第23話「それは呪いではなく『重金属』です」
「……よし。前金は確かに受け取ったわ。それじゃあ、早速『本業』の診察に入らせてもらうわよ」
私は金貨五十枚が詰まった重い皮袋をロッツに預け、先ほどまでの「がめつい守銭奴」の顔から、氷のように冷徹な「現役薬剤師」の顔へとスイッチを切り替えた。
天蓋付きの豪華なベッドの上で、若き辺境伯ユーリスは、まだ自分の薄くなった頭頂部をさすりながらシクシクと泣いている。先ほどまでの「命より毛根」という狂気的な嘆きには呆れ果てたが、彼が深刻な体調不良に陥っていることは紛れもない事実だった。
「ヴァンさん、部屋の明かりをもっと明るくして。それから、ユーリス様の顔の近くにランプを持ってきてちょうだい」
「は、はい! 承知いたしました!」
騎士のヴァンが慌ててランプを近づける。オレンジ色の光に照らし出されたユーリスの顔色は、やはり最悪だった。単なる過労やストレスでは説明がつかないほどの、土気色に近い青白さだ。
私は白衣の袖をまくり、ユーリスのベッドの脇に腰を下ろした。
「失礼するわよ、ユーリス様。まずは痛むというお腹の触診から」
私がユーリスの腹部にそっと手を当て、軽く押さえ込むと、彼は「ぐぅっ……!」と顔をしかめて身をよじった。
「胃のあたりから、腸にかけて全体的に硬く張ってるわね。痛みはいつ頃から?」
「……三ヶ月、いや、半年ほど前、か。最初は食後の軽い胃もたれ程度だったのだ。だが、ここ数週間で急激に悪化し、腹の奥を焼け火箸でかき回されるような激痛が、四六時中続くようになった……」
「なるほど。頭痛の方は? それと、他に何か変わった症状はない? 些細なことでもいいから教えてちょうだい」
私の理路整然とした問いかけに、ユーリスは荒い息を吐きながら記憶を辿った。
「頭痛は、頭全体が締め付けられるような、重く鈍い痛みだ。それと……最近、手足の指先が痺れるのだ。剣の稽古をしていても、柄を握る感覚がひどく鈍くて……。ああ、それに……」
「それに?」
「……朝起きると、枕に大量の抜け毛が……っ!」
「あ、うん。毛根の話はさっき散々聞いたからもういいわ。手足の痺れね。ちょっと手を見せて」
私はユーリスの手を取り、その爪の先をじっと観察した。
青白い爪の表面に、かすかに白い横縞(横線)が入っているのが見える。さらに、彼の手首の脈を測りながら、口元を覗き込んだ。
「ユーリス様、大きく口を開けて、『あー』って言って」
「あ、あー……?」
「……ビンゴね」
ランプの光を口腔内に当てて確認した瞬間、私の脳内に走っていたいくつもの推測の糸が、一本の明確な『解答』へと結びついた。
ユーリスの歯茎の縁――歯と歯茎の境目に沿って、不気味な暗青色(あるいは黒灰色)の線が、くっきりと沈着していたのだ。
現代医学の知識を持つ者であれば、この特徴的な症状(兆候)を見て、原因を思い浮かべない者はいない。
歯肉の暗青色の線(バートン線)、手足の末梢神経障害(痺れ)、激しい腹痛(鉛疝痛)、そして脱毛や貧血の症状。
すべてが、教科書に載っている通りの完璧な『症例』だった。
「サ、サキ先生。ユーリス様のご病気は、やはり……呪い、なのでしょうか?」
背後から、ヴァンが震える声で尋ねてきた。
「我が主君は、辺境伯という立場上、他領の貴族や、領内の反抗的な勢力から恨みを買うことも多いのです。一ヶ月前、屋敷の専属魔道士に診せたところ、『これは遠当ての呪術、血をすする悪霊の呪いによるものだ』と……! 神殿の浄化魔法も弾き返されました。やはり、ユーリス様は呪い殺されてしまう運命なのでしょうか……っ!」
