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第32話「堅物の異端審問官、現る。」

「ハックションッ!!」


大理石の床がピカピカに磨き上げられたサキ薬局・プレミアムの店内に、全くもって似つかわしくない、盛大なクシャミの音が響き渡った。

威厳に満ちた真っ黒な法衣。銀色の髪。右目には知的な片眼鏡モノクル。そして、神の教えに背く者を一切の容赦なく火あぶりにしてきた「魔女狩りの鬼」こと、異端審問官の長ゲルド。

そんな、泣く子も黙る絶対的権力者が放った、あまりにも人間くさく、かつ無防備なクシャミであった。


「…………」

「…………」


店内の空気が、完全に凍りついた。

壁際に追いやられて震えていた貴族の奥様方も、大剣の柄に手をかけて殺気を放っていたロッツも、そして、ゲルドの背後に控えていた高圧的な神官たちすらも、全員がポカンと口を開け、信じられないものを見る目でゲルドを凝視している。

絶対的な静寂。

その中で、ゲルドは片眼鏡を指でスッと押し上げ、何事もなかったかのように懐から真っ白な絹のハンカチを取り出した。


「……ズズッ。失礼しました。どうやら、今年の春は魔界植物の胞子が異常発生しているようで。私の鼻腔を刺激して不快極まりない。……これもまた、我々の信仰心を試す神の試練なのでしょう」


ゲルドはハンカチで鼻を上品に押さえながら、低い、威圧感のある声で言い訳をした。

部下の神官たちが「お、おお! さすがはゲルド様! いかなる時も神の試練と受け止めるその御心、我々も感服いたします!」と慌てて追従の声を上げる。

だが、私はその様子をカウンターの奥から冷ややかな目で見つめ、ハアと深いため息をついた。


「神の試練ねえ。あんたたち、本当に何でもかんでも神様や悪霊のせいにすれば気が済むのね」

「なんだと……?」

「鼻水が出てくしゃみが止まらないのは、神の試練でもなんでもないわ。あんたの免疫システムが、空気中を漂ってる花粉アレルゲンを『外敵』だと勘違いして、過剰な防衛反応を起こしてるだけ。現代医学で言うところの『アレルギー性鼻炎』、俗に言う『花粉症』よ」


私が氷のように冷たい声で事実を突きつけると、ゲルドの眉間には深いシワが刻まれた。


「花粉症……? 免疫、アレルギー……? わけのわからん世迷言を。私は今、貴様のその異端の言葉遊びを聞きに来たのではない」


ゲルドはハンカチを懐にしまい、再び冷酷な「異端審問官」の顔を作り上げた。

彼はコツ、コツと大理石の床を硬質な足音で踏み鳴らし、私の目の前、カウンター越しに至近距離まで迫ってきた。彼が放つプレッシャーは、先ほどの取り巻きの神官たちとは次元が違う。数多の命を合法的に奪ってきた者の、血の匂いがする威圧感だ。


「サキ薬局の店主、サキ。貴様がこの街で神聖魔法に頼らず、無資格のまま『奇跡』を騙っているという報告は受けている。辺境伯をたぶらかし、世俗の権力で我々神殿の法から逃れられると思っているようだが……私の目は誤魔化せない」


ゲルドの片眼鏡の奥の瞳が、獲物を狙う鷹のように鋭く細められた。

彼は店内に美しくディスプレイされた瑠璃色のガラス瓶(高濃度ビタミンC美容液)や、棚に並べられた特製育毛トニックを、忌々しそうに一瞥した。


「見なさい。この不気味に輝く液体を。そして、この空間に充満する、草や魔物の体液を煮詰めたような悪臭を。これは紛れもなく、悪魔を降臨させるための魔術の祭壇だ。貴様はここで、人々の魂を対価に悪魔と契約し、まやかしの薬を作り出しているのだな!」

「はあ? 魔術の祭壇? 悪魔の薬?」


私は、ゲルドのあまりにも前近代的な(ファンタジー全開の)解釈に、思わず呆れ声を出してしまった。


「言いがかりも大概にしなさいよ。ここにあるのは全て、カガクのロジックに基づいて抽出・合成された真っ当な製品よ。例えばこの青い瓶の美容液。中身はただのスライムの粘液から抽出したヒアルロン酸もどきと、酸食草から取り出したビタミンCの原液を混ぜたものよ。魔力なんて一ミリも入ってないわ」

