第37話「弱みを握られた最強の監査官」
サキ薬局・プレミアムのVIP専用面会室。
分厚いオーク材の扉で仕切られたその防音空間で、私は豪華な革張りのソファに深く腰を沈め、淹れたてのハーブティーを優雅に傾けていた。
「サキ先生、こちらが今週分の『特別奉納金免除証明書』の更新書類と、新たに神殿本局から引き出してきた『大森林・聖域区画への特別立ち入り許可証』になります。ご確認を」
私の対面で、真っ黒な法衣に身を包んだ長身の男が、うやうやしく羊皮紙の束をテーブルの上に並べた。
銀色の髪、右目には冷徹な知性を思わせる片眼鏡。異世界における医療と宗教の頂点に君臨する神殿の最高実務者であり、「魔女狩りの鬼」と恐れられる異端審問官の長、ゲルドである。
しかし今の彼は、私に対して威圧的な態度など微塵も見せない。
むしろ、高級レストランで機嫌の悪い顧客に傅く、優秀だが少し腰の低いウェイターのような所作だった。
「ご苦労様。……ふーん、大森林の聖域区画ねえ。あそこは神殿の厳重な管理下にあって、一般の薬師や冒険者は立ち入り禁止の場所だったわよね?」
「いかにも。あの区画には、強い魔力を帯びた希少な『星降る苔』や『月光花の蜜』などが群生しております。これまでは神殿の専売特許として一般への流通を固く禁じておりましたが……サキ先生の新たな薬の『カガク的探求』に必要とあらば、特例中の特例として私が許可を下しました」
「あら、いいの? そんな職権濫用みたいなことして。また本局の長老たちに文句言われない?」
「ご心配には及びません」
ゲルドは片眼鏡を指でスッと押し上げ、冷酷な笑みを浮かべた。
「法を司るのはこの私です。古い教義の解釈など、どうとでもねじ曲げてみせます。『異端審問の調査における、魔術的成分の検証のため』という名目にしておきました。長老どもには指一本触れさせません」
「頼もしいわね。で、本題は?」
私がティーカップをコトリと置くと、ゲルドは居住まいを正し、少しだけそわそわとした様子で、己の懐に手を入れた。
チャリン、と重々しい音を立てて、分厚い皮袋がテーブルの上に置かれる。
「……今週分の、金貨二十枚です。どうか、あの黄金のシロップ(特製・第二世代抗ヒスタミン薬)を……私の安らかな呼吸と、明晰な思考を取り戻すための、究極の霊薬を……ッ!」
「はいはい、毎度あり」
私は金貨の袋を手元に引き寄せ、代わりに、黄金色に澄んだシロップが入った小瓶を彼に渡した。
ゲルドはそれをひったくるように受け取ると、その場で蓋を開け、一滴残らず喉の奥へと流し込んだ。
ゴクッ、という音が鳴り、数秒後。
彼の口から「……ふぅぁぁぁぁ……っ」という、魂の底からの深い安堵の溜息が漏れた。
「素晴らしい……。やはりサキ先生のカガクは、神の奇跡をも凌駕する。鼻腔の奥の忌まわしい痒みが消え去り、澄み切った空気が肺の隅々まで行き渡る……! この完璧な呼吸がある限り、私は神殿のいかなる政務も冷徹にこなすことができる!」
ソファに深くもたれかかり、恍惚とした表情で天井を仰ぐ異端審問官の長。
彼が私の薬(快適さ)の完全なる虜、すなわち「依存症患者」に成り下がってから、すでに数週間が経過していた。
魔界植物の胞子(花粉)が猛威を振るうこの季節。神聖魔法では全く治らないばかりか逆効果にしかならない重度のアレルギー性鼻炎を、私の作った薬だけが完全に抑え込むことができる。
この絶対的な『弱み(物理)』を握られている限り、ゲルドは私の前で頭を上げることはできない。いや、むしろ彼自身が、私の薬の供給を絶たれることを何よりも恐れ、私のビジネスを法的に守るための「最強の盾」として喜んで機能しているのだ。
「ゲルドのおじさーん! 追加のお茶、持ってきたよー!」
面会室の扉が開き、フリルのエプロンを着たシエナちゃんが、ワゴンを押して入ってきた。
「む……シ、シエナ嬢。私はおじさんではなく、異端審問官だと言っているだろう」
