第44話「王太子の奇病と『偏食』の代償」
病室から無能な王宮魔道医たちを物理的に叩き出し、新鮮な風を入れ込んだことで、王太子の呼吸は少しだけ穏やかになったようだった。煙と悪臭が消え去り、ようやく「患者を診察するための最低限の環境」が整う。
ベッドに横たわる王太子殿下――年齢はユーリス様と同じくらい、二十代前半の青年だ――は、焦点の定まらない虚ろな目で私を見つめていた。
「殿下、失礼します。少し体を診させていただきますね」
私は白衣の袖をまくり、殿下の細い腕を取って脈を診た。脈は弱く、早い。そして額に手を当てると、火のように熱かった。
さらに詳しく観察する。
「口を開けていただけますか? ……なるほど。歯茎がひどく腫れ上がり、ドス黒い血が滲んでいる。それに、この腕や首筋に浮かび上がっている無数の紫色の斑点……点状出血ね」
私は殿下の腕をそっと持ち上げ、皮膚の状態を確認した。毛穴の周囲が出血しており、皮膚の下で微小な血管が破綻しているのが一目でわかる。それに加え、尋常ではない全身の極度な倦怠感。
魔道医たちが「悪霊の呪いによる腐敗」と恐れおののいていた症状の数々。
しかし、現代の薬学と基礎医学を学んだ私にとって、この症状の組み合わせが示す答えは、あまりにも明白で、そして呆れるほど『古典的』なものだった。
「……ねえ、ゲルドさん」
私は背後に控えていた異端審問官のゲルドを振り返った。
「殿下はここ数ヶ月、どんな食事を摂っていたか分かる?」
「食事、ですか? 私は王宮の厨房の者ではありませんが……王族の食事といえば、最高級の猪肉や鹿肉のロースト、熟成されたチーズ、そして年代物の赤ワインなど、極上の品ばかりのはずです。少なくとも、粗末なものを召し上がっていたということは絶対にありません」
「野菜や果物は?」
私が尋ねると、ゲルドは怪訝な顔をした。
「野菜や果物など……あのような土にまみれた貧相なものは、スラムの平民や農民が飢えを凌ぐために食う『下等な餌』です。高貴なる王族の口に入るような代物ではありません。殿下も、そのようなものは一切口になさらないはずですが……それが何か?」
私は、天を仰いで深ーい、深ーいため息をついた。
「……やっぱりね。典型的な『貴族病』だわ」
「貴族病……? それが、この恐るべき呪いの正体だとおっしゃるのですか?」
「呪いなんかじゃないわよ。ただの『重度の壊血病』と、免疫力低下による『風邪』の併発よ。原因は極めてシンプル。……偏食による、致命的なビタミンCの欠乏ね」
「び、びたみん……欠乏?」
ゲルドが片眼鏡をずり落としそうになりながら聞き返す。ベッドの上の王太子殿下も、微かに首を傾げていた。
「いい? 人間の体っていうのは、お肉やチーズ(タンパク質や脂質)だけじゃ生きていけないの。体の血管を丈夫に保ったり、免疫力を維持したりするためには、『ビタミン』っていう微量な栄養素が絶対に不可欠なのよ。特にビタミンCは、人間の体内では作り出せないから、食べ物から摂取するしかない」
私は、殿下の腕の紫色の斑点を指差した。
「ビタミンCが足りなくなると、血管の壁を作る接着剤が作れなくなって、全身の血管がボロボロになって破れるの。これが歯茎からの出血や、皮膚の斑点の正体。放っておけば、内臓からも出血して死に至るわ。……昔の船乗りたちが、新鮮な野菜や果物を食べられなくてバタバタ死んでいったのと同じ理屈よ」
「な、なんということだ……」
ゲルドは顔面を蒼白にさせた。
「王宮魔道医どもが束になっても解けなかった強力な呪いの正体が……ただ『野菜と果物を食わなかったから』だと言うのですか!?」
「そうよ。だからあいつらの神聖魔法じゃ治らなかったの。魔法でいくら細胞を活性化させようとしても、材料になる栄養がすっからかんなんだから、治りようがないでしょ。むしろ、無理に魔法で治そうとして体力を奪ってたんじゃないかしら」
