第24話「第一優先任務・毛根防衛戦」
深夜の辺境伯邸、その最も奥まった場所にある豪華な寝室。
本来であれば、暗殺の危機を脱し、体内に蓄積した致死性の毒物(重金属)をいかにして排出するかという、シリアスで緊迫した医療方針の話し合いが行われるべき空間である。
しかし、現実は恐ろしくシュールだった。
「解毒など後回しでよい! それよりも私の髪だ! この死に絶えようとしている毛根たちを、一秒でも早く救い出してくれ!!」
天蓋付きのふかふかなベッドの上で、若き辺境伯ユーリスは、涙と鼻水で顔をグシャグシャにしながら、私の白衣の裾を力強く握りしめて懇願していた。
彼の頭頂部は、過度のストレスと長期間にわたる鉛とヒ素の摂取により、見事なまでの「砂漠化(薄毛)」が進行している。来月に控えた王都の令嬢とのお見合いを前に、彼のプライドと精神状態は完全に崩壊寸前だった。
「……はぁ」
私は、深ーい、深ーいため息をつき、天井の豪華なシャンデリアを見上げた。
医者として、いや薬剤師として、命より髪の毛を優先する患者というのは、控えめに言って「どうかしている」と思う。体内から毒素を抜かなければ、根本的な血行不良は改善しないのだ。
しかし、私は同時に、骨の髄まで資本主義に染まった「経営者」でもあった。
(まあ、いいわ。患者本人がそれを何よりも強く望んでいて、しかも金貨五十枚もの追加オプション料金をポンと払うって言うんだから。要望に応えて利益を最大化するのが、一流のビジネスパーソンってものよ)
私は頭の中のソロバンを弾き終え、極上の、そしてどこかサディスティックな営業スマイルを浮かべてユーリスを見下ろした。
「わかりましたわ、辺境伯様。あんたのその熱意と、金貨五十枚の追加報酬に免じて、第一優先任務を『毛根防衛戦』に切り替えましょう」
「お、おおっ……! サキ先生! 感謝する! これで私の誇りは守られるのだな!」
「ただし」
私は、歓喜に顔をほころばせるユーリスに、冷酷な現実を突きつけた。
「魔法で一瞬にしてバサッと髪が生えるような、ファンタジーな奇跡は期待しないでよね。私がやるのは、あくまで現代薬学の『カガク』に基づいた物理的な治療よ。……いいこと?」
私はカバンから、いくつかの中身の入った小瓶を取り出し、ベッドの脇のサイドテーブルに並べた。
「あんたの毛根が死にかけてる理由は、ストレスと重金属の毒素によって、頭皮の毛細血管が極限まで縮こまり、髪を作るための細胞(毛母細胞)に栄養と酸素がいかなくなってるからよ。畑に水が届かなくて、作物が枯れかけてる状態ね」
「な、なるほど……。では、どうすれば」
「簡単よ。縮こまった血管を、薬の力で『強制的にこじ開ける』の。そして、ガチガチに固まった頭皮の筋膜を、物理的な力で引き剥がして、血の巡りを爆発的にブーストさせるのよ。……ただ、長期間放置された固い畑を耕すんだから、当然、尋常じゃない痛みを伴うわ。地獄を見る覚悟はできてるかしら?」
私の脅し文句に、ユーリスはゴクリと生唾を飲み込んだ。
傍らに立つ初老の騎士ヴァンが、「ユーリス様……やはり、まずは解毒を優先し、お体を休められた方が……」と心配そうに進言する。
「案ずるな、ヴァン。私は辺境の地を治める領主だ。この程度の苦痛、令嬢に鼻で笑われる屈辱に比べれば、そよ風のようなもの! サキ先生、やってくれ! 私の毛根のためならば、いかなる痛みにも耐えてみせる!」
「その意気や良し。じゃあ、早速特効薬の調合に入るわよ」