初老の騎士が、主君の悲惨な運命を思って顔を覆う。
ベッドの上のユーリスも、「やはり呪いか……私の代で、辺境伯家も終わりか……」と絶望的なため息をついた。
ファンタジー世界における『呪い』。それは、原因不明の難病や奇病に対して、彼らがつける最も便利な「言い訳」だ。魔法が効かないから呪い。治せないから悪霊のせい。
私は、そんな彼らの前近代的なオカルト思考に対し、深ーい、深ーいため息をついた。
「……あのさあ。あんたたち、少しは頭を使いなさいよ。なんでもかんでも魔法や呪いのせいにすればいいってもんじゃないわ」
「な、なに……?」
「悪霊? 遠当ての呪術? 笑わせないで。もし仮にそんな便利な暗殺魔法があるなら、この世界の王族や貴族なんて、とっくの昔に全員呪い殺されて全滅してるわよ」
私は立ち上がり、ベッドを見下ろすようにして腕を組んだ。
「いい、ユーリス様、ヴァンさん。ユーリス様の体を蝕んでいるのは、目に見えない悪霊でも、呪いの魔法でもないわ。もっと物理的で、化学的で、そして圧倒的に『現実的なもの』よ」
「現実的なもの……? それは、一体……」
「『毒』よ」
私がはっきりと断言すると、ヴァンとユーリスは同時に息を呑んだ。
ロッツも「毒!? 暗殺ってことか!?」と大剣の柄に手をかける。
「ば、馬鹿な!」
ヴァンが即座に否定の声を上げた。
「ユーリス様のお食事には、常に二人の毒見役がついているのだぞ! 口に入るものは全て、銀の食器に触れさせ、毒に反応しないか厳重にチェックしている! しかも、これほど長期間にわたって苦しまれているのだ。即効性の毒ならとっくに命を落としているし、毒見役が無事なはずがない!」
「そうよ。だからこれは、一般的な毒(青酸カリやトリカブトみたいな即効性のアルカロイド)じゃないの。毒見役が一口食べた程度じゃ絶対に症状が出ない、そして銀の食器にも反応しない、特殊な毒なのよ」
「そんな都合のいい毒が、この世にあると言うのか!?」
「あるわよ。あんたたちの足元の大地に、ごく当たり前にね」
私は指を一本立てて、彼らに向かって『カガク』の授業を始めた。
「その毒の正体は『重金属』。おそらく『鉛』か、それに『ヒ素』のような鉱物毒がブレンドされたものね」
「じゅうきんぞく? なまり? ひそ? なんだそれは……魔物の名前か?」
「違うわ。土や石の中に含まれている物質(元素)よ。重金属の恐ろしいところはね、一度体内に入ると、汗や尿として外に排出されにくくて、骨や臓器に少しずつ『蓄積』していくことなの」
私はユーリスの歯茎を指差した。
「ユーリス様の歯茎にあった黒い線。あれは『バートン線』って言って、体内に溜まった鉛が硫化鉛になって沈着した、鉛中毒の決定的な証拠よ。手足の痺れは重金属による末梢神経の破壊。激しい腹痛は鉛疝痛。そして……」
私はユーリスの薄くなった頭頂部に視線を移した。
「ヒ素や鉛のような重金属が体内に蓄積すると、髪の毛を作る毛母細胞(ケラチン合成)の働きが極端に阻害されるの。それに加えて、毒素を排出できない内臓の疲労と、原因不明の体調不良からくる極度のストレス。……そりゃあ、毛根も耐えきれずにストライキを起こして、ごっそり抜け落ちるわよ」
「っ!! ま、まさか……私の毛根が死滅しかけているのは、その『じゅうきんぞく』とやらのせいだと言うのか!!」
ユーリスが、これまでで一番大きな声で叫び、ベッドから身を乗り出した。命の危機よりも毛根の危機の方が、彼の理解力と感情を何倍も刺激するらしい。
