第34話「くしゃみと涙の面会室」
春。それは生命が芽吹き、暖かな陽光が大地を包み込む、希望と喜びに満ちた季節である。
しかし、この異世界――とりわけ、王都からほど近いこの辺境の地においては、春は一部の人々にとって「地獄の門が開く季節」でもあった。
大森林から風に乗って飛散する、魔界植物の特殊な胞子。現代の言葉で言えば、強力なアレルゲンをたっぷり含んだ『スギ花粉』や『ヒノキ花粉』の凶悪進化バージョンである。
貴族街の一等地にそびえ立つ白亜の洋館、『サキ薬局・プレミアム』。
その日の午後、優雅なクラシックの音色が流れる店内に、突如として冷たい緊張感が走った。
「道を空けよ! 神殿より、異端審問官の監査である!!」
店の入り口のドアが重々しく開かれ、高圧的な声を張り上げる数名の神官たちが雪崩れ込んできた。
彼らの背後から、静かに、しかし圧倒的な威圧感を伴って姿を現したのは、真っ黒な法衣に身を包んだ長身の男。
銀色の髪を後ろで束ね、右目に冷徹な銀縁の片眼鏡を光らせた、神殿の最高実務者――「魔女狩りの鬼」こと、異端審問官の長ゲルドであった。
「ひぃっ……! い、異端審問官様……!」
「なぜ、あのような恐ろしいお方がサキ薬局に……!?」
店内で買い物を楽しんでいた貴族の奥様方や、裕福な商人たちが、恐怖に顔を引き攣らせて壁際へと後ずさる。
無理もない。ゲルドの姿は、この国の法と宗教の頂点に君臨する「裁定者」そのものだ。彼に睨まれれば、どれほど身分が高かろうと、異端の烙印を押されて社会的、あるいは物理的に抹殺される危険がある。
入り口で警備をしていた二メートルの巨漢獣人、ロッツが、ピクリと眉を動かして私の方を振り返った。
私はカウンターの奥から、優雅に歩み出て、完璧な営業スマイルを浮かべた。
「いらっしゃいませ、異端審問官ゲルド様。本日はどのようなご用件でしょうか?」
「……ふん。決まっているだろう、サキ薬局の店主よ」
ゲルドは、片眼鏡の奥の鋭い瞳で私を睨み下ろし、氷のように冷たく、重々しい声で宣告した。
「貴様の店で、神の教義に反する怪しげな薬が売られていないか。そして、悪魔を呼ぶ儀式が行われていないか……我々神殿の権限において、厳密なる『定期監査』を行わせてもらう。いかなる隠し立ても許さぬと思え」
「おお……! さすがはゲルド様! 異端の温床を一切許さぬその厳しい御姿、我々も背筋が伸びる思いです!」
背後の神官たちが、ゲルドの冷徹な態度に心酔したように声を上げる。
私は、その仰々しいパフォーマンスを内心で(はいはい、お疲れ様)と鼻で笑いながら、恭しく頭を下げた。
「かしこまりました。神殿の監査とあらば、拒む理由などございません。……どうぞ、店の奥にある『特別面会室』へ。帳簿から薬品の在庫まで、全て開示して、たっぷりとお話し合いをいたしましょう」
「……よかろう。案内しろ」
ゲルドは重々しく頷き、部下の神官たちに「お前たちはここで待機し、店内の客に不審な動きがないか監視しておれ。私一人で十分だ」と命じた。
神官たちは「ははっ!」と直立不動で敬礼する。
私はゲルドを伴い、一階の奥にある、防音設備が完璧に施されたVIP専用の特別面会室へと足を踏み入れた。
分厚いオーク材の扉が閉まり、ガチャリ、と鍵がかかる音が響く。
外の喧騒が完全に遮断され、面会室の中には、私とゲルドの二人きりになった。
その、次の瞬間だった。
「…………っ、ズズッ」
先ほどまで、氷の彫像のように冷徹だったゲルドの肩が、ビクッと震えた。
「ハッ……ハックションッッ!!!」
防音室の壁を震わせるほどの、盛大極まりないクシャミ。
クシャミの勢いで片眼鏡がポーンと吹き飛び、ゲルドは両手で顔を覆いながら、豪華な革張りのソファにドサッと崩れ落ちた。
「ぐぅぅぅっ……! サ、サキ先生……! 薬を! 早く、あの琥珀色のシロップを……っ!」
そこにはもう、魔女狩りの鬼の威厳など欠片もなかった。
