第33話「神聖魔法で治らない『目に見えない敵』」
大理石の床が敷き詰められたサキ薬局・プレミアムの店内に、一人の男が膝をついていた。
漆黒の法衣に身を包んだ、異端審問官の長たるゲルド。
つい先ほどまで、神の威光を背負い「魔女狩りの鬼」として私に異端宣告を突きつけていた絶対的権力者は、今や一滴の琥珀色のシロップ――私がスラムの薬草から精製した抗ヒスタミン薬――を飲み込んだことで、歓喜の涙を流していた。
「おお……おおおお……! 息ができる……! 鼻の奥を焼くようなあの地獄の痒みが、完全に消え去った……!」
ゲルドは、信じられないものに触れるかのように自身の手で鼻を覆い、深く、そして力強く深呼吸を繰り返した。
肺の底まで澄んだ空気が流れ込む感覚。それは、重度の花粉症(アレルギー性鼻炎)に長年苦しめられてきた者にとって、何物にも代えがたい「奇跡」の瞬間である。
「ゲ、ゲルド様……! しっかりなさってください!」
「ああっ、魔女の毒液を飲まされたせいで、ゲルド様の精神が汚染されてしまったのだ! 今すぐ浄化の光を!」
しかし、その光景を後ろで見ていた部下の神官たちにとっては、まさに悪夢であった。
彼らの目には、冷徹なる異端審問官が、怪しげな薬師の作った泥水を飲んで正気を失い、涙を流して狂喜しているようにしか見えなかったのだ。
「魔女め! ゲルド様から今すぐ呪いを解け!」
血気盛んな若い神官の一人が、杖を高く掲げた。
杖の先端にはめ込まれた宝玉が眩い光を放ち、神聖魔法『ハイ・ヒール(上位治癒)』の発動プロセスが始まる。
「ちょっと! やめなさいってば!」
私がカウンターから身を乗り出して制止するより早く、純白の浄化の光が、膝をつくゲルドの全身を優しく包み込んだ。
神官は勝ち誇ったように「これで悪魔の呪いは消え去ったはずだ!」と叫んだ。
だが、その直後だった。
「…………ッ!?」
光を浴びたゲルドの体が、ビクンッ! と大きく跳ねた。
彼の目が見開き、先ほどまで安らかな呼吸を繰り返していた鼻腔から、突如としてツーッと透明な水っぱなが垂れ落ちる。
「ハッ、ハックションッ!! ズズッ……!! 目がっ、目があぁぁぁっ!!」
ゲルドは両手で目を激しくこすり始め、喉の奥からヒューヒューと苦しげな音を立てて床をのたうち回った。
一度は完全に鎮まっていたはずのアレルギー症状が、数秒前よりもさらに凶悪な勢いでぶり返し、大暴走を始めたのだ。
「な、なぜだ!? なぜ私のハイ・ヒールで、ゲルド様の症状が悪化するのだ!?」
「呪いだ! やはりこの魔女の呪いは、神の光をも侵食するほどに強大だというのか……!」
パニックに陥り、後ずさる神官たち。
その混乱の中心で、私は呆れ果てて額に手を当て、深ーい、深ーいため息をついた。
「……だから、やめなさいって言ったのよ。あんたたちのその大好きな『神聖魔法』が、一番の毒なんだから」
「なんだと!? 貴様、神の奇跡を毒と呼ぶか!」
「ええ、呼ぶわ。アレルギー患者にとってはね」
私は白衣のポケットからチョーク(石灰の塊)を取り出し、カウンターの奥の壁に立てかけてあった黒板代わりの大きな石板の前に立った。
異世界の人々に、現代医学の『免疫システム』を理解させるのは骨が折れる。だが、これを理解させなければ、彼らは永遠に「万能の魔法」に縋り、無意味な対症療法(いや、悪化療法)を続けることになる。
「いいこと、神官さんたち。耳の穴をかっぽじって、よーく聞きなさい。あんたたちが『悪霊の呪い』だと思ってるこの症状の正体と、神聖魔法がなぜ効かないのかを、今からカガクのロジックで完膚なきまでに解説してあげるから」