「そういうこと。半年ほど前から、ほんの微量ずつ……毒見役が一口食べても絶対に死なない、そして味も匂いもしない極微量の重金属を、毎日毎日、継続的に摂取させられ続けてきたの。それが体内に溜まりに溜まって、今、致死量の一歩手前で『慢性中毒』として症状が爆発してるってわけ」
「……」
私の論理的で、一切の隙がない科学的な診断の前に、ヴァンもユーリスも完全に言葉を失っていた。
魔法の探知にも引っかからず、銀の食器も変色させない。ただの石や土の成分(鉱物)を、数ヶ月単位で微量ずつ摂取させ、確実に標的の体を内側から破壊していく。
ファンタジー世界の住人にとって、それはいかなる呪術よりも恐ろしく、おぞましい『暗殺のロジック』だった。
「サ、サキ先生……」
ヴァンが、顔面を蒼白にして私にすがりついてきた。
「あ、あなたの言う通りだとするならば……ユーリス様は、今この瞬間も、屋敷のどこかに潜む暗殺者によって、毒を盛られ続けているということになります……! し、しかし、一体どうやって!? 食事は毒見をしているのですぞ!」
「そこがミソね」
私は腕を組み、名探偵さながらに思考を巡らせた。
「毒見役がいて、しかも半年間もバレずに毒を盛る。料理の鍋全体に毒を入れたら、毒見役も一緒に中毒症状を起こすはずよ。でも、毒見役はピンピンしてるんでしょ? なら、答えは一つしかないわ」
「一つ、とは……?」
「『ユーリス様だけが、直接口をつけるもの』。しかも、毎日欠かさず、習慣的に使っているものに毒が仕込まれているのよ」
私はユーリスを見つめた。
「ユーリス様。あんた、毎日必ず口にしているもの……それも、他の誰も使わない、あんた専用の器やコップで飲んでいるものはないかしら? お酒とか、お茶とか」
「私専用のもの……?」
ユーリスは痛む頭を押さえながら、記憶を辿った。
「食事は日によって違うが……ああ、一つだけある。私は毎晩、就寝前に執務室で『安眠のハーブティー』を飲むのが習慣だ。その時使う茶器は、半年前に叔父のボランから『辺境伯就任の祝い』として贈られた、西の国で焼かれたという大変高価な美しい陶器のカップで……」
「……それよ!!」
私はバンッと手を叩き、ヴァンに向かって指示を飛ばした。
「ヴァンさん! 今すぐその茶器をここに持ってきなさい! 絶対に素手で内側を触らないようにね!」
「は、はいっ!」
ヴァンが弾かれたように部屋を飛び出していく。
数分後、彼が布に包んで慎重に持ち込んできたのは、見事な装飾が施された、艶やかな乳白色のティーカップだった。表面には美しい花鳥の絵が描かれ、光を反射してガラスのように滑らかに輝いている。
いかにも高価な美術品といった趣だが、私にはその『不自然な艶』が何によるものか、見当がついていた。
「サキ先生、これです。ユーリス様は、このカップを大変お気に召して、毎晩これで熱いお茶を……」
私は布越しにカップを受け取り、ランプの光の下でじっと見つめた。
そして、脳内の【成分鑑定】スキルを、カップの内側の『釉薬(ゆうやく:陶器の表面を覆うガラス質の薬)』にフォーカスして発動させた。
【成分鑑定:西国製・陶器のティーカップ】
・基材:一般的な陶土。
・表面塗料(釉薬):高濃度の『酸化鉛(PbO)』および微量の『亜ヒ酸』を含む特殊な鉛釉。
・状態:酸性度の高い熱湯(ハーブティー等)を注ぐことで、釉薬の表面から鉛とヒ素の成分が微量ずつ溶け出す構造。
・分析結果:長期使用による意図的な慢性重金属中毒を誘発するための、凶悪な暗殺用茶器。
「……やっぱりね」
私は冷ややかな声で呟き、カップをテーブルの上にコトリと置いた。
そして、固唾を飲んで見守るヴァンとユーリスに向かって、決定的な事実を突きつけた。