充血した目は真っ赤に腫れ上がり、滝のように流れる鼻水と涙で、その端正な顔立ちは見るも無惨にグシャグシャになっていた。
「あらあら。外ではあんなに偉そうに『異端だ、監査だ』って啖呵を切ってたのに、扉が一枚閉まっただけでこのザマね。最強の監査官様も形無しじゃない」
私は腕を組み、ソファでのたうち回る権力者を見下ろして、意地悪く微笑んだ。
「だ、黙れ……! ハックションッ! 今日の、今日の魔界植物の胞子の飛散量は異常だ! 街を歩いているだけで、目玉を取り出して丸洗いしたくなるほどの激痛と痒みが……っ! ズズッ、神の加護の結界すらも、この微細な悪魔(花粉)を防ぐことはできんのだ……!」
「当たり前よ。あんたの免疫システム(警備兵)がパニックを起こしてるんだから、外側に結界を張ったって意味ないのよ」
私はやれやれと首を横に振り、白衣のポケットから『あるもの』を取り出した。
それは、カルラ商会に特別に発注して作らせた、最高級のシルクのように滑らかな『特製・保湿ティッシュペーパー』である。
この異世界では、鼻をかむ時は粗末な布や、ゴワゴワの羊皮紙のような紙を使うのが一般的だ。それでは、花粉症患者のデリケートな鼻の下は、あっという間に真っ赤に擦り剥けてしまう。
そこで私は、柔らかい植物繊維を極限まで薄く漉き、そこにスライムの粘液から抽出した保湿成分(グリセリン類似物質)をたっぷりと染み込ませた、究極の鼻かみ専用ペーパーを開発したのだ。
「ほら、まずはこれで鼻をかみなさい。普通の布でゴシゴシ擦ったら、鼻の下が赤剥けになって、外で待ってる部下たちに『ゲルド様、鼻がトナカイみたいになってますよ』って笑われるわよ」
私が保湿ティッシュの束を差し出すと、ゲルドはひったくるようにそれを受け取り、ズビーッ! と勢いよく鼻をかんだ。
「おお……!? なんだこの滑らかな紙は……! 鼻をかんでも全く痛くない! むしろ、ひんやりと優しく肌を包み込んでくれる……!」
「サキ薬局特製、ローションティッシュよ。一箱で銀貨三枚いただくわ。……で、本命のお薬はこちらね」
私は、琥珀色に澄んだ抗ヒスタミン薬のシロップが入った小瓶を、ゲルドの目の前でチャプチャプと揺らした。
「ああ……! サキ先生! それを、早く私に……!」
「ちょっと待ちなさい」
私が小瓶をスッと上に持ち上げると、ゲルドは犬のようにお預けを食らった顔で私を見上げた。
「これ、抽出にすごく手間がかかるって言ったわよね。今週分の定期購入の料金、まだもらってないんだけど?」
「は、払う! 払うから早く! 今すぐ金貨十枚を!」
ゲルドは震える手で懐から皮袋を取り出し、テーブルの上に乱暴にぶちまけた。チャリンチャリンと、黄金の輝きが散らばる。
「毎度あり。はい、お薬の時間よ」
私が小瓶を手渡すと、ゲルドは蓋を弾き飛ばし、中身を一滴残らず喉の奥へと流し込んだ。
ゴクッ、という音。
そして、わずか数分後。
「……ふぅぁぁぁぁぁっ……」
ゲルドの口から、魂の底からの深い安堵の溜息が漏れた。
先ほどまで彼を狂おしいほどに苛んでいた、鼻腔の奥の焼けつくような痒みと、とめどなく溢れる水っぱな。その全てが、抗ヒスタミン成分によってピタリとブロックされ、嘘のように消え去ったのだ。
真っ赤だった目から充血が引き、呼吸が正常なリズムを取り戻していく。
「素晴らしい……。やはり、サキ先生のこの薬は、私にとっての真の神だ。息ができる……空気が肺の隅々まで行き渡る……っ!」
ソファに深くもたれかかり、恍惚とした表情を浮かべる異端審問官。
もはや完全に、私の薬(快適さ)なしでは生きていけない体である。最強の権力者が、ただの重度のアレルギー患者として私の掌の上で転がされているこの構図は、見ていて最高に痛快だった。
「落ち着いたかしら? それじゃあ、せっかくの『面会室(VIPルーム)』なんだから、少しお茶でも飲みながらお話ししましょうか」
私は備え付けのティーセットでハーブティーを二つ淹れ、片方をゲルドの前に置いた。
