第35話「抗ヒスタミン薬(もどき)の恩恵」
サキ薬局・プレミアムの二階、完全に隔離された無菌調剤室。
今日も今日とて、室内はサウナのような熱気と、薬草を煮詰める独特の匂いに包まれていた。
「いいわよメイラ、炎の温度をあと二度下げて。鎮静草の有効成分が熱で壊れちゃうからね」
「はいっ、サキ工場長! 炎の精霊よ、微細なる息吹を!」
美しいプラチナブロンドの髪を後ろで束ねたエルフの魔法使いメイラが、真剣な眼差しでガラスフラスコを下から熱している。
フラスコの中でコポコポと煮立っているのは、異端審問官の長・ゲルドを花粉症の地獄から救い出した『特製・抗ヒスタミン薬』の原液だ。
前回、彼に飲ませたものは、私が自分のために裏山の薬草からパパッと抽出した試作品に過ぎなかった。しかし、ゲルドという神殿の最高権力者を「完全な依存状態(お得意様)」にしておくためには、薬の効能をさらに安定させ、副作用である強烈な眠気を極力抑えた『完成版』を錬成し続ける必要があった。
「スラムの雑草から、これほどまでに澄み切った琥珀色の液体が精製されるとは……。何度見ても、サキ先生のカガクには驚かされます。魔力を一切使わずに、物質の持つ性質だけで病の元を断つなど……!」
メイラが、フラスコの中の液体をうっとりと見つめながら感嘆の声を漏らす。
「当然よ。アレルギー反応っていうのは、体内のヒスタミン受容体が刺激されて起きる物理的なエラーなの。魔法みたいなフワフワした力で治そうとするから逆効果になるのよ。こうやって、受容体をブロックする成分をカガクの力でピンポイントに叩き込めば、どんな重症患者でも一発で呼吸が楽になるわ」
私は完成した琥珀色のシロップを、煮沸消毒した美しいガラスの小瓶に丁寧に小分けしていく。
これ一本で、金貨十枚。
ゲルドは花粉の季節が終わるまで、毎週この小瓶を買いにやってくる。まさに、私の薬学が生み出した究極の「高単価サブスクリプション(継続課金)」商材であった。
「お姉ちゃん! お手紙届いたよ!」
一階の店舗から、シエナちゃんがパタパタと足音を立てて階段を駆け上がってきた。
彼女の手には、神殿の重々しい黒い封蝋が押された、分厚い羊皮紙の筒が握られている。
「ご苦労様、シエナちゃん。……来たわね」
私は筒を受け取り、封を切って中の羊皮紙を広げた。
そこには、異端審問官の長であるゲルドの直筆サインと、神殿の最高監査印がデカデカと押されていた。
『サキ薬局の取り扱う全製品において、魔術的・悪魔的な要素は一切検出されず。よって、神殿法第七章に基づく特別認可証の取得義務、および奉納金の支払いを免除し、今後の神殿からのいかなる干渉もこれを禁ずる――異端審問官長ゲルド』
完全無欠の『不干渉証明書』である。
辺境伯ユーリス様から得た「永久免税特権」に加え、神殿からの「監査・奉納金免除特権」。
世俗の権力と宗教の権威、その両方から、私は法的・経済的な「完全なる不可侵領域」をもぎ取ることに成功したのだ。
「ふふふ……あははははっ! 完璧! これでサキ薬局は、この世界の誰からも一円たりとも利益を搾取されない、最強の独立国家になったわ!」
私が羊皮紙を掲げて高笑いすると、シエナちゃんは「お姉ちゃん、悪い魔女みたいな顔になってるよ!」と無邪気に笑い、メイラは「さすが工場長! カガクの勝利ですね!」と拍手喝采を送った。
しかし。
世の中、法律や書類だけで全てが解決するほど甘くはない。
表立った「合法的な攻撃(監査や課税)」が封じられた時、権力にしがみつく人間が次に取る手段は、いつだって決まっている。
法を無視した、陰湿な『盤外戦術(嫌がらせ)』だ。
* * *
数日後の昼下がり。
サキ薬局・プレミアムの前に、突如として異様な人だかりができていた。
「痛ぇぇぇっ! 腹が、腹が焼けるように痛てぇぇっ!」
「騙された! この店の薬は呪われているぞ! 俺の婆さんは、この店の胃薬を飲んだせいで血を吐いて倒れたんだぁぁっ!」
店の前の石畳の上で、ボロボロの服を着た数人の男たちが、腹を押さえて大袈裟にのたうち回っていた。
