第25話「異世界初・エナジードリンクの衝撃」
深夜の辺境伯邸への極秘往診が始まってから、およそ二週間の時が経過していた。
私の見立て通り、若き辺境伯ユーリスの体を蝕んでいたのは、呪いでも悪霊でもなく、西国製のティーカップの釉薬に仕込まれていた『鉛とヒ素(重金属)』だった。
私は彼に、重金属を吸着して体外へ排出させるためのキレート剤(特定の薬草成分をブレンドした特製解毒薬)と、大量の水分を毎日投与し続けた。
結果として、解毒治療は劇的な効果を上げていた。
ユーリスの歯茎にあった鉛中毒特有の暗青色の線(バートン線)は薄れ、四六時中彼を苦しめていた激しい胃痛や、手足の痺れは嘘のように消え去ったのである。
「サキ先生……! 見てくれ! 今朝、鏡を見たら……生えている! 私の頭頂部に、愛しき領民(産毛)たちが、確かに息吹を上げているのだ!!」
その日の夜。
いつものように秘密の裏口から寝室を訪れた私を、ユーリスはベッドの上で涙を流しながら出迎えた。
彼は自分の頭頂部を指差し、子供のように無邪気な笑顔を浮かべている。
確かに、毎日私が鬼のような形相でゴリゴリと筋膜を剥がし、血管拡張作用のある劇薬(特製育毛トニック)を塗り込み続けた成果は出ていた。ツルツルに干からびていた砂漠のような頭皮に、うっすらと黒い産毛が密集して生え始めていたのだ。
「ええ、確認したわ。血行が完全に正常化して、毛母細胞が休止期から成長期に移行した証拠ね。このままいけば、来月の王都の令嬢とのお見合いには、見事な短髪(スポーツ刈り)くらいには持ち込めるんじゃないかしら」
「おおおおおっ……! 奇跡だ! サキ先生はやはり女神だった! これで私の誇りは守られたのだ!」
ユーリスは歓喜にむせび泣き、傍らに控えていた初老の騎士ヴァンも「ユーリス様……! 亡き大旦那様も、さぞや天国でお喜びのことでしょう!」と男泣きしている。
命の危機を脱したことよりも、毛根が復活したことに対する喜びの方が圧倒的に大きいという事実に、私は相変わらず深いツッコミを入れたくなったが、グッと堪えた。
患者が喜んでくれるのは良いことだ。何より、彼の機嫌が良ければ良いほど、私への追加報酬(金貨)の額は跳ね上がるのだから。
「まあ、喜ぶのはいいけど、無理は禁物よ。体内の毒素はまだ完全に抜け切ったわけじゃない。それに、長期間ベッドで寝たきりだったせいで、あんたの筋肉はすっかり落ちて、体力はどん底まで低下してるんだからね」
私が冷静に釘を刺すと、ユーリスの顔からスッと笑顔が消え、代わりに深い、絶望的な影が落ちた。
「……分かっている。分かっているのだ、サキ先生。痛みが消え、髪が生えてきたのは喜ばしい。だが……私の体は、鉛のように重いのだ。ベッドから立ち上がろうとするだけで目眩がし、数歩歩いただけで膝が笑う。……これでは、明日の『領地会議』に出席することなど、到底不可能なのだ」
「領地会議?」
「うむ。半年に一度、辺境伯領の主要な街の代官や、軍の小隊長たちが一堂に会し、今後の予算や魔物討伐の計画を決定する、極めて重要な会議だ。本来であれば、私が議長として全てを取り仕切らねばならない」
ユーリスは、ベッドの横に置かれた巨大な執務机を指差した。
そこには、羊皮紙の束が、文字通り『山』のように高く積み上げられていた。
「見よ、あの書類の山を。私が倒れてからの数週間分、決裁を待っている重要書類だ。明日の会議までに、あれら全てに目を通し、辺境伯としての署名と印を押し、今後の指示をまとめ上げねばならない。もしそれができなければ、領地の経済は停滞し、防衛線は崩壊し……最悪の場合、領民たちが飢えることになる」
「なるほどねえ……。お偉いさんはお偉いさんで、激務なのね」
私は山積みの書類を見て、前世のブラック薬局でのレセプト(診療報酬明細書)の月末処理を思い出し、思わず顔をしかめた。
貴族といえば優雅にワインを飲んでいるイメージだったが、真面目な領主というのは、要するに「超巨大企業のワンマン社長兼、全責任を負う社畜」なのだ。ストレスでハゲるのも納得である。
「ユーリス様……。会議の延期を重臣たちに打診しましょう。お体が第一です」
「ならん! ヴァン、お前も知っているだろう。叔父のボランをはじめとする反対派の連中が、私が病に伏せっているのをいいことに、領主の座を虎視眈々と狙っているのだ。ここで私が弱みを見せれば、彼らに付け入る隙を与えることになる。這ってでも会議に出ねば……!」
ユーリスはベッドのふちを掴み、気力を振り絞って立ち上がろうとした。
しかし、長期間の毒物摂取によって極度に衰弱した肉体は、彼の強靭な意志を裏切った。