「嘘をつけ! スライムの粘液と雑草を混ぜただけで、貴族の女どもが若返るわけがなかろう!」

「若返るのよ。肌のターンオーバーを促進して保湿してるだけだからね。……というか、あんた、さっきから声が鼻声すぎて全然怖くないんだけど。ズズッって音が気になって、話が頭に入ってこないわよ」


私が容赦なくツッコミを入れると、ゲルドは顔を赤くし、再び懐からハンカチを取り出した。


「ズズッ……! こ、これは神の試練だと先ほどから……ハッ、ハックションッ!!」


またしても、盛大なクシャミ。

しかも今度は、クシャミの勢いで片眼鏡がポロリと外れ、胸元にぶら下がるというおまけ付きだ。

ゲルドは慌てて片眼鏡を掛け直し、ハンカチで鼻を強くかんだ。チーン! という情けない音が店内に響く。


「ゲルド様! お労しや……! 今すぐ私が、浄化の神聖魔法を!」


背後にいた部下の神官が慌てて駆け寄り、杖を掲げてゲルドの顔に向けて淡いヒールを放った。

神聖魔法の光を浴びた瞬間、ゲルドの顔から苦痛の色がスッと消え、鼻の通りが良くなったように見えた。


「……ふぅ。ご苦労。やはり神の奇跡は偉大だ。鼻腔を焼くような不快感が嘘のように消え去った。これで、忌まわしい魔女への審問を再開でき……ズズッ。……ん?」


ゲルドが勝ち誇ったように宣言しようとした、そのわずか十秒後。

彼の鼻から、再びツーッと透明な水っぱなが垂れてきたのだ。


「な、なんだと……? 神聖魔法の光を浴びたはずなのに、なぜ再び鼻が……」

「ハックションッ!! ズズッ、目が……目が異常に痒い……っ!」


ゲルドは両手で目をこすり始め、その端正な顔立ちは見るも無惨にグシャグシャになっていく。充血した目は真っ赤に腫れ上がり、鼻水はハンカチで押さえても押さえてもとめどなく溢れ出てくる。


「ば、馬鹿な! 私の高位のヒールが効かないなど……! ゲルド様! これはもしや、この魔女が店内に張り巡らせた見えない呪いなのでは!?」


部下の神官がパニックになり、私に向かって杖の先を突きつけてきた。

私はやれやれと首を横に振り、腕を組んで彼らを見下ろした。


「呪いでも魔法でもないって言ってるでしょ。少しは学習しなさいよ。あんたたちのその大好きな『ヒール(神聖魔法)』が、アレルギーに効かない理由を教えてあげるわ」


私は、もがき苦しむゲルドを指差して、カガクの授業を始めた。


「ヒールっていうのはね、細胞の治癒力を強制的に引き上げて、傷を塞いだり炎症を抑えたりする魔法よ。怪我や細菌感染には絶大な効果があるわ。でも、花粉症アレルギーの原因は、外部からのダメージじゃない。自分自身の『免疫細胞』が、体内に入ってきた無害な花粉を『敵だ!』って勘違いして、ヒスタミンっていう化学物質を過剰に分泌して大暴れしてる状態なの」

「ひすたみん……? 免疫細胞……?」

「つまり、あんたの体は今、自分自身と戦ってるのよ。そこにヒールをかけたらどうなるか。……炎症は一瞬治まるけど、同時に免疫細胞の働きも活発になっちゃうから、すぐにまた過剰防衛が始まって、前よりも酷いアレルギー反応が起きるってわけ。神聖魔法でアレルギーを治そうとするのは、火事に油を注ぐようなものなのよ」


私の理路整然とした解説(カガクの真理)の前に、神官たちは言葉を失った。

彼らが絶対と信じてやまない神の奇跡が、ただの花粉に対して完全に無力であるどころか、逆効果でしかないという事実。

それは、神殿の権威に対する致命的なダメージであった。


「ズズッ……ハックション! ぐぅぅっ、で、でたらめだ……! 魔力を持たぬ小娘が、神の御業を否定するなど……! 私は、私はこんな花粉ごときに屈する男では……ハックションッ!!」