「えー、でもいつもお姉ちゃんにペコペコしてるから、普通のおじさんにしか見えないよ? はい、クッキーもどうぞ!」
「う、うむ……。かたじけない」
神殿の頂点に立つ男が、スラム出身の小娘に「おじさん」呼ばわりされ、素直にクッキーを受け取ってポリポリと齧っている。
この光景を王都の神官たちが見たら、ショックで泡を吹いて気絶するだろう。
「で? 今日はわざわざ薬をもらいに来るついでに、大森林の許可証までお土産に持ってきたってことは、何か他にも報告があるんじゃないの?」
私が本題を切り出すと、ゲルドはクッキーを飲み込み、片眼鏡の奥の瞳を鋭く光らせた。
「……ご明察の通りです、サキ先生。先日の暴動の一件で、表立って貴女の店を攻撃してきた保守派の連中は、私が異端審問にかけて一網打尽にパージ(粛清)しました。しかし……腐っても神殿の長老たち。彼らの根は深く、まだ完全に諦めたわけではないようです」
「まだ懲りてないのね。次はどんな法律の抜け穴を突いてくる気?」
「いえ。彼らは法や物理的な暴力で貴女を潰すことを諦めました。私の監査権限と、辺境伯ユーリス様の武力がある限り、それは不可能だと悟ったのでしょう」
ゲルドは、冷めかけた紅茶を一口すすり、声を落とした。
「彼らが次に狙っているのは、『民衆の信仰心』を利用した、陰湿な兵糧攻めです」
「信仰心?」
「はい。神殿本局の残党たちは、各街に散らばる末端の神官たちを動員し、サキ薬局の薬に関する『悪質なデマ(風評被害)』を、草の根レベルで流布し始めています」
ゲルドの言葉に、私はピクリと眉を動かした。
「例えば、『あの店で売られている薬は、悪魔との契約によって作られている。一時的に病が治ったように見えても、死後に魂が地獄へ堕ちる』といった類のものです。さらにタチが悪いことに……」
ゲルドは忌々しそうに舌打ちをした。
「神殿は、『サキ薬局で薬を買った者、あるいはサキ薬局の治療を受けた者は、神殿への立ち入りを禁じ、神の加護(回復魔法や葬儀の儀式)を受ける権利を剥奪する(破門する)』という布告を、非公式にですが、各所で通達し始めているのです」
「……なるほどね」
私は、腕を組んで深く息を吐いた。
権力者が使う手口としては、非常に古典的で、かつ最も厄介な盤外戦術だ。
「破門」。
現代日本で生きる人間からすれば「だから何?」で済む話だが、この異世界において、宗教とは人々の生活や死生観と密接に結びついている。
病気になれば神殿のヒールに頼り、子供が生まれれば神殿で洗礼を受け、人が死ねば神殿の儀式で魂を浄化してもらう。それがこの世界の一般常識だ。
「サキ薬局の薬を買えば、死後に地獄へ堕ちる。神殿のサービスも受けられなくなる」。
そんな脅しをかけられれば、いくら私の薬が安くてよく効くからといって、敬虔な平民や、世間体を気にする中級貴族たちは、私から薬を買うことをためらうようになるだろう。
「完全に『宗教的な村八分』ってわけね。物理的に店を壊せないから、客の心を脅迫して来ないようにする……。やり口が陰湿すぎて、虫唾が走るわ」
「おっしゃる通りです。法的な禁止命令ではないため、私の監査権限でもこの『非公式な噂と脅迫』を完全に取り締まることは難しい。人の口に戸は立てられませんからな」
ゲルドは申し訳なさそうに視線を落とした。
「現在、王都を中心にそのデマが広がりつつあります。このままでは、貴族街のプレミアム店舗はともかく、スラムにある大衆向け店舗の客足に、深刻な影響が出る可能性があります」
彼の懸念はもっともだった。
富裕層の貴族たちは、自分の美貌や毛根のためなら神の教えなど平気で無視する図太さを持っている(ユーリス様が良い例だ)。
だが、一般市民は違う。彼らは神の罰を恐れる。
このまま放置すれば、サキ薬局の売上(薄利多売の基盤)がじわじわと削られていくのは火を見るより明らかだった。