「ぐっ……! あ、足が……」
ガクンッ、と膝から崩れ落ちそうになるユーリス。
すかさずヴァンが抱きとめるが、若き辺境伯の顔には、完全な無力感と絶望が張り付いていた。
「……くそっ! なぜだ! 痛みはないのに、髪は生えてきたのに! なぜ体に力が入らんのだ! これでは、書類の一枚すらまともに読めないではないか! 私の、辺境伯としての責任が……領民たちの命が……っ!」
涙を流しながら己の不甲斐なさを呪うユーリス。
その悲痛な叫びを聞きながら、私は白衣のポケットに手を突っ込み、深くため息をついた。
「……あんた、本当に真面目で不器用な男ね。前世の私を見てるみたいで、ちょっとだけ同情しちゃうわ」
「サ、サキ先生?」
「ヴァンさん、ユーリス様をベッドに戻してあげて。……いい、辺境伯様。あんたの体はね、毒が抜けてマイナスから『ゼロ』に戻っただけなの。車で言えば、壊れたエンジンを修理した直後。ガソリン(栄養とエネルギー)が空っぽなんだから、走れるわけがないでしょ」
「ガソリン……? よく分からんが、つまり、私は明日の会議には出られないということか……」
「普通に考えればね。でも」
私はニヤリと、悪魔のような、しかし救世主のような不敵な笑みを浮かべた。
「私が誰だか忘れたの? 私は不可能を可能にする、現代薬学の徒よ。……あんたがどうしても、命を削ってでも今日の夜中にその書類の山を片付けて、明日の会議でシャキッとしたいって言うなら……『禁断の秘薬』を出してあげないこともないわよ」
「き、禁断の秘薬だと!?」
ユーリスとヴァンが同時に息を呑む。
背後で控えていたロッツが、「おいおいボス、またとんでもねえ劇薬を飲ませる気かよ……」と引いた顔をしている。
「魔法のポーションみたいに、体力を根本から回復させるものじゃないわ。あくまで、脳を強制的に覚醒させて、肉体の疲労感を完全に麻痺させる『前借り』の薬よ。効果が切れた後、丸一日は死んだように眠りこけることになるけど……それでもいい?」
「構わん! 明日の会議さえ乗り切れば、あとはいくらでも眠る! 頼む、サキ先生! その秘薬を私に!」
ユーリスの悲壮な決意を確認し、私はカバンの中から、一本の特注のガラス瓶を取り出した。
中には、黄金色に輝く、少しとろみのある液体が入っている。
「これはね、異世界初……私の薬局が総力を挙げて開発した、究極の疲労回復(強制覚醒)薬よ。その名も『特製・エナジードリンク』!」
「えなじー・どりんく……? まるで魔術の呪文のような響きだ」
「中身はカガクの結晶よ。南の森で採れる『覚醒の実(コーヒー豆やガラナに酷似したカフェイン含有植物)』から極限まで成分を抽出し、そこに高純度の砂糖、そして酸食草から抽出したビタミン群を限界まで溶かし込んであるわ。さらに……」
私は瓶の蓋を少しだけ緩めた。
プシュッ! という、この世界には存在しない小気味良い音が鳴り、瓶の口から白い炭酸ガスが吹き出した。
私が独自に重曹(炭酸水素ナトリウム)とクエン酸を調合して発生させた、強烈な『炭酸』である。
「な、なんだ!? 瓶の中から、煙と……シュワシュワという音が!」
「細かいことは気にしないで。さあ、炭酸が抜けないうちに、一気に飲み干しなさい! 味わう必要はないわ、喉の奥に流し込むのよ!」
私は驚くユーリスの手に瓶を押し付けた。
ユーリスは恐る恐る、しかし意を決したように瓶を口に運び、黄金色の液体を一気に喉に流し込んだ。
「んぐっ! ぐっ、ごくっ……!!」
ユーリスの喉仏が大きく上下する。
そして、全てを飲み干した直後。
「ごふっ!? げほっ、ごほっ! な、なんだこの飲み物は! 喉の奥で、無数の小さな妖精が弾け飛んでいるような……強烈な刺激! そして、息が詰まるほどの甘さと、目を突き刺すような酸っぱさ、その後に来る微かな苦味……っ!」
初めて『強炭酸のエナジードリンク』を経験した異世界の貴族は、涙目で咳き込みながら、喉を押さえて悶絶した。
当然だ。現代人ですら、初めてエナジードリンクを飲んだ時はそのジャンクな味と炭酸の暴力に驚くものだ。ましてや、ハーブティーやワインしか飲んだことのない貴族の舌には、劇薬にしか感じられなかっただろう。
「サキ先生! ユーリス様に何を飲ませたのですか! 毒では……!」
「ヴァンさん、静かに。五秒待ちなさい。……五、四、三、二、一」
私がカウントダウンを終えた、その瞬間だった。
ユーリスの体が、ビクンッ! と大きく震えた。
うつむいていた彼の顔が、ゆっくりと持ち上がる。
その瞳を見た瞬間、ヴァンもロッツも、思わず息を呑んで後ずさった。