ゲルドは必死に威厳を保とうとするが、連続するクシャミと止まらない鼻水のせいで、もはや完全にただの「花粉症に苦しむ可哀想なおじさん」に成り下がっていた。

ロッツが「おいおいボス、なんか見てて可哀想になってきたぜ。あの厳ついおっさん、鼻の下が真っ赤に擦り剥けてるじゃねえか」と同情し始める始末だ。


「……はぁ。本当に、強情な患者ね」


私はカウンターから身を乗り出し、ハンカチを握りしめて涙目になっているゲルドの顔を、至近距離からじっと観察した。


「結膜の激しい充血。透明で水のような鼻汁の連続的な分泌。それに伴うくしゃみと、気道粘膜の浮腫。……これ、相当重症よ。この世界には抗アレルギー薬がないから、今までずっと気合と神への祈りだけで耐えてきたんでしょ? 夜もまともに眠れてないんじゃない?」

「…………ッ」


図星を突かれたのか、ゲルドの肩がビクッと跳ねた。

そう、彼はこの季節になるたびに、誰にも言えない地獄の苦しみを味わってきたのだ。異端審問官の長という立場上、人前で弱みを見せるわけにはいかず、ひたすら威厳の仮面を被って耐え忍んできた。だが、今年の魔界植物の異常繁殖は、彼の強靭な精神力をも凌駕するアレルゲンを撒き散らしていたのである。


「サ、サキ先生……」


奥で様子を見ていたシエナちゃんが、心配そうに私の袖を引いた。


「あの神殿のおじさん、すごく苦しそう。お姉ちゃんの薬で、助けてあげられないの?」

「シエナちゃん、あんたは本当に優しい子ね。でもね、相手は私の店を潰しに来た異端審問官よ? 助けてあげたら、元気になってまた『異端だ火あぶりだ』って喚き散らすかもしれないじゃない」

「でも、お姉ちゃんいつも言ってるよ。『命と健康は平等に救う』って」


シエナちゃんの純粋な瞳に見つめられ、私は小さく舌打ちをした。

確かに、目の前で苦しんでいる患者(花粉症)を放置するのは、薬剤師としてのプライドが許さない。それに、この堅物でプライドの高い異端審問官を私の薬の虜(依存症)にしてしまえば、神殿からの横槍を根元から絶つための最強の「手駒」になるかもしれない。


(……悪くないわね。神殿のトップを、私のカガクの力でパシリにしてやるわ)


私は頭の中で黒いソロバンを弾き終え、極上の、しかし相手を完全に見下した営業スマイルを浮かべた。


「いいこと、ゲルドさん? あんたたちの神聖魔法じゃ、その地獄の苦しみは一生治らないわ。神様は花粉症には無力なのよ。でも……」


私は白衣のポケットから、一つの小さなガラス瓶を取り出した。

中には、琥珀色に澄んだシロップ状の液体が入っている。

これは、私が数日前に趣味(自分のアレルギー対策)で、スラムの裏山に生えている『鎮静草』と『苦ヨモギ』から抽出した成分を合成して作った、特製の抗ヒスタミンもどきだ。


「私のこの『カガクの薬』なら、あんたのその鼻水とくしゃみを、ものの数分でピタリと止めてあげられるわ。炎症を抑えるんじゃなくて、アレルギー反応の元になるヒスタミンの働きそのものをブロックする特効薬よ」

「なっ……!? な、なにを馬鹿なことを! 神聖魔法で治らぬものが、そのような得体の知れない泥水で治るはずが……ハックションッ!!」

「泥水かどうかは、試してみればわかるでしょ? 苦しくて夜も眠れないんでしょ? 今なら初回限定お試し価格として、無料で一口飲ませてあげるわよ。もちろん、効いたと実感した後は、正規の『特別診療料金』をきっちり請求させてもらうけどね」


私は琥珀色のシロップが入った小瓶を、ゲルドの鼻先でチャプチャプと揺らしてみせた。

ゲルドの瞳孔が揺れる。

神殿の教義に従えば、このような無資格の薬師が作った謎の液体を口にするなど、異端中の異端、絶対に許されない行為だ。

しかし、彼の肉体はすでに限界を突破していた。鼻の粘膜は焼けつくように痛み、目玉を取り出して洗いたいほどの痒みが彼を狂わせそうになっている。そして何より、目の前で自信満々に微笑む小娘の放つ『絶対的な治療のロジック』が、彼の中の常識を激しく揺さぶっていた。


