアル』の独占販売権および、教育プログラムのライセンス使用料の算定は終わってるわよね?」
「ああ、完璧だ。王室の予算担当者と、この国の全医療機関(神殿を含む)の年間予算を徹底的に洗い出して計算した」
カルラは分厚い葉巻の灰を落とし、一枚の羊皮紙をガリウスの前に突きつけた。
「このマニュアルの『原本』の譲渡、および王宮魔道医たちがこの技術を使用して医療行為を行うための『特許使用料』。しめて……【金貨十万枚】。さらに、今後このテキストを使用して設立される全ての医療学校から、授業料の『十パーセント』を永久にサキ薬局にロイヤリティとして納めること」
「じゅ、じゅっ、十万枚ィィィィィッ!?」
ガリウスが、目玉が文字通り飛び出さんばかりに見開き、絶叫した。
他の魔道医たちも、あまりの桁違いの要求額に白目を剥いて卒倒しそうになっている。
金貨十万枚。それは、小国であれば国を一つ買えてしまうほどの、想像を絶する莫大な金額だ。
「ぼ、暴利! 悪魔の搾取だ! いくらなんでも、一冊の本と知識の対価として、そのような天文学的な数字を払えるわけがない! 国王陛下が絶対にお許しに……」
「――許可するそうだぞ」
突然、執務室の扉が開き、真っ黒な法衣をまとった異端審問官の長、ゲルドが現れた。彼の手には、王室の最高実印がデカデカと押された契約書が握られていた。
「ゲ、ゲルド様!? し、しかし、王国の予算が……」
「国王陛下は、王太子殿下の命を救い、王都の滅亡を防いだサキ先生の功績を重く見られた。それに、この真理の知識が王国の未来を百年進める価値があることを、十分に理解しておられる」
ゲルドは片眼鏡を光らせ、冷徹な声で宣告した。
「金貨十万枚の支払いは、王室の予備金と、貴族たちからの臨時徴収で賄うと、すでに御前会議で決定された。……ガリウス。貴様ら魔道医は、今後はサキ先生の『弟子(下請け)』として、このマニュアルの教えを死に物狂いで学び、王国の隅々にまで公衆衛生を普及させるのだ。それに逆らう者は、異端審問官の権限において私が即刻破門し、財産を没収する!」
最強の監査官(花粉症持ち)による、逃げ場のない法的・政治的ハンマー。
ガリウスたちは完全に包囲され、もはや頷く以外の選択肢を全て奪われていた。
「あ、あああ……」
ガリウスは震える手でマニュアルを受け取り、そして、敗北感と、新しい知識への渇望、そしてこれから始まる『サキ式医療』という名のブラックな研修地獄への絶望がない交ぜになった表情で、再び深く、深く土下座をした。
「……謹んで、お受けいたします。我々王宮魔道医は、これよりサキ大先生の知識の僕として、粉骨砕身、王国の医療に尽力いたします……」
王宮魔道医たちの完全なる屈服。
それは、異世界の古臭い非科学的な医療が、私――過労死寸前のブラック薬局からやってきた一人の強欲な薬剤師のカガク的知識によって、完全にアップデート(上書き)された歴史的瞬間であった。
「ふふふ……。いい返事よ。さあ、明日からあんたたちには、私のマニュアルを丸暗記するまで寝ずに勉強してもらうからね! 手洗いの回数が足りない奴は、容赦なくロッツの筋肉指導の刑よ!」
「ヒィィィィッ!!」
かくして。
王都のパンデミックという未曾有の危機は、サキ薬局の莫大な富の獲得と、王国の医療レベルを百年単位で底上げする劇的な革命という、この上ない「超・大成功」で幕を閉じたのである。
「よし、これで王都での面倒な仕事は全部終わったわね。あとはカネを数えるだけよ!」
私が満面の笑みで金貨の山にダイブしようとしたその時。
執務室の扉から、国王の側近が青ざめた顔で飛び込んできた。
「サ、サキ顧問! お喜びください! 国王陛下が、貴女の多大なる功績を称え、直々に『公爵位』の授与と、王太子殿下との『ご婚約』を打診されております!」
「……は?」
私の金貨を数える手が、ピタリと止まった。
大富豪薬剤師の成り上がり人生、最後の最後で降りかかった『最大にして最悪の試練(名誉という名の首輪)』。
「冗談じゃないわよ! 誰がそんな面倒くさいブラック役職につくもんですか!!」
私の絶叫が、王城の奥深くで虚しく木霊した。




