第28話「動かぬ証拠と物理的な制裁」
特製・超高濃度エタノールと酸食草の濃縮液が引き起こした、強烈な化学煙幕。
大広間の中央で炸裂したその白煙と刺激臭は、ボランが差し向けてきた近衛の私兵たちを一瞬にして無力化した。涙と鼻水で顔をグシャグシャにし、肺を焼かれるような苦痛に床をのたうち回る男たちの姿は、魔法を使わずとも『カガク』がいかに恐ろしい制圧力を持っているかを、見事なまでに証明していた。
「ゲホッ、ゴホッ! 窓を開けろ! 換気をしろ!」
煙が少しずつ晴れていく中、ハンカチで口元を覆った騎士ヴァンが、正気に戻った他の近衛騎士たちに指示を飛ばす。
豪華なシャンデリアの光が再び大広間を照らし出した時、そこには完全に制圧された私兵たちと、気絶して床に倒れ伏している叔父、ボラン卿の姿があった。
「……終わったか」
上座から一歩も動かず、一部始終を見届けていた若き辺境伯ユーリスが、低く、しかし威厳に満ちた声で呟いた。彼の頭頂部で生き生きとそよぐ黒い産毛も、この完全勝利を祝福しているかのように誇らしげだ。
私はメイド服のフリルについた煤をパンパンと払いながら、深いため息をついた。
「ええ、終わったわ。まさか晩餐会のど真ん中で爆発物を投げる羽目になるなんて、探偵役のシナリオにはなかったんだけどね。まあ、犯人が実力行使に出てきたんだから正当防衛よ。後で清掃代と煙幕の材料費もちゃっかり請求させてもらうけど」
「フッ、構わん。貴殿のその容赦のない『カガク』の力には、もはや感嘆するほかない。……ヴァン! 叔父上を捕縛しろ。地下牢へ連行し、後日厳しい尋問にかける!」
「はっ!」
ヴァンが部下の騎士たちを連れ、床に倒れているボランを縄で縛り上げようと近づいた。
しかし、その時だった。
「ひっ……! 触るな! 私に気安く触るな、下郎どもが!」
気絶していたはずのボランが、突如として身をよじり、ヴァンの手を振り払ってガバッと身を起こしたのだ。
彼は先ほどの煙幕で目を真っ赤に充血させ、髪を振り乱しながらも、狂ったように周囲をギロギロと睨み回した。
「私を誰だと思っている! 辺境伯の正統なる血を引くボランだぞ! 証拠もないのに、このような屈辱的な扱いを受ける筋合いはない!」
往生際が悪い、とはまさにこのことだ。
完全に退路を断たれ、暗殺計画も裏帳簿も暴露されたというのに、ボランの貴族としての肥大化したプライドが、敗北という現実を激しく拒絶していたのだ。
彼は血走った目で私を指差し、唾を飛ばしながら喚き散らし始めた。
「だいたい、さっきから貴様が言っている『カガク』だの『呈色反応』だの、わけのわからん言葉で煙に巻こうとしているが、そんなものは幻だ! ワインが黒く変色したのも、ただの手品! あるいは貴様が仕込んだ安っぽい幻覚魔法の類いに違いない! そうだ、全ては私を陥れるために、この小娘とユーリスが組んで仕組んだ芝居なのだ!!」
あまりの理不尽な言い逃れに、大広間に集まっていた親族や重臣たちは呆気に取られ、シンと静まり返ってしまった。
ロッツが「おいおい、ボスの前でそんな見苦しい言い訳が通じると思ってんのかよ……」と呆れたように頭を掻いている。