私は石板に、簡略化した『お城(人体)』と『警備兵(免疫細胞)』の絵を描き始めた。
「まず、人間の体っていうのは、強固な城壁に守られたお城みたいなものよ。そして、そのお城の中には、外から入ってくる魔物や盗賊(細菌やウイルス)を退治するための『警備兵』がたくさん配備されてるの。これが、体を守るための防衛システム……『免疫』よ」
「めんえき……? お城の警備兵……?」
「そう。怪我をしたり、悪い菌が入ってきたりすると、警備兵が武器を持って戦ってくれるから、人間は病気を治すことができるの。……ここまでは分かるわね?」
神官たちが怪訝な顔をしながらも頷く。
私は続けて、石板にもう一つ、小さな『綿毛(花粉)』のような絵を描いた。
「じゃあ、この季節に空を飛んでる『花粉(魔界植物の胞子)』っていうのは何か。これはね、お城に入ってくる『ただの無害な行商人』よ。剣も持ってないし、お城を壊す気もない。本来なら、警備兵は彼らを素通りさせなきゃいけないの」
「無害な行商人だと? 馬鹿な! ゲルド様があれほど苦しんでおられるのだぞ! それが引き起こすのは、まさに悪霊の瘴気に他ならん!」
「だから、そこが問題なのよ」
私はチョークで、警備兵の絵の頭に「怒りマーク」を激しく書き足した。
「花粉症っていうのはね、本来なら無害なはずの行商人(花粉)に対して、お城の警備兵(免疫)が『こいつは危険な悪霊だ! 侵入者だ!』って勘違いして、大パニックを起こしてる状態のことなのよ」
「か、勘違い……?」
「ええ。警備兵はパニックになって、『ヒスタミン』っていう警告の狼煙をバンバン打ち上げるの。この狼煙が上がると、お城中が警戒態勢に入る。鼻水を大量に出して行商人を洗い流そうとしたり、くしゃみをして城の外に吹き飛ばそうとしたり、目から涙を出して追い出そうとする。……つまり、ゲルドさんを苦しめているのは、外部からの攻撃じゃなくて、自分自身の警備兵による『過剰防衛(自爆テロ)』なのよ!」
私の説明に、神官たちは雷に打たれたように固まった。
彼らが長年「悪霊の攻撃」だと信じていたものが、まさか「自身の肉体の勘違いによる自滅行為」であったなど、想像すらしたことがなかったのだろう。
「そこで、あんたたちの神聖魔法の話に戻るわ」
私はチョークを石板にコンコンと叩きつけた。
「ヒールっていうのは、細胞を活性化させて治癒力を高める魔法よね。お城の比喩で言うなら、警備兵に大量の『エナジードリンク(興奮剤)』を飲ませて、無理やりハイテンションにして戦わせるようなものよ」
「……ッ!」
ようやく事の重大さに気づいたのか、先ほどハイ・ヒールを放った神官の顔から、サーッと血の気が引いた。
「もう分かるわよね? 無害な行商人を敵だと勘違いして大暴れしてる警備兵に、興奮剤を飲ませたらどうなるか。……当然、警備兵はさらに狂暴化して、もっと激しく狼煙を上げ、もっと激しく鼻水やくしゃみを引き起こすわ。あんたがやったのは、ゲルドさんの苦しみを癒すことじゃなく、火に油を注いで症状を最悪に悪化させただけなのよ!!」
私の決定的な断罪に、神官は「あ、ああ……! 私は、ゲルド様に何ということを……!」とその場に崩れ落ちた。
「だから、アレルギーに対しては『警備兵を落ち着かせる薬(抗ヒスタミン薬)』を飲ませなきゃいけないの。さっき私が飲ませた琥珀色のシロップは、まさにそのために作った特効薬。……それをあんたが、余計な魔法で警備兵を叩き起こしてくれたせいで、台無しになったってわけ」
私は冷ややかに言い捨て、床で涙と鼻水にまみれてもがき苦しむゲルドを見下ろした。
