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第36話「一服で完治する奇跡の『魔薬』」

神殿の保守派が裏で糸を引いていた、スラムのゴロツキによるサキ薬局襲撃事件。

それは、私がこの数ヶ月で築き上げた『物理(冒険者)・財力(商人)・権力(領主)』の強固なネットワークと、異端審問官ゲルドの容赦ない粛清によって、店のガラス一枚割られることなく見事に鎮圧された。

この一件により、「サキ薬局に喧嘩を売れば、社会的にも物理的にも完全に抹殺される」という暗黙の了解が、この街の裏から表まで完全に知れ渡ることになった。


そして数日後。

王都郊外にある荘厳な神殿本局。その薄暗い執務室で、真っ黒な法衣をまとった異端審問官の長、ゲルドは、分厚い書類の束に羽ペンを走らせていた。


「……異端審問第百四十二号、保守派長老の不正蓄財および暴動教唆の件。これでよし、と」


ゲルドはペンを置き、銀縁の片眼鏡モノクルを指でスッと押し上げた。

先日の騒動を利用して政敵を一網打尽にした彼は、今や神殿内部において誰も逆らうことのできない絶対的な権力を確立しつつあった。

知力、決断力、そして冷酷さ。

全てにおいて完璧な男。しかし、そんな彼にも、この季節だけはどうしても抗えない『致命的な弱点』があった。


「…………ズズッ」


ゲルドの端正な顔が、ピクリと引き攣る。


「……いかん。薬の効き目が、切れかけている……」


彼は懐から、小さなガラスの小瓶を取り出した。

中には琥珀色のシロップが、ほんの数滴だけ残っている。私が先週渡した『特製・抗ヒスタミンもどき』である。

ゲルドは瓶の底を舐めるようにして最後の一滴を喉に流し込んだが、魔界植物の胞子(花粉)が猛威を振るうこの季節において、一週間の活動を数滴でカバーするのは不可能だった。


「ハッ……ハクッ……!」


鼻腔の奥を、目に見えない羽毛でくすぐられるような強烈な痒みが襲う。

ゲルドは必死に鼻の下を伸ばし、己の強靭な精神力でクシャミの衝動を抑え込もうとした。異端審問官たるもの、部下の前で醜態を晒すわけにはいかない。

しかし、免疫システム(警備兵)の過剰防衛反応は、気合でどうにかなるものではなかった。


「ハックションッッ!!!」


執務室の分厚い扉を震わせるほどの、盛大なクシャミ。

その直後、扉の向こうから「ゲ、ゲルド様!? 悪霊の攻撃ですか!?」と慌てた部下の神官が飛び込んできた。


「な、なんでもない……! ズズッ。少し、ホコリが舞っただけだ。……私はこれより、辺境伯領の巡回査察(という名のお使い)に出る! 後を頼む!」

「はっ! 護衛の部隊を編成いたします!」

「不要だ! 私一人で十分である!」


ゲルドは涙目になりながら部下を怒鳴りつけ、真っ赤に充血した目を隠すようにフードを目深に被ると、神殿本局を弾かれたように飛び出した。

彼が向かう先は一つ。

神の奇跡ヒールすら効かない地獄の苦しみから彼を救ってくれる、この世で唯一の「聖地」。

すなわち、貴族街に建つ白亜の洋館――『サキ薬局・プレミアム』であった。


* * *

「いらっしゃいませー! あ、ゲルドのおじさんだ!」


サキ薬局の入り口のドアが開いた瞬間、看板娘のシエナちゃんが明るい声を上げた。

ゲルドは「おじさんではない、異端審問官だ」と微かに反論しようとしたが、その直後に「ハックション!」とクシャミを炸裂させ、完全に威厳を喪失した。


「ズズッ……シ、シエナ嬢。サキ先生は、サキ先生はおられるか……っ!」

「うん、奥の面会室にいるよ! どうぞー!」


ゲルドは警備のロッツに一瞥もくれず、大理石の床を滑るようにして奥のVIP用特別面会室へと駆け込んだ。


ガチャリ、と扉が開き、転がり込んでくる黒法衣の男。


「サキ先生ェェェッ! 薬を! 私に早く新しい薬をォォッ!!」


そこには、冷酷なる「魔女狩りの鬼」の面影は微塵もなかった。

涙と鼻水で顔をグシャグシャにし、プライドも地位も全て投げ打って、一介の薬師わたしにすがりつく、重度の『依存症患者』の姿があった。


「あら、いらっしゃいゲルドさん。お待ちしてましたわ」


私は豪華な革張りのソファに足を組んで座り、優雅に紅茶のカップを傾けながら彼を出迎えた。


「相変わらず見事な堕落っぷりね。神殿の部下たちが見たら、ショックで信仰心を失うんじゃないかしら」

「ハックション! そ、そんなことはどうでもいい! 鼻が……鼻がもげそうだ! 目玉を取り出して清流で洗いたい! 前回のシロップはもう切れてしまったのだ、早く次を……!」

