第29話「莫大な報酬と貴族街への進出」
辺境伯ユーリスの暗殺未遂事件。
無色透明な猛毒を仕込んだ叔父ボラン卿の陰謀は、私が調合した『特製・毒物検知試薬』による呈色反応と、ロッツやバドたち冒険者部隊による『物理的制圧(筋肉)』によって、完膚なきまでに打ち砕かれた。
主君の命と領地の危機を救ったことで、私――サキ薬局の店主である千川咲の名声は、スラムや冒険者たちの間だけでなく、辺境伯領の貴族社会にまで轟くことになったのである。
事件から数日後の、よく晴れた朝。
私はサキ薬局のカウンターの奥で、革袋の中にぎっしりと詰まった金貨を一枚一枚、愛おしそうに磨き上げていた。
「ふふふ……。チャリン、チャリン。ああ、なんていい音なのかしら。これぞ真の癒しのメロディ、私の疲れた魂を浄化する黄金の響きね」
「ボス、朝から気味が悪いぜ。金貨を頬擦りする女なんて、スラムの裏路地でもそうそうお目にかかれねえぞ」
巨大な丸太の乳棒で薬草をすり潰していた獣人のロッツが、呆れたように肩をすくめる。
シエナちゃんも、「お姉ちゃん、お顔がニヤニヤしててちょっと怖いよ」と苦笑いしていた。
「うるさいわね。労働の正当な対価を愛でて何が悪いのよ。でも、これでもまだ『前金』と『手付金』に過ぎないわ。今日はいよいよ、本契約の調印式なんだから」
私が白衣の襟を正した時、店の外に立派な馬車が横付けされた。
中から降りてきたのは、辺境伯の側近である初老の騎士ヴァンだ。彼は私を見るなり、深々と、まるで神でも拝むかのように頭を下げた。
「サキ先生、お迎えに上がりました。ユーリス様が、首を長くして貴女の到着をお待ちです。……そして、本日の『恩賞の授与』と『今後の契約』について、領の財務管理官たちも同席しております」
「財務管理官ね。嫌な予感がするわ。……まあいいわ、ロッツ、メイラ、シエナちゃん! みんなもついてきなさい! 私たちの新しい城を勝ち取りに行くわよ!」
私は、戸惑う従業員たちを馬車に押し込み、意気揚々と貴族街の辺境伯邸へと乗り込んだ。
* * *
辺境伯邸の、最も広く豪華な謁見の間。
レッドカーペットの敷かれた玉座のような椅子に、若き辺境伯ユーリスが腰掛けていた。
彼の顔色は見違えるほどに良く、長期間の毒物摂取による青白さは完全に消え去っている。そして何よりも劇的な変化は、彼の『頭頂部』にあった。
数日前まで不毛の砂漠だったその場所には、今や力強く、黒々とした産毛が密集して生え揃い、まるで青々とした芝生のような美しいグラデーション(スポーツ刈りの初期段階)を形成していたのである。
「おお、サキ先生! よくぞ来てくれた!」
私が入室するなり、ユーリスは玉座から立ち上がり、満面の笑みで両手を広げて歓迎した。
「見よ! 先生の『特製育毛トニック』と、あの地獄のような『超・スパルタ毛根活性化マッサージ』のおかげで、私の領民(毛根)たちは完全なる復活を遂げた! 今朝など、クシで髪を梳かしても一本たりとも抜けなかったのだ! これならば、来月の王都でのお見合いも、自信を持って臨むことができる!」
「それは重畳ね、ユーリス様。毒素の排出も完璧みたいだし、これで私の医療任務はコンプリートってところかしら」
私が鷹揚に頷くと、ユーリスは深く深く、頭を下げた。
「命を救われ、領地の危機を救われ、そして何より私の誇りを救ってくれた。貴殿にはどれだけ感謝してもしきれん。……さて、先日の晩餐会の後、貴殿は『専属の御用達医師にはならない』と言ったな」