その周囲には、野次馬のふりをしたサクラの男たちが取り囲み、「なんてことだ! やはり魔女の薬だったのか!」「神の奇跡に背くからこんなことになるんだ! この店を打ち壊せ!」と、大声で煽り立てている。
騒ぎを聞きつけ、店の中から用心棒のロッツが飛び出してきた。
「おいテメェら! うちの店の前で何の騒ぎだ! 営業妨害だぞ、とっとと失せねえと叩き斬るぞ!」
ロッツが二メートルの巨体で凄み、背中の大剣に手をかけるが、男たちは全く怯む様子を見せない。
「ほら見ろ! 魔女の用心棒が、被害者である俺たちを暴力で黙らせようとしているぞ! 皆の者、この悪徳薬局の横暴を許していいのか!」
「そうだそうだ! 魔女をこの街から追い出せぇっ!」
統制の取れた、見事なまでの『ネガティブキャンペーン(風評被害の流布)』。
さらに悪いことに、スラムの旧店舗(バドたちに管理を任せている大衆向け薬局)の周辺でも、同時に「サキの薬草を積んだ荷馬車を、謎の盗賊団が襲撃して物資を燃やした」という報告が、シエナちゃんの情報網を通じて飛び込んできていた。
法的手段を封じられた神殿の保守派(長老たち)が、裏で金を使ってスラムのゴロツキを雇い、物理的な嫌がらせと世論の扇動という強硬手段に出たのだ。
「……なるほどね。ルールで勝てないからって、盤盤をひっくり返しに来たってわけか」
私は白衣の裾を翻し、騒ぎの渦中である店の外へと、堂々たる足取りで歩み出た。
私が姿を現した瞬間、サクラの男たちが一斉に私を指差して叫んだ。
「出たな魔女め! お前の作った毒薬のせいで、この善良な市民たちが死にかけているぞ! どう責任を取るつもりだ!」
「責任?」
私は、冷ややかな視線で男たちを一瞥し、地面でのたうち回っている『自称・被害者』の一人の前にしゃがみ込んだ。
「あんた、うちの薬を飲んで腹が痛くなったって言ったわね? いつ、どの薬を、どれくらいの量飲んだの?」
「い、いつって……今朝だ! お前の店で売ってる、その、緑色の瓶に入った胃薬だ! 飲んだ途端に、胃が焼けちぎれるように痛くなって……ぐあぁぁっ!」
男が痛みをアピールするように大袈裟に転げ回る。
私は、やれやれと首を横に振った。
「馬鹿ね。うちの店で緑色の瓶に入れて売ってるのは『肩こり用の特製・温湿布(外用薬)』よ。胃薬は茶色の瓶だわ。それに、温湿布の成分はカプサイシン(トウガラシ成分)が入ってるから、間違って飲んだらそりゃあ胃が痛くなるに決まってるじゃない」
「なっ……!?」
「それに、あんたのそのわざとらしい脂汗。顔色は全然青白くないし、脈も正常。胃が焼けちぎれるほど痛いのに、声だけは随分と大きくて元気じゃないの」
私が容赦なく『医学的な矛盾』を指摘すると、のたうち回っていた男の動きがピタリと止まった。
「そもそも、うちのプレミアム店舗は『完全会員制・対面販売のみ』よ。あんたみたいな身なりの男に、直接薬を売った記録なんて、うちの帳簿のどこを探してもないわ。……さあ、誰にいくらもらって、こんな三文芝居を打ちに来たのかしら?」
私が極上の、そして絶対零度の笑みを浮かべて詰め寄ると、男は「ひぃっ!」と情けない声を上げて後ずさった。
しかし、周囲を取り囲んでいたサクラの扇動者たちが、焦って声を張り上げた。
「誤魔化すな! こいつは字が読めないから瓶の色を間違えただけだ! どのみち、お前の店が毒を売っている事実に変わりはない! ええい、皆の者! 証拠隠滅される前に、この悪魔の店に踏み込んで薬を全部叩き割れェッ!」
扇動者が叫び、ゴロツキたちが一斉に店に向かって突進しようとした。
ロッツが大剣を抜き放ち、迎え撃とうと身構える。
多勢に無勢。暴徒と化した群衆を相手にすれば、いくらロッツでも無傷では済まないし、店にも被害が出る。
それが、神殿の保守派たちの狙いだった。
――しかし。
彼らは、私がこの数ヶ月間で、この街にどれほどの『カネと絆のネットワーク』を築き上げてきたかを、全く理解していなかった。
「おいおいおい。サキ先生の店に、泥靴で踏み込もうなんて命知らずは、どこのどいつだ?」
ドスッ! という重い足音と共に、暴徒たちの背後から、地鳴りのような野太い声が響き渡った。