私は、並べた小瓶から特定の材料をすり鉢に取り出した。
一つ目は、シエナちゃんが森の奥で採取してきた『赤血草』の抽出液。これは本来、凍傷の患者などに塗って血行を促進させるための劇薬だが、その成分には現代医学における最強の育毛成分「ミノキシジル」に酷似した、強力な血管拡張作用が含まれている。
二つ目は、スライムの体液から精製した『高純度冷却ジェル』。これは、血行が急激に良くなることで発生する強烈な痒みと頭皮の炎症を、物理的な冷たさで抑え込むためのものだ。
そして三つ目は、トウガラシに似た香辛料の成分(カプサイシン類似物質)。毛穴に直接的な刺激を与え、眠っている細胞をビンタして叩き起こすための起爆剤である。
「これを、私の【調合】スキルで……こうして、こうよ!」
私はすり鉢の中で三つの成分を混ぜ合わせ、手のひらをかざして淡い光(調合スキル)を放った。
シュウゥゥッ、と微かな煙が上がり、すり鉢の中には、毒々しいほどに鮮やかな赤紫色をした、ドロリとした粘液が完成した。
鼻を近づけると、ツンとした刺激臭と、スライムジェルの清涼感が入り混じった、なんとも言えない薬効の匂いが漂ってくる。
【成分鑑定:サキ特製・超刺激性育毛トニック】
・効能:毛細血管の極限拡張、毛母細胞の強制活性化。
・副作用:塗布直後の強烈な熱感と冷感のパニック、および激しい疼痛。
・注意:心臓の弱い者には使用不可。
「よし、完璧な仕上がりね。異世界初の『カガクの育毛剤』の完成よ」
「おお……! それが、私の髪を蘇らせる魔法の……いや、カガクの薬!」
ユーリスは、その毒々しい色の粘液を、まるで聖杯でも見るかのようにキラキラとした瞳で見つめていた。
私は、自分の手を特製エタノールで念入りに消毒し、ユーリスに向かって顎で指示を出した。
「じゃあユーリス様、ベッドの上にうつ伏せになって。ヴァンさんは、丸めた清潔なタオルか何かを、ユーリス様の口に咥えさせてあげて」
「く、咥えさせる? なぜそのようなことを……?」
「歯を食いしばりすぎて、奥歯が砕けるのを防ぐためよ」
私の何気ない一言に、部屋の温度がスゥッと数度下がったような気がした。
ユーリスの顔が引き攣るが、もはや後戻りはできない。彼は震える体でうつ伏せになり、ヴァンが差し出した分厚い革のベルト(タオルの代わり)を、ギュッと口に咥えた。
「ロッツ。あんたはユーリス様の肩と背中を、上からガッチリと押さえつけなさい。絶対に動かさないようにね」
「お、おう……。なんか、拷問の処刑人になった気分だぜ……」
「失礼ね、私は天使のように優しい薬剤師よ。……いくわよ、辺境伯様。毛根防衛戦、開戦!」
私はすり鉢から特製育毛トニックをたっぷりと両手にすくい取り、ユーリスの薄くなった頭頂部から後頭部にかけて、一気に、そして容赦なくベチャッと塗りたくった。
「んんっ!?」
ユーリスの体が、ビクンッ! と大きく跳ねた。
最初は、スライムジェルの極寒の冷たさが頭皮を襲う。氷水を頭から浴びせられたような、鋭い冷感だ。
しかし、その一秒後。
赤血草の血管拡張成分と、カプサイシン類似物質の強烈な刺激が、毛穴の奥深くへと浸透を開始した。
「んぐぅぅぅぅぅぅぅぅぅッッッ!!!!!????」
ユーリスが、口に咥えた革ベルトを噛み千切らんばかりの勢いで歯を食いしばり、白目を剥いて絶叫(声にならない悲鳴)を上げた。
氷のような冷たさが、一瞬にして『燃え盛る地獄の業火』へと反転したのだ。