彼は充血した目で私を見上げ、「ぐぅぅっ……サキ先生……! わ、私が愚かだった……! どうか、どうかもう一度、あのシロップを……っ!」と、もはや異端審問官の威厳の欠片もない声で哀願してきた。
「いいわよ。でも、その前にもう一つ、あんたたちに『現実』を見せてあげる」
私はカウンターの奥から、カルラ商会に特注で作らせた『ある道具』を取り出した。
それは、真鍮の筒の上下に、精密に磨き上げられたガラスレンズを組み合わせたもの……現代で言うところの『単眼顕微鏡(の初期型)』である。
私はその顕微鏡をカウンターの上に置き、窓枠の隅にうっすらと積もっていた黄色い粉(魔界植物の胞子)を、ガラスのプレパラートの上に採取してセットした。
「あんたたち神殿の連中は、目に見えないものを全て『悪霊』だの『呪い』だのって片付けるわよね。だから病気の本当の原因にたどり着けないの。……さあ、覗いてみなさい。あんたたちの言う『悪霊の瘴気』の、本当の姿を」
私が促すと、神官の一人が恐る恐る顕微鏡のレンズを覗き込んだ。
「こ、これは……」
レンズの向こう側。数十倍に拡大されたミクロの世界。
そこに映っていたのは、得体の知れない悪霊の顔でも、呪いの紋様でもなかった。
表面に無数のトゲトゲを持った、不気味でグロテスクな形をした『球体のカプセル(花粉)』が、幾重にも連なっている物理的な光景だった。
「な、なんだこれは……! トゲの生えた丸い物体が、無数に……! これが、ゲルド様を苦しめているものの正体だと言うのか!?」
「そうよ。ただの植物の粉(物理)よ」
私は腕を組み、レンズから目を離して震える神官たちに事実を突きつけた。
「このトゲトゲした粉が、春風に乗って大量に飛んできて、ゲルドさんの鼻や目の粘膜に突き刺さる。そして、そのトゲの中に入っているタンパク質が、さっき言った『警備兵の勘違い』を引き起こすの。呪いでも魔法でもない。風が運んできた植物の粒子が、物理的に粘膜を攻撃してるだけ。……それが、カガクが暴き出した『目に見えない敵』の正体よ」
大理石の店内に、完全なる沈黙が落ちた。
万能と思われていた神聖魔法が、自らの免疫細胞の暴走を助長するだけの「逆効果」であったというロジック。
そして、恐るべき悪霊の瘴気だと信じていたものが、ただの植物の花粉であるという視覚的証明。
これらは、彼らが長年信奉してきた宗教的医療観を、根底から覆すほどのパラダイムシフト(価値観の崩壊)であった。
「……私の、負けだ」
床に這いつくばっていたゲルドが、荒い息を吐きながら、しゃがれた声で呟いた。
「ゲ、ゲルド様……!」
「神の奇跡は、絶対であり万能だと信じてきた。我々神殿こそが、人々の命を救う唯一の光であると……。だが、現実は違った」
ゲルドは充血した目を細め、カウンターの上の顕微鏡と、黒板に描かれた図解を交互に見つめた。
「神の光は、私のこの鼻腔を焼く苦しみを癒すどころか、逆に悪化させた。そして、この魔女……いや、サキ先生の作った一滴のシロップが、神の光すら及ばぬ苦痛から私を解放してくれた。……これは紛れもない、物質的な事実(真理)だ」
異端審問官としての冷徹な理性が、宗教的な盲信よりも、目の前で証明された「カガクのロジック」を正しいと判断した瞬間だった。
「……神は我々に奇跡を与えた。だが、それはすべての病を癒す魔法の杖ではなかった。神は、この世界に満ちる微小な理を解き明かすことを、我々人間に委ねたのだ。……その理を、見事に解き明かしてみせた貴女を、どうして異端などと呼べようか」
ゲルドはゆっくりと立ち上がり、乱れた法衣の襟を正して、私に向かって深く、それはもう深く頭を下げた。