「芝居? 手品?」
私は、ボランの狂乱を冷ややかに見つめながら、フッと口角を上げた。
「あんた、まだそんな小学生みたいなシラを切り通せると思ってるの? 裏帳簿っていう物証も、あんたが袖から毒を垂らしたっていう私の目撃証言もあるのよ。それに、さっき自分で短剣を抜いて襲いかかってきたじゃない」
「証言などいくらでも捏造できる! 裏帳簿も偽物だ! 私が短剣を抜いたのは、貴様のような得体の知れない魔女に襲われると身の危険を感じたからだ! そうだ、絶対的な証拠などどこにもない! あの色が変わったワインも、ただの子供騙しの手品だ!!」
貴族特有の詭弁。
法律の隙間を縫うようにして、あくまで「自分は無実であり、陥れられた被害者だ」と主張し続ける。
証拠である毒入りワインも「手品」だと言い張れば、魔法の概念しかないこの世界では、第三者から見てどちらが真実か判断を迷わせることができる。彼なりの、一縷の望みをかけた悪あがきだった。
「……なるほど。どうしてもあの化学反応を手品だと言い張るのね」
私は静かに歩み寄り、先ほどテーブルの上に置いた『ドス黒く変色したワイングラス』を手に取った。
ブクブクと泡を立て、鼻を突くような刺激臭を放つ、致死性のアルカロイド毒が混ざった赤紫色の液体。
私はそれを、喚き散らすボランの目の前に、スッと突きつけた。
「ひっ!?」
ボランが、ビクッと体を震わせて後ずさる。
「じゃあ、このワインが手品で、ただの色水だって言うなら……今ここで、一気飲みしてみなさいよ」
「な、なに……っ!?」
「手品なんだから、飲んでも死なないんでしょ? あんたの言う通り、これがただの幻覚魔法で、私が仕組んだ芝居だっていうなら、あんたはこれを飲んでもピンピンしてるはずよね。ほら、飲んで証明して見せなさいよ。自分の無実をさ!」
私は、極上の、そして悪魔のように冷酷な笑顔を浮かべて、グラスをボランの唇に押し付けんばかりの勢いで迫った。
「の、飲めるわけがないだろう! そんな得体の知れない汚水など!」
「あら、自分がユーリス様に飲ませようとした『特上のワイン』じゃない。遠慮しないでグイッといきなさいよ! ほら、ほら!」
「や、やめろ! 近づけるなァァッ!」
ボランはパニックになり、両手でグラスを必死に押し退けようとする。
当然だ。彼は自分が何を入れたか、一番よく知っている。それがどれほど強烈な毒であり、飲めば数時間後に内臓を溶かされるほどの激痛と共に死に至るかを。
飲めないという事実こそが、彼が暗殺を企てたという何よりの自白(証拠)だった。
「どうしたの? 飲めないの? 手品なんでしょ? ねぇ?」
「ヒィィッ……!! 狂っている、この女は悪魔だ! 狂人だァァッ!」
私の容赦のない理詰めの追及(物理的な圧迫)に、ボランの精神はついに完全に崩壊した。
彼は恐怖のあまり半狂乱となり、這いつくばるようにして大広間の出口へ向かって逃げ出した。
「た、助けてくれぇっ! 私をこんな屋敷から出せ! ここは狂人の巣窟だぁぁっ!」
「ヴァン! 逃がすな!」
「はっ!」
ユーリスの号令で騎士たちが動こうとした、その時。
ドゴォォォォンッ!!!