ゲルドは乱れた法衣の襟を正し、落ちていた片眼鏡を拾い上げて右目に装着すると、再び冷徹で知的な「監査官」の顔を(形だけ)取り戻した。
「……見苦しいところをお見せした。だが、感謝する、サキ先生。貴女の薬がなければ、私は今頃、くしゃみのしすぎで肋骨を折っていたかもしれない」
「お安い御用よ。お金さえ払ってくれれば、いつだって最高の医療を提供するのが私のモットーだからね。……で? わざわざ部下を引き連れて、あんな大げさな『監査』の芝居を打ちに来たってことは、神殿の本局で何か厄介な動きがあったのね?」
私が本題を切り出すと、ゲルドは紅茶を一口すすり、片眼鏡の奥の目を鋭く光らせた。
「ご明察の通りだ。……サキ先生、貴女の『魔法を使わずに奇跡を起こす』という噂は、今や王都の神殿本局にも広く知れ渡っている。そして、貴女が辺境伯ユーリス様と結託し、永久免税特権を得てこの貴族街で莫大な利益を上げていることも、だ」
「あら、商売繁盛で結構なことじゃない」
「我々にとってはそうではない。医療の独占こそが、神殿の権威と資金源の根幹なのだ。貴女の存在は、我々の教義を根底から揺るがす『危険因子』として、保守派の長老たちの逆鱗に触れている」
ゲルドは、テーブルの上で両手を組み、低い声で続けた。
「長老たちは、貴女を『悪魔と契約した異端の魔女』として正式に認定し、近衛騎士団を動員してこの店を焼き払い、貴女を火あぶりの刑に処すよう強硬に主張している」
「物騒ねえ。で、あんたはどうしたの?」
「当然、私が握り潰した」
ゲルドは平然と言い放った。
「もし貴女が火あぶりにでもなれば、私のこの地獄の鼻水とくしゃみを止める者が世界からいなくなってしまう。そんなことは、神が許しても私が絶対に許さん。私の安らかな呼吸のためならば、長老の一人や二人、いかようにも黙らせてみせる」
己の保身(花粉症対策)のために、神殿の最高意思決定機関に真っ向から反旗を翻す異端審問官の長。
そのあまりの職権濫用と堕落っぷりに、私は思わず吹き出しそうになった。
「頼もしいわね。でも、あんた一人が反対したところで、保守派の連中が大人しく引き下がるとは思えないけど?」
「その通りだ。奴らも馬鹿ではない。私が『サキ薬局には異端の証拠がない』と報告を上げ続けていることに、疑念を抱き始めている。そこで奴らは、教義(宗教)からの弾圧を諦め、今度は『法律』の隙間を突いて、貴女を潰しにかかろうとしているのだ」
「法律の隙間?」
私が首を傾げると、ゲルドは懐から一枚の羊皮紙を取り出した。
そこには、神殿が定めた細々とした法律の条文がビッシリと書き込まれていた。
「これを見ろ。神殿法・第七章、第三十二条。『魔力を有する特殊な薬草、および魔物の素材を取り扱う者は、神殿が発行する【特別認可証】を保持せねばならず、その売り上げの三割を神殿への奉納金として納めること』……とある」
「……なるほどね」
私はゲルドの言わんとしていることを即座に理解し、鼻で笑った。
「辺境伯からの『永久免税特権』は、あくまで国や領地に払う税金の話。神殿への『奉納金(という名のショバ代)』は別腹だから、それを払えって言いがかりをつけてきたわけね。払わなければ違法操業で営業停止、と」
「そうだ。長老たちは、貴女がスライムの粘液や魔界植物の成分を使っていることを突き止めた。これを盾に取り、莫大な奉納金を請求し、支払えなければ店を差し押さえるつもりだ」
「相変わらず、権力者の考えることはどこの世界もセコいわね。他人の利益にタダ乗りしようとするなんて、虫唾が走るわ」
私は紅茶のカップを置き、ゲルドを真っ直ぐに見据えた。
「で? 最強の監査官様は、このセコい法律攻撃をどうやって防いでくれるおつもり? もし私が店を差し押さえられたら、あんたのお薬を作る場所もなくなっちゃうわよ?」
「フッ……案ずるな、サキ先生。私は神殿の法を熟知している。法で来るなら、法で叩き潰すまでだ」
ゲルドは片眼鏡を光らせ、狡猾な笑みを浮かべた。