振り返ったゴロツキたちの顔から、一瞬にして血の気が引く。
「な、なんだお前らは……!」
「俺たちか? 俺たちは、サキ先生の薬に何度も命を救われた、ただのしがない冒険者だよ!」
巨大な戦斧を肩に担ぎ、汗だくの筋肉をテカテカに光らせたベテラン冒険者、バド。
その後ろには、冒険者ギルドのワッペンをつけた、数十人の完全武装の冒険者たちが、武器を構えて暴徒たちを取り囲んでいた。
「バドさん! スラムの方の襲撃はどうしたの!?」
私が声をかけると、バドはガハハと豪快に笑った。
「あんなチンピラの盗賊団、俺たちの敵じゃねえよ! サキ先生の薬草を燃やそうとした罪で、全員身ぐるみ剥いでギルドの地下牢にぶち込んでやったぜ! それより先生、こっちのゴミ掃除も俺たちに任せてくれや!」
「ひぃぃぃっ! ぼ、冒険者ギルドが、なぜ魔女の味方をする!?」
ゴロツキたちが恐怖に震え上がる中、さらに、彼らの退路を断つように、一際立派な馬車が石畳に乗り入れてきた。
馬車から降りてきたのは、分厚い書類の束を抱えた、ドワーフの豪商カルラだった。
「全く、神殿のジジイどもは商売の邪魔ばかりしおって。……おい、そこの喚いている三文役者ども」
カルラは、葉巻をふかしながら、抱えていた書類の束をゴロツキたちの足元にバサリと投げ捨てた。
「お前たちが、昨日の夜、神殿の裏口で保守派の神官から『サキ薬局で騒ぎを起こす報酬』として、銀貨三十枚ずつを受け取った裏帳簿の写しだ。ついでに、酒場で『明日は魔女の店を襲って一儲けだ』と自慢していたという、複数の証言も裏は取ってあるぞ」
「な、なぜそれを……!?」
「我がカルラ商会の情報網と、スラムの子供たちの『耳』を舐めるなよ」
カルラの言葉に合わせるように、店の影からシエナちゃんと、スラムの孤児院の子供たちがヒョッコリと顔を出した。
彼らはスラムのあらゆる路地裏に入り込み、誰にも気づかれずに情報を集める、私の最強の「草の根情報網」なのだ。
「あわわ……っ」
物理的な暴力(冒険者)に囲まれ、動かぬ証拠(裏帳簿)を突きつけられたゴロツキたちは、完全に腰を抜かしてへたり込んだ。
「さて、と」
私は、完全に形勢が逆転した広場の中央で、腕を組んで冷ややかに言い放った。
「冒険者ギルドと、カルラ商会。これだけでもあんたたちを社会的に抹殺するには十分だけど……。私に喧嘩を売ったっていうことは、この街の『最高権力者』たちを敵に回したってことなのよ。分かってる?」
私がそう言った瞬間。
貴族街のメインストリートから、整然とした足音と、鎧の擦れ合う金属音が響き渡った。
「そこまでだ! 不法な暴動を企てた者ども、全員その場に直れ!」
現れたのは、辺境伯ユーリス様の側近である初老の騎士ヴァンが率いる、完全武装の近衛騎士団だった。
彼らは一糸乱れぬ動きでゴロツキたちを包囲し、槍の穂先を突きつけた。
「サキ先生の店は、我が主君である辺境伯ユーリス様が直接保護を約束された、この領地における最重要施設である! いかなる理由があろうと、この店への襲撃は、辺境伯家への反逆とみなす!」
「き、騎士団まで……! ひぃぃぃっ、お、俺たちはただ、神殿の神官様に金で雇われただけで……!」
命の危険を感じたゴロツキたちは、あっさりと自分たちの雇い主を売り飛ばし、地面に這いつくばって命乞いを始めた。
その醜態を、私はただただ冷たい目で見下ろしていた。
「……見苦しいわね。これで、あんたたちを雇った神殿の保守派の連中も、ただじゃ済まないわよ。辺境伯の名誉を傷つけ、領地の治安を乱した罪で、政治問題として徹底的に追及させてもらうから」
私が勝利の宣言をした、まさにその時だった。
「――その必要はない、サキ先生。神殿内部の腐敗は、神殿自らの手で粛清する」
群衆が割れ、その奥から、真っ黒な法衣に身を包んだ異端審問官の長、ゲルドが静かに歩み出てきた。
彼の背後には、神殿の規律を正すための完全武装の『異端審問特務部隊』が控えている。
ゲルドの片眼鏡の奥の瞳は、ゴロツキたちではなく、彼らを裏で操っていた神殿の保守派の神官たち(野次馬に紛れて様子を窺っていた者たち)を、獲物を狩る鷹のような鋭さで射抜いていた。