「ええ、言ったわ。私は自由な経営者でありたいの」
「うむ。しかし、この私に命の恩人をただの野良薬師として放っておくような薄情な真似はできん。そこでだ」
ユーリスは、傍らに控えていた神経質そうな初老の男――財務管理官――に向かって頷いた。
財務管理官は、うやうやしく羊皮紙の巻物を広げ、咳払いをしてから読み上げ始めた。
「千川咲殿。貴女の多大なる功績を称え、辺境伯ユーリス様より以下の恩賞を授与する! 一、莫大なる感謝の印として、金貨一千枚を贈呈! 二、貴女の卓越した技術を辺境伯家が独占するため、貴女を『辺境伯領・筆頭医療長』に任命する! これにより、貴女には毎月金貨百枚の固定給と、貴族街に豪邸を与え、生涯にわたる身分と生活の保障を約束する!」
その言葉が響き渡った瞬間。
ロッツも、シエナちゃんも、そしてエルフのメイラすらも、驚愕に息を呑んだ。
「き、金貨一千枚!? その上、毎月金貨百枚の固定給にお屋敷だとォ!?」
「サキ先生、やりましたね! これで完全に一生遊んで暮らせる、貴族の仲間入りです!」
「お姉ちゃん、すごーい!」
仲間たちが手放しで大喜びする中。
私だけは、顔からスゥッと表情を消し、氷点下のような冷たい目で財務管理官とユーリスを睨みつけていた。
「…………筆頭医療長。固定給、金貨百枚」
「いかにも! スラムの薬師としては破格中の破格、あり得ないほどの超厚遇である! さあ、謹んでお受けするがよい!」
財務管理官がドヤ顔で言い放った、次の瞬間。
「ふざけるなぁぁぁぁぁぁぁっっ!!!」
私の鼓膜を破らんばかりの絶叫が、謁見の間に響き渡った。
ビクゥッ! と、ユーリスもヴァンも、財務管理官も、私の仲間たちも一斉に肩を震わせる。
「な、ななな、なんという大声を! 喜のあまり乱心したか!」
「違うわよこのタヌキジジイ! なにが超厚遇よ! なにが生活の保障よ! 結局、私を『専属(お抱え)』にして、定額で死ぬまで使い倒そうっていう『ブラック奴隷契約』じゃないのよ!!」
私はズカズカと財務管理官の目の前まで歩み寄り、彼の手から羊皮紙をひったくった。
「いい!? 『筆頭医療長』なんて立派な肩書きがついてるけど、要するに『お屋敷で誰かが病気になったら、夜中だろうが休日だろうが絶対に対応しろ』っていう二十四時間拘束の社畜宣言でしょ! 『毎月固定給』って響きはいいけど、それは裏を返せば『どれだけ残業しても、どれだけ特効薬を開発しても、それ以上のインセンティブ(歩合)は一銭も払いません』っていう搾取のシステムじゃないの!!」
私は、前世のブラック薬局での地獄の日々――「君は今日から薬局長だ(名ばかり管理職)」「固定給を上げるから(みなし残業代込み)」「期待してるよ(過労死ライン突破)」という、悪魔の言葉の数々――を思い出し、全身の毛を逆立てて激怒していた。
「私はね、もう二度と誰かの下で、固定給で飼い殺しにされるのは御免なの! アーリーリタイアして、自分の時間と自由を確保した大金持ちになるために異世界で起業したのよ! なのに、なんでまた一番嫌いな『お抱えの社畜』に戻らなきゃいけないのよ! 冗談じゃないわ!!」
私が羊皮紙をビリビリに破り捨てて床に叩きつけると、財務管理官は顔を真っ赤にして怒鳴り返してきた。
「き、貴様ぁ! 辺境伯様からの類まれなる恩情を無にする気か! たかが平民の小娘が、貴族の庇護と固定給を蹴るなど、正気の沙汰ではない!」