「サキ先生。神殿の無知と傲慢を、どうかお許しいただきたい。貴女の薬学は、悪魔の術などではない。人を救うための、確かな『真理』だ。……本日の営業停止命令は、全て白紙に戻させていただく」
「ゲルド様! そ、そのようなことを本局が許すはずが……!」
「黙れ! 異端審問官の長である私の決定に逆らうか! 本局の老害どもには、私が適当に報告をして丸め込んでおく。……サキ先生の店には、今後一切の干渉を禁ずる!」
ゲルドの凄まじい一喝に、神官たちは「は、ははっ!」と平伏し、完全におとなしくなった。
「ふふっ。話の分かる権力者は大好きよ」
私は極上の営業スマイルを浮かべ、再び懐からあの「琥珀色のシロップ」が入った小瓶を取り出した。
「あんたのその柔軟な思考と、見事な手のひら返しに免じて、もう一度だけ特効薬を飲ませてあげるわ」
「おお……っ! サキ先生! 感謝いたします!」
ゲルドは震える両手で小瓶を受け取り、蓋を開けて一気にシロップを飲み干した。
ゴクッ、という喉を鳴らす音。
数分後。再び抗ヒスタミン薬が体内に浸透し、彼の荒れ狂っていた免疫システム(警備兵)が鎮静化していく。
「……ふぅぁぁぁぁ……っ」
ゲルドの口から、深い、そして極上の安堵に満ちた溜息が漏れた。
真っ赤に充血していた瞳から赤みが引き、涙と鼻水でグシャグシャだった端正な顔立ちが、本来の冷徹で知的な姿へと戻っていく。
「素晴らしい……。やはりこの薬は、私の人生を救う究極の霊薬だ。呼吸ができる喜びが、これほどまでに甘美なものだったとは……」
完全に薬の効果(快適さ)の虜になったゲルドは、片眼鏡を指でスッと押し上げ、もはや隠そうともしない「依存症患者」の顔で私を見つめてきた。
「サキ先生。先ほどの約束通り、私は貴女の店の『特別優良顧客』として、定期的にこの薬を購入させていただきたい。いくら積めば、この薬の独占供給を受けられるでしょうか?」
「そうねえ」
私は頭の中で高速のソロバンを弾いた。
辺境伯ユーリス様(毛根のパトロン)に続き、異端審問官の長ゲルド(花粉症のパトロン)。
この世界の最強の権力者二人を、私の『カガク』で完全に支配下に置くことに成功したのだ。
「この抗ヒスタミンシロップは、抽出にものすごく手間がかかるの。一瓶で【金貨十枚】。それを花粉の季節が終わるまで、週に一本の定期購入で契約してもらうわ。もちろん、神殿からの嫌がらせを完全にもみ消すというオプション付きでね」
「安いものだ! 金貨十枚でこの地獄から解放されるのなら、百枚でも払おう! 契約成立だ、サキ先生!」
ゲルドは歓喜の声を上げ、懐から金貨の詰まった皮袋を取り出してカウンターに叩きつけるように置いた。
かくして。
サキ薬局・プレミアムを襲った神殿からの営業停止命令という最大の危機は、私の現代薬学のロジックと、花粉症という普遍的な病(弱点)を突くことによって、見事に逆転勝利へと導かれたのである。
「いらっしゃいませ、ゲルド様。サキ薬局へようこそ。これからも末長く、私の薬をご贔屓にしてくださいね」
私が優雅にお辞儀をすると、ゲルドは深く頷き、ロッツやシエナちゃんたちもホッと安堵の息を漏らした。
最強の監査官という弱みを握ったことで、サキ薬局の防衛網はついに完璧なものとなった。
だが、私が権力者たちを取り込み、王国中で莫大な利益を上げ続けるこの状況を、神殿の保守派たちが黙って見過ごすはずがない。
表立った攻撃が封じられた彼らは、次なる手段――法と政治の裏をかく、より陰湿な『嫌がらせ』へとシフトしていくことになる。
しかし、どんな盤外戦術が来ようとも。
私と仲間たちが築き上げた「カガクと筋肉と財力のネットワーク」は、決して崩れることはないのだ。