「お姉ちゃん……どうしよう。孤児院のみんなも、最近『神父様に怒られるから』って言って、神殿の近くで遊べなくなっちゃったって言ってたよ」
シエナちゃんが、不安そうに私の袖を引いた。
私は、彼女の頭を優しく撫でてから、フッと不敵な、そして極めて好戦的な笑みを口元に浮かべた。
「心配いらないわ、シエナちゃん。ゲルドさん、情報提供ありがとう。おかげで、連中の『底の浅さ』がよく分かったわ」
「底の浅さ、ですか?」
「ええ。連中は『信仰心』っていう目に見えないもので人々を縛ろうとしてるけど……それって裏を返せば、物理的な力や経済的な魅力では、私にもう勝てないって認めてるのと同じよ」
私は立ち上がり、壁際に置かれた黒板(成分計算用の石板)の前に立った。
「いい? 宗教の『破門』なんて脅しが通用するのは、神殿が『人々の生活に不可欠なインフラ(医療と福祉)』を独占しているからよ。ヒールが受けられないと困る。お葬式をしてくれないと困る。だから、嫌でも神殿の言うことを聞くしかない」
「その通りです。それが神殿の絶対的な権力基盤ですから」
「だったら」
私はチョークを握り、石板に大きく『サキ薬局』という文字を書き、そこから放射状にいくつもの矢印を引いた。
「こっちが、神殿なんかに頼らなくても生きていけるだけの『圧倒的なメリット(新しいインフラ)』を、民衆に提供してあげればいいのよ。神の奇跡より安くて、早くて、確実なカガクの力でね」
「サキ先生、それはつまり……?」
「神殿が信者を脅して私から引き離そうとするなら、こっちは『神殿を捨ててでもサキ薬局についていきたい』と思わせるだけの、巨大な相互互助組織を作って対抗するのよ!」
私は、石板の矢印の先に、次々と名前を書き込んでいった。
「バドさんたち『冒険者ギルド』。カルラ社長の『商業ギルド』。ユーリス様の『領主軍』。そして、スラムの住人たち。これまで私が命を救い、カネと労働力を取引してきた、すべての顧客ネットワークをフル稼働させるわ」
「な、なるほど……。神の教義という『概念』に対し、カネと健康という『実利』で全面対決を挑むというわけですか。しかし、相手の洗脳は根深いですよ?」
「洗脳を解く一番の特効薬はね、ゲルドさん。『実際に自分の目で見て、体験させること』よ。あんたが私の抗ヒスタミン薬を飲んで、一発で神聖魔法の無力さを悟ったようにね」
私がニヤリと笑いかけると、ゲルドは「うっ」と言葉に詰まり、居心地悪そうに片眼鏡を直した。
「さあ、反撃の準備よ! シエナちゃん、ロッツを呼んできて! スラムの旧店舗にいるバドさんたちにも声をかけて、緊急会議を開くわ!」
「うんっ! わかった!」
シエナちゃんが勢いよく面会室を飛び出していく。
「ゲルドさん。あんたは神殿の内側に残って、連中が次にどんなデマを流そうとしているか、その情報収集と『監査(という名の牽制)』を引き続きお願いするわ。……もちろん、追加の薬の処方も約束してあげるから」
「ふっ。承知いたしました、サキ先生。……私も、自分の快適な呼吸を脅かそうとする愚か者どもには、少々腹が立っていたところです。異端審問官としての権限のギリギリを攻めて、奴らの動きを徹底的に監視・妨害して差し上げましょう」
冷酷な笑みを浮かべて一礼し、ゲルドは面会室を後にした。
一人残された私は、石板に書かれたネットワークの図を見つめながら、頭の中で高速のソロバンを弾いていた。
神殿による宗教的な村八分。
それは、見方を変えれば、私がこの異世界における『医療の覇権』を完全に奪い取るための、最後の聖戦でもあった。
「ふふふ……。神様が相手だろうと、私の売り上げ(利益)を邪魔する奴は容赦しないわよ」
ブラック薬局で培った、逆境を金に換える社畜の執念。
そして、カガクの真理。
サキ薬局の全勢力を挙げた、神殿の嫌がらせに対する痛快な大反撃が、今まさに始まろうとしていた。