「正気よ! 私は自分の技術の価値を正確に理解してるだけ! ユーリス様! 晩餐会の後、私は条件を出したはずよね!? 私の新しい店舗の営業権と、『永久免税特権』を要求したはずよ!」
私が矛先をユーリスに向けると、ユーリスは気まずそうに目を泳がせた。
「あ、いや……サキ先生。私は約束を守るつもりだったのだ。だが、領地の財政を預かるこいつらが、『一介の商人に永久免税などという特例を認めれば、他の商人から不満が噴出し、税制が崩壊する』と猛反対してきてな……。代わりに、いくらでも金を出すから専属になってくれと……」
「そうよ! ユーリス様は騙されてるのよ!」
私はビシッと財務管理官を指差した。
「こいつらは、私の薬が今後、王国中で莫大な利益を生むって計算してるの。だから、私を『固定給(安い給料)』で囲い込んで、私の薬の権利を辺境伯家のものにしようとしてるのよ! これぞまさしく、現代の悪徳企業がやる『やりがい搾取』と『知財の強奪』よ!」
「なっ……! 貴様、財務管理官たる私を侮辱するか!」
「事実でしょ! 免税特権が認められないなら、この話は白紙よ。金貨一千枚の一時金だけもらって、私は他の領地か王都に店を出すわ。さようなら!」
私がクルッと踵を返し、ロッツたちに「帰るわよ!」と声をかけた、その瞬間。
「ま、待てェェェェェッ!!」
玉座に座っていたユーリスが、悲鳴のような声を上げて飛び出してきた。
彼はレッドカーペットの上を滑り込むようにして私の前に立ち塞がり、ガシッと私の白衣の裾を掴んだ。
「い、行かないでくれサキ先生! 貴殿がいなくなれば、私のこの毛根はどうなるのだ!」
「どうなるって……まあ、育毛トニックの供給が止まれば、数週間で元のツルツルの砂漠に逆戻りでしょうね。血行を強制的にブーストする薬なんだから、継続使用をやめれば元に戻るのは当たり前よ。見合いの席には、立派なハゲ頭で出席することになるわね」
私が冷酷な事実(カガクの真理)を告げると、ユーリスは「ヒィィッ!」と悲鳴を上げ、顔面を蒼白にさせた。
そして、鬼のような形相で財務管理官を振り返った。
「貴様らァ! 私の命と誇りの恩人に対し、なんという無礼を働いたのだ! サキ先生の要求をすべて呑め! 貴族街での店舗営業権、およびサキ薬局の全商品に対する『永久免税特権』を今すぐ認可しろ!!」
「し、しかしユーリス様! そのような特権を平民に与えては、領地の法が……」
「法など私が変える! 貴様らは、私にまたあの屈辱的な抜け毛の日々に戻れと言うのかァァッ! 言うことを聞かぬなら、貴様らを今すぐ解任し、地下牢にぶち込んでやる!!」
若き辺境伯の、毛根への執念から来る狂気的なまでの激怒。
そのあまりの剣幕に、財務管理官たちは「ひぃぃぃっ! も、申し訳ございません! 直ちに、直ちに免税の許可証を発行いたします!」と平伏し、震えながら書類の作成に走り出した。
「……ふふっ。チョロいわね。やっぱり、ハゲの悩み(コンプレックス)は世界最強の交渉カードだわ」
私は内心で悪魔のような笑みを浮かべ、ガッツポーズをした。
これで、サキ薬局は「税金」という資本主義における最大の敵から完全に解放された。売上は百パーセント、すべて私の懐(純利益)に入ってくる。しかも、貴族街という、金に糸目をつけない富裕層が密集するエリアへの出店権つきだ。
「サキ先生……これで、これでご満足いただけただろうか。どうか、これからも私の髪を……いや、私の健康をサポートしていただきたい……っ!」
「ええ、もちろんよ。ユーリス様は私の『最上級の優良顧客』なんだから、末長くお付き合いさせてもらうわ」