眠っていた毛細血管が無理やりこじ開けられ、長年滞っていた血流が、ダムを放流したかのような凄まじい勢いで頭皮に流れ込んでいく。それは、凍りついていた手足をお湯につけた時の「ジンジンとした痛み」の、さらに数十倍の激痛を伴う。
「暴れない! まだ塗っただけよ! 本番はここからなんだから!」
私は、全身の筋肉を硬直させて悶え苦しむユーリスの頭部に、両手の十本の指を深く、鋭く突き立てた。
「あんたの頭皮、ストレスでガチガチに固まって、頭蓋骨にへばりついてるわ! これじゃあ血が巡るわけないじゃない! 筋膜を物理的に剥がして、土壌を柔らかく耕すわよ!」
「ふぐぅぅぅぅっ! ぎぃぃぃぃぃぃぃぃっ!!」
「ほら! 痛いのは効いてる証拠! ここが禿げ上がる原因のツボよ! ゴリゴリゴリッ!」
私は一切の容赦なく、指の腹と関節を使って、ユーリスの頭皮をゴリゴリと力強く揉みほぐし始めた。
前頭部から頭頂部へ。側頭部から後頭部へ。
ただ撫でるようなマッサージではない。固まった筋肉と筋膜の癒着を、物理的な力で強引に引き剥がす「筋膜リリース」の荒療治だ。
ロッツが二メートルの巨体で上から押さえつけていなければ、ユーリスは痛みのあまりベッドから跳ね起き、窓を突き破って逃げ出していただろう。
「ひぃぃぃぃっ! サ、サキ先生! お労しや! 主君があまりにも可哀想です! どうか、どうか手加減を……っ!」
その凄惨な光景(拷問)に、歴戦の騎士であるヴァンが、涙目で私にすがりついてきた。
「手加減したら血行がブーストしないでしょ! これがこの人の望んだ治療なのよ! ユーリス様! 痛いならタップしていいわよ! 見合いを諦めて、一生ツルツルで生きていく覚悟ができたなら、今すぐやめてあげるわ!」
「んぐっ……!!」
私の冷酷な問いかけに、ユーリスは血走った目をカッと見開いた。
額からは脂汗が滝のように流れ落ち、首の血管は破裂しそうなほどに浮き出ている。
しかし、彼は首を横に振った。
そして、口に咥えていた革ベルトをペッと吐き出し、ベッドのシーツを血が滲むほど強く握りしめながら、魂の底からの咆哮を上げたのだ。
「や、めるなァァァァァッ!! 痛い! 痛いが……頭の皮が、燃えるように熱いが! わかるぞ! 死に絶えていた私の毛根に、熱い血潮が流れ込んでくるのがわかるゥゥゥゥッ!!」
「その意気よ! さすがは辺境の地を治める領主様ね! じゃあ、さらに出力を上げるわよ! 第二段階、頭頂部集中タッピング!!」
「おおおおおっ! やれぇぇぇっ! 私の髪のためにィィィィッ!!」
パンパンパンパンッ! と、私の指先がユーリスの頭皮をリズミカルかつ強烈に叩き始める。
深夜の静寂に包まれていたはずの辺境伯邸に、「痛ェェェェッ!」という悲鳴と、「毛根のためにィィィッ!」という狂気じみた雄叫び、そして「サキ先生、もうやめてあげてぇぇっ!」という老騎士の泣き声が、不気味なハーモニーとなって響き渡り続けた。
屋敷の警備に当たっていた近衛騎士たちは、主君の部屋から聞こえてくる断末魔のような叫び声に、「ついに呪いが主君の命を……!」と青ざめながらも、ヴァンの「何があっても絶対に入るな」という厳命を守り、扉の前でガタガタと震えることしかできなかったという。
* * *
「……ふぅ。よし、今日の分の『超・スパルタ毛根活性化プログラム』は終了よ。お疲れ様、辺境伯様」
およそ三十分後。
私がようやく手を止めると、ユーリスは糸の切れた操り人形のように、ベッドの上にドサッと崩れ落ちた。