「ゲ、ゲルド様! そのような魔女の毒を飲んではなりません! 必ずや精神を操られ、悪魔の奴隷に……!」

「うるさいわね。飲むか飲まないかは本人の自由よ。さあ、どうするの? このまま神に祈りながら、自分の鼻水で溺れ死ぬ? それとも、異端の薬に縋って、快適な呼吸を取り戻す?」


私が最後の一押しをすると、ゲルドはギリッと歯を食いしばり、震える手をゆっくりと小瓶へと伸ばした。


「……わ、私が……異端審問官たるこの私が、魔女の薬に頼るなど……!」

「ほらほら、意地を張らない。お薬の時間よ、おじさん」


私はゲルドの手から小瓶を奪い取り、半ば強引に彼の口にシロップを流し込んだ。


「んぐっ!? ゴクッ……!」

「ああっ! ゲルド様が、魔女の液体を飲み込まれたぞぉぉっ!」


神官たちが絶望の悲鳴を上げる。

ゲルドはゴホゴホと咳き込みながら、喉の奥に広がる強烈な苦味と、その後に来るメントールのような清涼感に目を見張った。


「な、なんだこの味は……! 泥水などではない。これは……」


そして。

薬を飲み込んでから、わずか三分後のことだった。


「…………あっ」


ゲルドの口から、間抜けな声が漏れた。

先ほどまで彼を狂おしいほどに苛んでいた、鼻の奥の焼けつくような痒み。とめどなく溢れ出ていた水っぱな。連続するクシャミの衝動。

その全てが、まるで嘘のように。

潮が引くように、スーッと体の中から消え去っていったのだ。


「こ、これは……」


ゲルドは信じられないといった様子で、自分の鼻に触れた。

鼻水は一滴も出ていない。そして何より、空気が、澄んだ空気が、鼻腔を通って肺の奥深くまで、何の障害もなくスムーズに吸い込める。

何十年ぶりかに味わう、春の季節における『完璧な呼吸』だった。


「お、おお……おおおおおっ……!!」


異端審問官の長、ゲルド。

彼は大理石の床に膝をつき、両手で顔を覆って、歓喜に打ち震えた。


「息が……息ができる! 鼻が通っている! 目も痒くない! 神聖魔法でも治らなかったこの呪わしき苦しみが、一瞬にして、跡形もなく消え去ったというのか!!」

「だから言ったでしょ。カガクの力よ」


私は腕を組み、床に這いつくばって歓喜する権力者を見下ろしながら、極上の、そして悪魔のような笑みを深めた。


「これが抗ヒスタミン薬の力。アレルギー反応を根元からシャットアウトする、現代薬学の奇跡よ。……どうかしら、ゲルドさん。私の薬の味は?」

「す、素晴らしい……。これは、まさに神の……いや、神をも凌駕する、真の奇跡の霊薬だ……っ!」


完全に薬の効果(快適さ)の虜になったゲルドは、片眼鏡を涙で曇らせながら、私を見上げて恍惚とした表情を浮かべていた。

もはやそこに、魔女狩りの鬼と恐れられた冷徹な異端審問官の面影はない。

あるのはただ、「花粉症の特効薬なしでは生きられない体」にされてしまった、一人の哀れな依存症患者の姿だった。


「サキ先生……いや、サキ様! どうか、どうかその薬のレシピを……いや、私にこの薬を、これからも定期的に処方していただけないだろうか!」


なりふり構わずすがりついてくるゲルド。

私は脳内のソロバンを猛烈な勢いで弾き、彼の立場と権力をいかにして私のビジネス(と防衛ライン)に組み込むかの計算を完了させていた。


「いいわよ。あんたを特別優良顧客(パトロンその2)として迎えてあげる。ただし、薬代は目玉が飛び出るほど高いわよ? それに、神殿からの営業妨害の件も、あんたの権力で全てもみ消してもらうからね」


絶対的な権力を持つ神殿勢力が、サキの薬(物理)の前に屈した瞬間。

これにて、サキ薬局の防衛網は、政治ユーリス経済カルラ武力ロッツ・バド、そして宗教監査ゲルドという、異世界最強の無敵の布陣を完成させることとなるのである。

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