私は、涙目ですがりついてくる若き辺境伯に、極上の営業スマイルを向けた。
これにて、貴族からの報酬交渉は完全なる私の大勝利で決着した。固定給の社畜になる危険を回避し、莫大な一時金と、最も実利のある「免税特権」をもぎ取ったのである。
* * *
その日の午後。
私たちは、ユーリスから提供された、貴族街の一等地にある物件の視察に訪れていた。
そこは、スラムのバラック小屋とは比べ物にならない、白亜の石造りでできた美しい三階建ての洋館だった。一階は広々とした店舗スペースになっており、巨大なショーウィンドウには磨き抜かれたガラスがはめ込まれている。二階と三階は居住区画と、広大な作業スペースだ。
「す、すげえ……! お姉ちゃん、ここが私たちの新しいお店なの!? お城みたい!」
「ボス、こんな立派な建物に俺みたいな薄汚い傭兵が出入りしていいのかよ……。なんか、落ち着かなくて胃が痛くなりそうだぜ」
目を輝かせてはしゃぐシエナちゃんと、身の丈に合わない豪邸にビビって腹をさするロッツ。
一方、エルフのメイラは、二階の作業スペースを見るなり、狂気じみた笑みを浮かべていた。
「素晴らしい……! サキ先生、ここなら巨大な蒸留器を何十個も並べられます! 私の魔法のガスバーナーを限界まで拡張し、二十四時間体制でカガクの実験(生産)が可能です! ああ、早く実験がしたい!」
「メイラ、あんた完全に思考が工場長(社畜)になってるわよ。まあ、やる気があるのはいいことだけど」
私は、美しい大理石の床を踏みしめながら、一階の店舗スペースの中央に立った。
「いい、みんな。スラムの店は、バドさんたち冒険者ギルドに任せて『大衆向けの特効薬(薄利多売)』の拠点として残しておくわ。でも、今日からここが、サキ薬局の本拠地よ」
私は、カルラ商会から事前に運び込ませておいた、美しい瑠璃色のガラス瓶をショーケースの上に並べた。
中に入っているのは、スライムの粘液と高濃度ビタミンCを配合した『特製・美容液』、そして、ユーリスの毛根を救った『特製・育毛トニック』だ。
「この店の名前は『サキ薬局・プレミアム』。ターゲットは、金貨を腐るほど持っていて、自分の美しさと若さ(と毛根)のためならいくらでも金を出す、王都の貴族や富裕層よ。スラムの薬の十倍、いや百倍の値段をつけて売るわ」
「ひゃ、百倍ィ!?」
「それでも売れるわ。だって、彼らの悩みを根本から解決できるのは、この世界で私だけなんだから」
私は、キラキラと輝くショーケースの前で、両手を大きく広げた。
「命は平等。でも、美容と若さは『課金制』よ。貴族のドロドロしたコンプレックスを、最高のサービスで吸い上げて、私たちでこの国の富を独占してやるわ!」
無一文でスラムの路地裏からスタートしたブラック薬局の元社畜は、ついに貴族街という最強の狩り場を手に入れた。
豪商カルラの流通網、エルフのメイラの生産力、ロッツの武力、そして私の現代薬学と「免税特権」。
全てを備えた『サキ薬局・プレミアム』が、今ここに堂々たるオープンを迎えたのである。
しかし。
私が「魔法を使わずに奇跡を起こす」という事実が、貴族社会にまで広く知れ渡ったことは、この世界の最大の既得権益層を本気で怒らせることになる。
異世界の医療と宗教を牛耳る絶対権力、『神殿』。
彼らが、自らの権威を脅かす私を「魔女」として排除するため、最強の刺客を送り込んでくるのは、まさにこの直後のことであった。