「な、なぜゲルド様がここに……!」
「我々長老会の決定に背くおつもりか!」
野次馬の中から引きずり出された保守派の神官たちが、青ざめた顔で叫ぶ。
しかし、ゲルドは全く表情を変えることなく、冷酷に宣告した。
「神殿の法をねじ曲げ、平民を金で雇い、偽証と暴動をもって無実の店舗を襲撃させた罪。これは神の教義に対する重大な背信行為であり、神殿の威信を地に堕とす『異端』そのものである。……よって、保守派の首謀者全員を、異端審問にかける! 捕らえよ!」
特務部隊が動き出し、保守派の神官たちを次々と縛り上げていく。
表向きは「神殿の規律を守るため」。
しかし、その裏にある真実は、私という「花粉症の特効薬の供給源」を守るため、そして神殿内部における自身の政敵(保守派)を一網打尽にパージ(粛清)するための、ゲルドの狡猾な政治的立ち回りであった。
「……やるわね、ゲルドさん。私の騒動を利用して、自分の派閥の邪魔者を一掃するなんて。本当に、恐ろしい悪徳官僚だわ」
「ふっ。互いに利用し合うのが、良いビジネスパートナーというものだろう、サキ先生。それに……」
ゲルドは私の横に並び、誰にも聞こえないほどの小声で囁いた。
「貴女の薬のおかげで、今日の私はすこぶる体調が良いのだ。鼻水一つ出ないクリアな思考であれば、あの程度の老害どもを出し抜くことなど、造作もない」
抗ヒスタミン薬によって快適な呼吸を取り戻した異端審問官は、その知力と行動力を百二十パーセント発揮し、私の最大の敵であった保守派の権力を、完全に粉砕してくれたのである。
* * *
騒動が嘘のように鎮まり、ゴロツキたちと保守派の神官たちが連行されていった後。
サキ薬局・プレミアムの前には、私の仲間たちだけが残された。
「あーあ、せっかくの出番だったのに、結局あの黒服のおっさん(ゲルド)に美味しいところを持っていかれちまったな」
「バドさん、文句言わないの。あんたたちが来てくれたおかげで、店に傷一つ付かなかったんだから。後で特別ボーナスを弾んであげるわ」
私がバドの背中を叩くと、冒険者たちは「うおおおっ! サキ先生万歳!」と歓声を上げた。
カルラも葉巻をくわえ直し、「まったく、お前といると退屈しないよ。これで商売の邪魔をする奴は、この領地には一人もいなくなったな」と満足げに笑う。
ロッツとシエナちゃんも、安堵の表情で私に駆け寄ってきた。
「お姉ちゃん、怖かったけど……みんなが助けてくれて、本当に良かったね!」
「ああ。ボスがスラムで蒔いた種が、こんなにでけぇ防壁になるなんてな。俺も少しは、ボスのやり方が分かってきたぜ」
仲間たちの笑顔を見渡し、私は青空を見上げて、小さく息を吐いた。
無一文で異世界に放り出され、ただの雑草から始めた私の薬局。
私が使ったのは魔法ではない。現代薬学の『カガク』と、資本主義の『ロジック』だけだ。
しかし、そのカガクで人々の命と健康を平等に救い、ロジックで権力者から正当な対価をむしり取ってきた結果。
武力(冒険者ギルド)、情報力と財力(カルラ商会)、政治権力(辺境伯ユーリス)、そして宗教的権威(異端審問官ゲルド)。
これら全ての力が、点と点で結びつき、私を守る強固な『ネットワーク』として機能したのだ。
「ふふっ。神殿の嫌がらせなんて、私のこの『盤石なるカネと絆のネットワーク』の前には、そよ風みたいなものね」
私は白衣の襟を正し、仲間たちに向かって、今日一番の、最高に晴れやかな営業スマイルを向けた。
「さあ、お掃除は終わりよ! サキ薬局・プレミアム、営業再開! 止まっていた売り上げを取り戻すために、今日も一日、ガッツリ稼ぐわよ!」
「「「おおおおおっっ!!」」」
私の号令と共に、サキ薬局は再び活気を取り戻した。
魔法を使わない一介の薬剤師が、異世界の常識を打ち破り、最強の経営者として君臨した瞬間である。
だが、私の野望はこんな辺境の街にとどまるものではない。
次なる舞台は、王国の中枢。
王族や大貴族たちがひしめく『王都』への進出と、さらなる莫大な利益(と医療革命)の始まりが、もうすぐそこまで迫っていたのである。