大広間の重厚な両開きの扉が、外から凄まじい力で蹴り破られ、蝶番をへし折られて内側へ吹き飛んできた。
「どわぁっ!?」
逃げようとしていたボランが、吹き飛んできた扉に跳ね飛ばされ、無様なカエルのように床にペチャッと潰れる。
粉塵が舞う中、扉の向こうから、地鳴りのような足音と共に現れたのは――。
「おうおう! なんだか知らねえが、中が騒がしいと思って踏み込んでみれば……随分と面白いことになってるじゃねえか!」
巨大な戦斧を肩に担ぎ、汗だくの筋肉をテカテカに光らせたベテラン冒険者、バドであった。
その後ろには、スラムでのパンデミック鎮圧で活躍した、数十人の完全武装の冒険者たちが、殺気を放ってズラリと並んでいる。
「バ、バドさん!? なんであんたたちがここにいるのよ!」
私が驚いて声を上げると、バドはガハハと豪快に笑いながら大広間に入ってきた。
「へへっ、サキ先生! 俺たちが先生を一人でこんな薄気味悪い貴族の館に行かせるわけねえだろう! ロッツの野郎が中に入ってる間、俺たち冒険者部隊は、屋敷の外でこっそり待機させてもらってたんだよ!」
「外で待機って……屋敷の警備はどうしたのよ」
「あー、近衛の連中なら、俺たちが『サキ先生の親衛隊だ、通さねえとぶっ飛ばすぞ』って凄んだら、ビビって道を開けちまったぜ!」
バドの言葉に、私は思わず頭を抱えた。
貴族の屋敷の厳重な警備が、ガラの悪い冒険者の集団に顔パスで突破されている。この屋敷のセキュリティはどうなっているんだ。
「で、サキ先生。俺たちの出番はどこだ? 誰をこの戦斧で真っ二つに叩き割ればいい?」
「……ちょうど良かったわ。そこの床で伸びてるタヌキ親父(ボラン卿)が逃げようとしてたところよ。捕まえて、縄でグルグル巻きにしなさい」
私が顎でしゃくると、バドは「おう! 任せとけ!」と獰猛な笑みを浮かべ、気絶寸前のボランの首根っこを片手で軽々と掴み上げた。
「ひぃぃぃっ! や、やめろ、私は貴族だぞ! 触るな下民どもがぁっ!」
「うるせえな! サキ先生の命令だ、おとなしくしねえと両脚の骨を粉々に砕くぞ!」
バドが戦斧の腹でボランの背中をドスッと殴りつけると、ボランは「カハッ……!」と肺の空気を吐き出し、完全に抵抗の意志を喪失した。
そこに、給仕服のロッツもドスドスと歩み寄り、バドと並んでボランを見下ろした。
「おいタヌキ親父。俺のボスの手品から逃げようったって、そうはいかねえぞ。俺たち『サキ薬局・物理的バックアップ部隊』が退路を塞がせてもらったからな」
右に、巨大な戦斧を担いだ筋肉ダルマのベテラン冒険者。
左に、大剣を背負った二メートルの巨漢の獣人。
異世界が誇る、純度百パーセントの『筋肉と暴力の壁』である。
どんな詭弁も、貴族の権力も、言い逃れも、この二人の圧倒的な暴力のプレッシャーの前には、ティッシュペーパーほどの意味も持たなかった。
「あ、ああ……あぁぁぁ……」
ボランは、二人の見下ろす恐ろしい形相に完全に心をへし折られ、そのまま泡を吹いて気を失った。
今度こそ、完全なる決着である。
「……ふぅ。これで一件落着ね」
私は、手に持っていた毒入りワインのグラスを、近くのテーブルにコトリと置いた。
大広間に残された親族や重臣たちは、ボランが冒険者たちに捕縛される様を、ただただ恐怖と畏敬の入り混じった眼差しで見つめることしかできなかった。
魔法も使わず、ただの知恵で完全犯罪を暴き、そしていざという時には最強の暴力(筋肉)で退路を断つ。
サキ薬局の、表と裏の顔を、彼らは骨の髄まで思い知らされたのである。
「サキ先生」
静まり返った大広間の中、若き辺境伯ユーリスが、ゆっくりとした足取りで私の前に歩み寄ってきた。
彼は、気を失ってバドに引きずられていく叔父の姿を冷ややかに一瞥した後、私に向かって、深く、それはもう深く頭を下げた。
「私の命を蝕んでいた毒を特定し、解毒の治療を施してくれたばかりか……このような恐ろしい陰謀までをも、貴殿のその『カガク』の力で見事に暴き出してくれた。辺境伯として、そして一人の人間として、これ以上ないほどの感謝を申し上げる」
「顔を上げてちょうだい、ユーリス様。私は薬剤師として、目の前の患者を病理(毒)から救っただけよ。……それに、依頼された仕事はきっちりこなしたわ」