「この条文には明確な『抜け穴』がある。対象となるのはあくまで『魔力を有する素材を、魔術的な効能を目的として取り扱う者』だ。……貴女は常々言っているな? 貴女の薬には、魔力など一ミリも入っていない、と」
「ええ。私がやってるのは、素材から特定の化学成分だけを抽出するカガクの手法よ。魔力なんて不純物は、製造過程で完全に飛んでるわ」
「ならば話は簡単だ。私が監査官としての絶対的な権限において、『サキ薬局の製品には一切の魔力が検出されず、よって神殿法・第七章の対象外である』という公式な証明書を発行してやる」
ゲルドがニヤリと笑う。
「これがあれば、保守派の連中も法的に手出しはできん。世俗の免税特権に加え、神殿からの不干渉証明書。これでもう、貴女の店から利益を搾り取れる者は、この世界のどこにもいなくなるというわけだ」
私は、ゲルドの提案を聞いて、思わずゾクゾクとするような歓喜の震えを覚えた。
政治権力による免税に続き、宗教権力による不干渉特権。
異端審問官という、私にとって最大の脅威だったはずの存在が、今や私のビジネスを法的に守るための「最強の盾」として機能しているのだ。
「……素晴らしいわ、ゲルド様。あんた、ただの堅物のおじさんかと思ってたけど、中々どうして、優秀な悪徳官僚じゃないの」
「人聞きの悪いことを言うな。私はただ、己の安らかな呼吸と、真に人々を救う『真理』を守るために、法を正しく解釈しているだけだ」
ゲルドは紅茶を飲み干し、立ち上がった。
「監査は終了した。この店に異端の証拠はなし。公式証明書は、後日使いの者に届けさせよう。……サキ先生。これからも、私の鼻と目を、よろしく頼むぞ」
「ええ、任せてちょうだい。あんたの分のお薬は、一番品質のいい成分で確保しておくわ。定期購入の更新、忘れないでね」
私がウインクをして見送ると、ゲルドは重々しく頷き、面会室の扉を開けた。
扉の外に出た瞬間、彼の顔は再び、氷のように冷徹な「魔女狩りの鬼」へと切り替わっていた。
「待たせたな。監査は終了した!」
外で待機していた神官たちが、ビシッと姿勢を正す。
「ゲルド様! いかがでしたか! やはりあの面会室の奥に、悪魔の祭壇が!?」
「……いや。隅から隅まで調べたが、魔力の痕跡は一切なかった。ただの草の絞り汁を売っているだけの、つまらん店だ。我々が踏み込むほどの価値もない」
ゲルドが冷たく言い放つと、神官たちは「なんと……ゲルド様の眼力をもってしても、異端の証拠が出ないとは……」と悔しそうに引き下がった。
ロッツが、私の顔を見て「ボス、あの厳ついおっさん、中と外で別人みたいだな……」と呆れたように小声で呟く。
「我々はこれより本局へ帰還する! サキ薬局への監査は、これにて打ち切りとする!」
ゲルドの号令と共に、威圧的だった神殿の一団は、踵を返して店から出て行った。
後に残されたのは、無事に営業を再開できることに安堵する貴族の奥様方と、してやったりという顔でカウンターに寄りかかる私の姿だけだった。
「ふふふ……。ちょろいもんね。これで政治と宗教、両方のトップを私の『薬(依存)』で完全に取り込んだわ」
私は、カウンターの上に置かれた金貨十枚(ゲルドからの薬代)を指先で弾いた。
チャリン、という美しい音が、勝利のファンファーレのように店内に響く。
絶対的な権力を持つ神殿からの横槍を、カガクの論理と花粉症というアキレス腱を突くことで見事に跳ね返し、逆に最強の監査官を「パシリ」にしてしまった私。
しかし、神殿の保守派たちがこのまま大人しく引き下がるわけがない。法が通じなければ、次に来るのはもっと直接的で、陰湿な「物理的妨害」や「世論の扇動」であることは火を見るより明らかだった。
だが、恐れることは何もない。
彼らがどんな手を使ってこようとも、私がこの街の住人たち――スラムの貧民から冒険者、そして貴族に至るまで――を救い、築き上げてきた『信頼とカネのネットワーク』が、決して私を一人にはしないのだから。