「……あ、ああ……っ」
ユーリスの瞳孔が、極限までカッと見開かれていた。
いわゆる、目が『バキバキ』にキマッている状態である。
彼の体内で、今まさに劇的な化学変化が起きていた。
大量の『糖分』が、空っぽだった筋肉と脳に爆発的なスピードで吸収され、即効性のエネルギー源として全身の細胞を燃え上がらせる。
そして何より、高濃度の『カフェイン』が脳の関門を突破し、疲労を感じさせる物質の受容体を完全にブロック。さらには交感神経を極限まで刺激し、アドレナリンをドバドバと分泌させていた。
「ゆ、ユーリス様……? ご気分は……」
「……力が」
「え?」
「力が…………みなぎってくるぞぉぉぉぉぉぉっ!!!」
ユーリスは、ベッドの毛布を勢いよく蹴り飛ばし、先ほどまで自力で立つことすらできなかったはずの足で、バンッ! と床に力強く降り立った。
「な、なんという事だ! 体の重さが全くない! むしろ、羽が生えたように軽い! 頭の奥を覆っていた靄が完全に吹き飛び、思考が恐ろしいほどの速度で回転しているのがわかるぞ!! これが……これが『えなじー・どりんく』の力か!!」
「ええ、そうよ。あんたの脳は今、疲労っていう概念を完全に忘れてるわ。今のあんたは無敵よ」
私がニヤリと笑うと、ユーリスは目をバキバキにさせたまま、猛然と執務机に向かって突進した。
「ヴァン! 筆を持て! インクを出せ! 決裁印をここに置け! 今すぐ、この忌まわしい書類の山を全て片付けてやる!!」
「は、はいっ! ただちに!」
そこからのユーリスの仕事ぶりは、まさに『悪鬼羅刹』、あるいは『究極の社畜の覚醒』と呼ぶにふさわしい光景だった。
シュバッ! と羊皮紙を手に取り、恐るべき動体視力で内容を数秒で読み込む。
「これは許可!」「これは却下! 予算を三割削って再提出させろ!」「魔物討伐の部隊には追加の支援物資を送れ!」と、的確かつ異常なスピードで指示を飛ばし、次々と羽ペンで署名を書き殴り、決裁印をバンバンと押していく。
「す、すごい……。ユーリス様が、普段の三倍……いや、十倍の速度で書類を処理しておられる……!」
ヴァンが、インク壺を持ちながら信じられないものを見る目で震えている。
「ぼ、ボス……。あの薬、ヤバすぎねえか? 領主様、完全に魔物に憑りつかれたみたいな顔で笑いながら仕事してるぞ……」
ロッツがドン引きして私に耳打ちしてくるが、私はどこ吹く風で肩をすくめた。
「あれがカフェインと糖分の暴力よ。現代の過酷な労働環境(ブラック企業)は、あの魔法の液体なしじゃ回らないんだから。……ふふっ、それにしても見事な働きっぷりね」
私は、狂ったようにペンを走らせるユーリスを見つめながら、頭の中で新たなソロバンを弾き始めていた。
(このエナジードリンク……いけるわね。貴族や役人なんて、どこの世界でも締め切りや激務に追われてる連中ばかり。彼らにこの『前借りの秘薬』を法外な値段で売りつければ、美容液に次ぐ、第二の超巨大な収益の柱になるわ!)
過労で倒れた前世の自分が聞いたら怒り狂うような、非人道的なビジネスモデル。
だが、資本主義とはそういうものだ。需要があるところに、商品を供給する。彼らが自らの意志で命を削って働くと言うのなら、私は喜んでその燃料を売りつけるだけである。
こうして、サキ薬局の秘薬によって覚醒した若き辺境伯は、一晩で数週間分の書類の山を完全に処理し尽くし、翌日の領地会議に『目をバキバキに血走らせ、異常なほどのハイテンションと威圧感』で出席することになる。
その異様なまでの迫力と、淀みない弁舌(カフェインによる多弁)により、反対派の重臣たちは完全に圧倒され、彼が病に伏せっているという噂は完全に払拭されたのだった。
しかし。
ユーリスが表舞台で「完全復活」を遂げたという事実は、彼を毒殺しようとしていた暗殺者(黒幕)に、決定的な焦りをもたらすことになる。
半年かけてジワジワと弱らせていた標的が、突然元気になり、しかも髪の毛まで生え始めているのだ。暗殺者からすれば、計画が全て水の泡になったも同然である。
「……さあ、焦りなさい。そして、尻尾を出しなさい」
会議から戻り、エナジードリンクの反動で泥のように眠るユーリスの寝顔を見下ろしながら、私は次なる一手――犯人を炙り出すための『罠』の準備に取り掛かっていた。
魔法も、呪いも、神の奇跡も存在しない。
あるのはただ、毒を用いた冷徹な殺意と、それをカガクで暴き出す私の探偵劇だけだ。
貴族社会のドロドロとした陰謀を、現代薬学の知識で痛快に粉砕する準備は、すでに整っていた。