「はいはい、落ち着いて。あんたのために、ちゃんと最高の『新作』を用意しておいたわよ」


私が指を鳴らすと、控えていたエルフの魔法使いメイラが、うやうやしく銀のトレイを運んできた。

トレイの上には、以前のものよりもさらに透明度を増した、美しい黄金色に輝くシロップが入った小瓶が乗っている。


「サキ工場長の指示の下、私が徹夜の温度管理(魔法の炎)で不純物を限界まで取り除いた、最新型の特効薬です。さあ、どうぞ」


メイラが小瓶を差し出すと、ゲルドはひったくるようにそれを受け取り、震える手で蓋を開けた。


「おお……これだ。この匂い……!」


ゲルドは一滴残らず、黄金のシロップを喉の奥へと流し込んだ。

ゴクッ、という音が面会室に響く。

私は懐中時計を取り出し、秒針の動きを見つめた。

十秒、二十秒、三十秒。


「…………あっ」


ゲルドの口から、間抜けな声が漏れた。

彼の体内で、最新型の抗ヒスタミン成分が爆発的なスピードで血流に乗り、鼻や目の粘膜で暴走していた免疫受容体(警備兵)を、次々と強制シャットダウンしていく。

真っ赤に腫れ上がっていた彼の目から充血がスゥッと引き、鼻腔を完全に塞いでいた粘膜の腫れが嘘のように引いていく。


「す、吸える……! 息が、空気が、私の肺を満たしていく……っ!」


ゲルドはソファに力なく崩れ落ち、天井を仰ぎ見て恍惚とした表情を浮かべた。


「これだ……この完璧なる呼吸。まるで、新緑の森の朝霧を直接肺に吸い込んでいるかのような清涼感。ああ、神よ……いや、サキ先生よ。貴女はやはり、私にとっての救世主だ……っ」

「感謝するなら、神様じゃなくて私のカガクとメイラの徹夜労働に感謝しなさい」


私が冷たく言い放つと、ゲルドはハッと身を起こした。


「サキ先生。今回の薬は、以前のものと少し違う気がする。効き目が早いのはもちろんだが……いつも薬を飲んだ後に襲ってくる、あの『強烈な眠気』と『頭のぼんやり感』が全くないのだ」


ゲルドの指摘に、私はニヤリと得意げな笑みを浮かべた。


「さすが、違いの分かる男ね。その通りよ。前回の試作品は、アレルギーを抑える効果が強い反面、脳の覚醒中枢までブロックしちゃうから、副作用で眠くなるっていう欠点があったの」


現代の薬学で言うところの「第一世代抗ヒスタミン薬」特有の副作用である。


「でも、今回の新作は『第二世代』よ。有効成分の分子構造を私がカガク的にいじって、脳(中枢神経)には移行しにくく、鼻や目(末梢神経)の粘膜にだけピンポイントで効くように改良したの。これなら、大事な異端審問の最中に居眠りをして、被告人に逃げられる心配もないわ」


私の解説を聞いたゲルドは、片眼鏡の奥の瞳を大きく見開き、ワナワナと唇を震わせた。


「こ、これは……一体どんな秘術だ……!」

「秘術じゃなくて薬理学カガクよ。何回言わせるの」

「魔力も使わず、ただの物質の組み合わせだけで、人間の体の働きをこれほどまでに精密にコントロールするというのか! 魔法などという大雑把な力では、絶対にたどり着けない領域……!」


ゲルドは、テーブルの上に置かれた空の小瓶を、まるで国宝の美術品でも扱うかのように愛おしく撫でた。


「神聖魔法は、傷を治せても、この苦しみを取り除くことはできなかった。だが、貴女の薬学は、苦しみを取り除き、さらに私が仕事に集中できるように副作用まで消し去ってくれた。……サキ先生。もはや、私の魂は貴女の薬なしでは生きていけません」

「ずいぶんと大げさな告白ね。でも、代金は高くつくわよ?」


私が親指と人差し指をこすり合わせる世界共通のジェスチャー(カネの要求)をすると、ゲルドは全く躊躇うことなく、懐から分厚い皮袋を取り出した。


「無論だ。この薬のレシピを……いや、それは貴女の財産だ。ならば、私にこの薬の『定期供給(完全な専属契約)』を約束していただきたい。金ならいくらでも払おう。神殿の裏金……いや、私の私財を投げ打ってでも!」