「なんと恐ろしい……! 無知という名の悪魔は、身内に潜んでいたというわけか……!」
ゲルドはワナワナと震え、怒りで拳を握りしめた。
「で、殿下……! すぐに厨房へ命じ、野菜のスープを作らせましょう!」
「待ちなさい。今の殿下の弱り切った胃腸じゃ、固形物や繊維質の多い野菜は消化しきれないわ。それに、熱を加えるとビタミンCは壊れやすくなるの。今必要なのは、水分と糖分、そして高濃度のフレッシュなビタミンCを同時に、かつ大量に摂取させることよ」
私がそう宣言したちょうどその時、病室のドアがバンッと開かれ、大量の木箱を抱えたロッツと、カルラ社長、そしてメイラが入ってきた。
「サキ、注文通り王都中の市場から『柑橘類(レモンやオレンジの類)』を根こそぎ買い占めてきたぞ。荷馬車三台分だ」
カルラが葉巻を咥えたまま、山盛りの黄色い果実が入った木箱をドンッと床に置く。
「さすがカルラ社長! 仕事が早くて助かるわ! メイラ、出番よ! その果実を全部真っ二つに切って、魔力で果汁を一滴残らず搾り取りなさい! 種と皮は完璧に取り除くこと! それに、カルラ社長が持ってきた蜂蜜と、少しの岩塩を混ぜて、人肌の温度に温めるの!」
「はいっ、サキ工場長! お任せください!」
メイラは白衣の袖をまくり上げ、両手に魔力を込めた。
「風の精霊よ、見えざる刃となりて果実を断て! 水の精霊よ、純然たる果汁のみを抽出せよ!」
エルフの高度な精霊魔法。本来ならば戦場で大軍を吹き飛ばしたり、大干ばつの大地に雨を降らせたりするための神秘の力が、今はただひたすらに『レモンとオレンジを完璧に絞るための全自動ジューサー』として行使されていた。
宙に浮いた数百個の果実が、風の刃で一瞬にして真っ二つにされ、水の魔法によって果汁だけが抽出されて空中の巨大な水球に集まっていく。
そこに、私がカルラから受け取った黄金色の蜂蜜(糖分)と、微量の岩塩(電解質)を投入する。
さらに私は、持参した調合鞄から、解熱鎮痛作用のある『ヤナギの樹皮エキス(アスピリンの原料)』を数滴、水球の中に滴らした。これは併発している風邪の熱を下げるためだ。
「よし、メイラ! 最後に炎の精霊で、摂氏三十八度まで温めて!」
「了解です! 炎の精霊よ、優しき温もりを!」
ボワッという微かな熱気と共に、空中に浮かぶ黄金色の液体が、人肌程度に温められる。
「完璧ね。これが、高熱と壊血病を同時に叩き潰す、サキ薬局特製『超高濃度ビタミン・ハニーレモネード(経口補水液仕様)』よ!」
私は、メイラが魔法で水差しに移し替えたその黄金の液体をグラスに注ぎ、王太子殿下のベッドへと近づいた。
「殿下、起き上がれますか? これを飲んでください」
私がグラスを口元に運ぶと、王太子は微かに眉をひそめた。
「これ……は……。酸っぱい匂いが……する。私は、果物などという下賎な……」
「命がかかってる時にワガママ言わない! いいから飲みなさい!」
私は半ば強引に、殿下の口にグラスを押し当て、黄金の液体を流し込んだ。
「んぐっ……!? こ、これは……」
一口飲んだ瞬間、王太子の虚ろだった瞳が、カッと大きく見開かれた。
乾ききった細胞に、水分と糖分、そして極上のビタミンCが爆発的なスピードで染み渡っていく。蜂蜜の濃厚な甘さと、柑橘系の爽やかな酸味、そして微かな塩分が、熱で朦朧としていた彼の脳を強烈に覚醒させたのだ。
「お、美味しい……! なんだこれは……まるで、生命そのものを飲み込んでいるような……!」
「ゴクゴク飲みなさい。一杯金貨十枚の超高級フレッシュジュースなんだから」
王太子は、自らグラスを両手で掴み、喉を鳴らして一気に飲み干した。