「うむ。貴殿の働きは、まさに『奇跡』と呼ぶにふさわしい。……ヴァン!」
「はっ!」
ユーリスの呼びかけに応じ、ヴァンが重そうな白木の箱を両手で抱えて持ってきた。
そして、私の目の前でパカッとその箱の蓋を開けた。
「…………っ!」
私は、危うくメイド服のまま歓喜の悲鳴を上げそうになるのを、必死で噛み殺した。
箱の中にぎっしりと敷き詰められていたのは、目も眩むような黄金の輝き。
前金として受け取った金貨五十枚など目じゃない。ざっと見積もっても、その十倍――金貨五百枚はくだらない莫大な富が、そこにあった。
「約束の追加報酬だ。いや、これでもまだ足りないくらいだが、まずは私の誠意として受け取っていただきたい。……そして、サキ先生。貴殿に、もう一つ提案があるのだ」
「提案?」
私が金貨の箱から無理やり視線を引き剥がして尋ねると、ユーリスは真剣な、しかしどこか縋るような熱を帯びた瞳で私を見つめてきた。
「私の命、そして私の『誇り(毛根)』を救ってくれた貴殿のその卓越した手腕。私は、それを独占したい。……サキ先生。どうか、この辺境伯邸の『専属御用達医師』として、私に仕えてはくれないだろうか?」
大広間が、再びざわめきに包まれた。
スラムの怪しげな薬師が、一国を治める辺境伯の専属医師に抜擢される。それは、この世界の常識で言えば、途方もない出世であり、名誉であり、誰もが喉から手が出るほど欲しい絶対的な安定の地位だった。
ヴァンも、「おお、サキ先生! これで貴女も、晴れて我々と同じ辺境伯様のお側仕えに……!」と嬉しそうに目を細めている。
だが。
私は、箱の中の金貨を一瞥し、そしてユーリスの真剣な顔を見つめ返して――。
「……お断りよ」
「えっ?」
ユーリスが、素っ頓狂な声を上げた。
「お断りするわ。私は誰かの下で働く『専属(お抱え)』になる気は、毛頭ないの」
私は、前世のブラック企業でのトラウマ――固定給で無限に残業させられ、自由を奪われた地獄の日々――を思い出し、背筋に冷たいものを感じながらキッパリと拒絶した。
「そ、そんな! なぜだ!? 報酬が足りないというのなら、いくらでも上乗せする! 貴族の身分すら与えてもよいのだぞ!」
「お金や身分の問題じゃないわ。私は『自分の店』を、自分のルールで経営して、自由な大金持ちになりたいの。誰かの命令で動く社畜に戻るくらいなら、スラムで露店をやってる方がマシよ」
私のブレない守銭奴っぷりと、経営者としての強烈な独立心に、ユーリスはポカンと口を開け、ヴァンは言葉を失った。
「でも、ビジネスパートナーとしての関係なら、いくらでも続けてあげるわよ。ユーリス様」
私は、意気消沈する若き辺境伯に、悪魔のように甘い、新たな契約の条件を提示した。
貴族の専属にならずとも、貴族を最大のパトロン(ATM)として搾取し続けるための、最強の解決策。
「専属にはならない。その代わり、この莫大な一時金と……貴族街の一等地に、私の『新しい店舗』を出店する権利。そして、私があんたに卸す『特製育毛トニック』の永久免税特権。これを認めてくれるなら、これからも極上の治療と薬を提供し続けてあげるわ。……どう?」
私の提示した条件は、ユーリスにとって断れるはずのないものだった。
彼が私の薬なしでは、再び毛根の危機に陥ることは火を見るより明らかだからだ。
「……ふっ、ふははははっ!」
ユーリスは、私のあまりのしたたかさに、ついに腹の底から笑い出した。
「負けたよ、サキ先生。貴殿のような恐ろしい商売人を、私の一存で縛り付けようなどと、おこがましい考えだったようだ。……よかろう! その条件、全て呑む! 貴族街での店舗営業権、そして永久免税特権! 私の名において、ここに約束しよう!」
こうして。
暗殺劇の解決という最大の功績を引っ提げ、私は貴族という最強の権力と、貴族街への進出という莫大な権利をもぎ取った。
スラムの路地裏で産声を上げた「サキ薬局」は、ついに貧困層の枠を飛び越え、金貨が雨のように降り注ぐ富裕層のマーケット(プレミアム店舗)へと、その強欲な牙をむき出しにして進出していくのである。