彼の全身は汗でぐっしょりと濡れ、まるで三日三晩ぶっ続けで魔物と死闘を繰り広げたかのような疲労困憊の様子だった。
「ユ、ユーリス様……! 生きておられますか……!」
ヴァンが慌てて駆け寄り、ハンカチで主君の汗を拭う。
ロッツも「いやぁ、あんたスゲェよ。あのボスの拷問マッサージを三十分も耐え抜くなんて、本物の漢だぜ」と、謎の尊敬の眼差しを向けていた。
「はぁ……はぁ……っ。サ、サキ先生……」
「どう? 頭皮の感覚は」
ユーリスは、震える手でゆっくりと自分の頭頂部に触れた。
先ほどまで青白く、固く干からびていた彼の頭皮は、今は嘘のように柔らかく解れ、特製トニックの効果とマッサージの物理的刺激によって、真っ赤に火照っていた。
そして何より。
「……温かい。いや、熱い……っ。頭のてっぺんから、ドクドクと、力強い脈打ちを感じる……! 私の頭が、生きている……っ!」
ユーリスの目から、再び大粒の涙がこぼれ落ちた。
今度の涙は、絶望の涙ではない。死の淵にあった自分の領民(毛根)たちが、息を吹き返したことを実感した、純粋な歓喜と希望の涙だった。
「魔法のような一瞬の治癒ではない。だが、この確かな熱と痛みこそが、私の体が治ろうとしている証拠なのだな……! 素晴らしい! サキ先生、あなたはやはり、神が遣わした本物の奇跡の薬師だ!」
「ふふっ、褒めても何も出ないわよ。それに、今のマッサージはあくまで『畑を耕して肥料を撒いた』だけ。毛が実際に生えてくるまでには時間がかかるわ。……今日から一ヶ月間、毎日この激痛マッサージに耐えてもらうけど、覚悟はいいわね?」
「無論だ! 見合いの日まで、私の頭を……いや、私の命を、あなたに預けよう!」
完全に私の『カガク(という名の物理的暴力)』の虜になった青年貴族は、ベッドの上で力強く拳を握りしめた。
「さて、それじゃあ第一優先の毛根防衛戦も終わったことだし、本題の『解毒』の方も進めさせてもらうわよ」
私はカバンから、先ほど後回しにした解毒用の機材と薬を取り出した。
体内から重金属を排出させるためには、キレート剤を配合した大量の水分を摂取させ、尿として強制的に流し出すしかない。
「ユーリス様、この『特製・毒素吸着経口補水液(激マズ)』を、毎日三リットル飲んでちょうだい。これを飲まないと、せっかく生えた髪の毛がまた毒のせいで抜け落ちるわよ」
「なっ、三リットル!? ……わ、わかった。毛根のためならば、泥水でも飲んでみせる!」
髪の毛を人質(毛質?)に取られたユーリスは、もはや私の指示に一切逆らえない、完璧で従順な患者と化していた。
こうして、若き辺境伯の『毒素排出』と『超スパルタ育毛』という、異色の同時並行治療がスタートした。
しかし、私がユーリスの命と毛根を救うために屋敷に通い詰めるということは、必然的に『彼を暗殺しようとしている犯人』の目にとまるということでもある。
標的の体調が回復し、さらには(産毛が生えてきて)妙に生き生きとし始めたとなれば、暗殺者が焦って次の手を打ってくるのは明白だった。
「ふふふ……。陰謀劇の黒幕さん、早く尻尾を出さないかしら。私が探偵役までこなして、追加の『特別解決報酬』をふんだくってあげるんだから」
深夜の貴族街からの帰り道、揺れる馬車の中で、私は金貨五十枚の入った皮袋を撫でながら、悪徳商人以上の黒い笑みを浮かべていた。
サキ薬局の貴族街進出計画は、毒と陰謀と、そして無数の産毛と共に、最高にスリリングな展開へと突入していくのであった。