「ぷはぁっ……!」
グラスを空にした直後。
殿下の頬に、ほんのりと赤みが差した。ヤナギの樹皮エキスの解熱作用も相まって、荒かった呼吸が嘘のように落ち着き、全身を縛り付けていたような強烈な倦怠感が、スゥッと引いていくのが分かった。
「信じられん……。体が、軽い。先ほどまでの、重鉛を背負わされていたような苦しみが、嘘のように消え去っていく……」
「でしょうね。枯渇してた栄養と水分を直接血管に叩き込んだようなものだから。でも、まだ血管の壁が完全に修復されたわけじゃないわ。今日から一週間は、毎日この特製ジュースを一日三リットル飲んで、あとは肉を控えて野菜のスープをメインに食事をすること。温かくして、たっぷり睡眠をとれば、そのうち歯茎の血も止まるわ」
私の明確でロジカルな診断と治療指示に、王太子は感極まったように涙をこぼし、私の手を取った。
「おお……貴女は、神の使いか……。魔道医たちが見放した私の命を、このような甘露で救ってくれるとは……!」
「神の使いじゃありません。王国の特別医療顧問、千川咲です。以後、お見知りおきを」
私は極上の営業スマイルを浮かべた。
背後では、ゲルドが「おおお……! さすがはサキ先生! これぞカガクの真理!」と歓喜の涙を流して拍手喝采を送っている。
「さて、と」
王太子殿下が安らかな寝息を立て始めたのを確認し、私は白衣のポケットから『王太子特別診療・請求書』を取り出し、ゲルドの胸にペシリと押し付けた。
「えっと……特製ビタミン飲料の材料費、調合技術料、エルフの魔法行使によるオプション料金、それにヤナギエキス(解熱剤)の処方代。しめて【金貨五百枚】。王室の金庫に回しておくように、国王陛下にお伝えしてちょうだい」
「き、金貨五百枚!? ジュース数杯で!?」
「ジュースじゃないわ、命を救う『奇跡の霊薬』よ。王族の命の値段が、たかだか金貨五百枚で安いって文句言うなら、千枚に引き上げてもいいけど?」
「い、いえ! 喜んでお支払いするよう、私が手配いたします!」
ゲルドは慌てて請求書を懐にしまった。
「ふふっ、まいどあり」
私は満足げに頷き、病室の窓の外――分厚い雲に覆われた、王都の市街地へと視線を向けた。
「とりあえず、一番の金蔓……コホン、VIPの治療はサクッと終わったわ。魔道医どもの鼻っ柱もへし折ってやったし、城内の拠点はこれで確保できたわね」
私は革鞄を持ち直し、仲間たちを振り返った。
「でも、本当の戦いはこれからよ。殿下の病気はただの偏食(自業自得)だったけど、城下町で蔓延してるのは本物の『疫病』だわ」
使者の言っていた、スラムから広まったという腹下しと高熱。
衛生観念の欠如した中世レベルの巨大都市で発生する、消化器系のパンデミック。
「シエナちゃん、スラムの調査報告は?」
「うん! お姉ちゃんの言った通り、下水道の作りがすごく古くて、あちこちで汚水が井戸の水脈に混ざってるみたいだったよ!」
いつの間にやら病室に合流していたシエナちゃんが、手書きの王都の地下水脈マップを広げて報告する。
彼女の情報網は、王都の裏路地でも見事に機能していた。
「やっぱりね。疫病の正体は、汚染された地下水による『コレラ』か『赤痢』といった水系感染症よ。悪霊のせいでも呪いでもない、ただの『不衛生な都市構造(人災)』だわ」
私は白衣を翻し、病室の扉へ向かって歩き出した。
「さあ、サキ薬局の総力を挙げて、この腐りきった王都を大掃除するわよ! 命は平等に救う! でも、王族と貴族からは一円残らずふんだくる! 国の威信をかけた巨大プロジェクトの陣頭指揮は、私が執らせてもらうわ!」
魔法も神の奇跡も通用しない絶望の淵で、最強の守銭奴薬剤師による、異世界最大規模の『公衆衛生・医療革命』が、今まさに火蓋を切ったのである。