「交渉成立ね。じゃあ、今週分として金貨二十枚。副作用を消した技術料として、倍額にさせてもらったわ」

「安いものだ! この完璧な呼吸が金貨二十枚で買えるのなら、喜んで払おう!」


チャリン、と重々しい音を立てて、金貨の山がテーブルの上に築かれる。

異端審問官の長、ゲルド。

絶対的な権威と威厳を持っていたはずの彼は、今や花粉症の特効薬のために財産を捧げ、私に尻尾を振る「完璧なパシリ(超優良顧客)」へと完全なる堕落を遂げたのである。


* * *

「ふぅ……。これで今週の政務も、完璧なコンディションでこなせるというものだ」


薬の効果で完全に余裕を取り戻したゲルドは、ティーカップを優雅に傾けながら、ふと何かを思い出したように私を見た。


「そういえば、サキ先生。先日の暴動の一件で捕らえた保守派の連中だが、異端審問の末、全員を地方の修道院へ左遷(追放)した。これで、神殿内部から貴女の店に手を出そうとする馬鹿は完全にいなくなった」

「仕事が早くて助かるわ。これで私も、安心して貴族からボッタ……コホン、適正な利益を得ることに集中できるわね」

「うむ。私も、貴女の商売が繁盛しなければ薬の供給が止まってしまうからな。もはや我々は、一蓮托生の運命共同体というわけだ」


ゲルドは片眼鏡をキラリと光らせ、ふと真面目な声色になった。


「だが、サキ先生。神殿からの横槍は消えたが、貴女の『カガク』の力が大きくなりすぎることを、快く思わない勢力は他にもいる」

「他にも?」

「ああ。例えば……『薬師ギルド』の本部や、王族に取り入っている『王宮魔道医』の連中だ」


王宮魔道医。

その言葉を聞いて、私はピクリと眉を動かした。


「奴らは、我々神殿とは違い、世俗の権力と密接に結びついている。特に王宮魔道医は、魔法による医療を独占し、莫大な特権を貪っている連中だ。もし、貴女の『安価で確実に効く薬』が王都にまで本格的に流通すれば、彼らの存在意義は根底から崩れ去る。……奴らは、必ず貴女を潰しにかかってくるだろう」

「……なるほどね」


私は紅茶を飲み干し、口元に不敵な笑みを浮かべた。


「心配してくれてありがとう、ゲルドさん。でもね、私は売られた喧嘩は倍の値段をつけて買い取る主義なの。相手が王宮の魔道医だろうがなんだろうが、私の『カガクのロジック』と『資本主義の暴力』の前に立ちはだかるなら、完膚なきまでに叩き潰してあげるわ」

「ふっ……。頼もしい限りだ。その時は、私の異端審問官としての権限も、存分に利用してくれて構わない。……貴女のカガクを守るためならば、私は喜んで悪魔にでも魂を売ろう」


神の代行者であるはずの男が、私の前で堂々と悪魔への魂の売却を宣言する。

これほどまでにコミカルで、しかし絶対的な信頼(依存)関係が、他にあるだろうか。


「言ったわね? なら、いざって時はこき使わせてもらうわよ、最強の監査官様」

「望むところだ。……さて、長居をしたな。私は本局へ戻らねばならない。来週もまた、同じ時間にお伺いしよう」


ゲルドは立ち上がり、マントを翻して面会室の扉へと向かった。

その背中は、店に入ってきた時の情けない姿とは打って変わり、威厳と自信に満ち溢れた「異端審問官の長」そのものであった。

扉を開け、店舗スペースに出た瞬間、彼は冷酷な仮面を被り直す。


「……行くぞ。この店に異端の証拠はない。引き続き、辺境伯領の巡回に戻る!」

「ははっ! さすがはゲルド様、魔女の罠にも一切動じぬその御姿、感服いたします!」


外で待機していた部下の神官たちが、何も知らずに彼を称賛する。

ロッツが「あの野郎、中では鼻水垂らして泣きついてたくせに、外に出た途端にあの態度かよ。役者だな」と呆れ顔で呟き、シエナちゃんが「ゲルドのおじさん、バイバーイ!」と無邪気に手を振る。


こうして、神殿の最高実務者は、私という一介の薬剤師の完全なる「パシリ」として定着した。

辺境伯ユーリスという政治とカネの盾。

異端審問官ゲルドという法と宗教の盾。

二つの最強の盾(依存症患者)を手に入れたサキ薬局は、もはや辺境の街にとどまる器ではなくなっていた。


「さあ、王都への足がかりはできたわ。次なるステージは、国の中枢での『医療革命』よ」


私が新たな野望に向けてソロバンを弾き始めた頃。

王都では、魔法でも神の奇跡でも治せない『得体の知れない新型の疫病』が、静かに、しかし確実に牙を剥き始めていたのである。

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