「犯人は、このカップそのものよ。正確に言えば、このカップの表面に塗られている『ツヤ出しの薬(釉薬)』の中に、大量の鉛とヒ素っていう重金属が練り込まれてるの」
「か、カップそのものが、毒だと!?」
「ええ。普段はただの陶器よ。でも、そこに『熱いお茶』、特に酸味のあるハーブティーなんかを注ぐと、化学反応で表面の毒がほんの微量だけお茶の中に溶け出すように作られてるわ。一口飲んでも味は変わらないし、絶対に死なない。でも、これを毎晩、半年間も使い続ければ……」
「私は、毎晩自ら、叔父の贈ってくれたカップで毒を飲み続けていたというのか……っ!」
ユーリスが、恐怖と絶望、そして近親者からの裏切りに気づき、ワナワナと唇を震わせた。
魔法を使わず、毒見役もすり抜ける、完璧な暗殺計画。
ファンタジー世界の「呪い」という曖昧な概念を、物理的な「成分分析」によって完膚なきまでに暴き出した瞬間だった。
「おのれ、ボラン卿……! 先代が亡くなられてから、領主の座を狙って不穏な動きを見せていたのは知っていたが、まさかこれほど卑劣な手段でユーリス様を……!」
ヴァンが怒りのあまり、腰の剣の柄をギリィッと強く握りしめる。
ロッツも「とんでもねえ身内のドロドロだな。俺たち傭兵の殺し合いの方がよっぽど健全だぜ」とドン引きしていた。
「まあ、犯人が分かったんなら、あとはあんたたち貴族の仕事よ。兵士を送って捕まえるなり、斬り捨てるなり好きにしなさい。私の仕事はあくまで『治療』だからね」
私はカバンから、いくつかの中和剤や、毒素を吸着して排出させるための薬草(現代でいうキレート剤の代わりになる成分)を取り出し始めた。
「さて、原因物質(重金属)の摂取はこれでストップできたわ。あとは、ユーリス様の体内に蓄積した毒素を、点滴(経口補水液の応用)と吸着剤で強制的に尿として排出させる『解毒治療』を開始するわよ。完全に毒が抜けるまで数週間はかかるけど、命の別状はなくなったと思っていいわ」
私がテキパキと治療の準備を進めていると、ベッドの上のユーリスが、突如として鬼気迫る表情で私に詰め寄ってきた。
「ま、待て! サキ先生! 命が助かるのは分かった! 感謝する! しかし!」
「なによ。まだどこか痛むの?」
「解毒治療など後回しでいい! それよりも、今すぐ! 今すぐ私の毛根を! あの忌まわしい毒によって死に絶えようとしている私の領民(髪の毛)を蘇らせる治療を、第一優先で開始してくれぇぇぇっ!!」
「……はあ?」
命の危機を脱したと分かった途端、若き辺境伯の関心は、自らを暗殺しようとした叔父への怒りでもなく、体内の毒素でもなく、完全に『頭頂部の砂漠化阻止』へと振り切れていた。
「言ったはずだ! 来月には王都の令嬢との見合いが控えているのだ! 解毒に数週間もかけていては、私の髪が、私の誇りが全滅してしまう! 毒など気合で耐える! だから、まずは育毛だ! 育毛を最優先で頼む!!」
「ユーリス様! いくら何でもお体が持ちませぬ! まずは解毒を!」
「黙れヴァン! お前のようにフサフサな者には、この悲しみが分からんのだぁっ!」
ベッドの上で繰り広げられる、主君と騎士の不毛(文字通り)な言い争い。
私は、手に持っていた解毒剤の瓶をそっとカバンに戻し、代わりに、スライムの冷却ジェルと血行促進作用のある劇薬(ミノキシジル類似成分)が入った小瓶を取り出した。
「……ふふっ。いいわよ、辺境伯様。患者(お客様)の強い要望とあらば、お応えするのが優秀な医療従事者ってものよ」
私は極上の、そしてどこかサディスティックな営業スマイルを浮かべた。
「じゃあ、解毒治療と並行して、異世界初の『超・スパルタ毛根活性化プログラム』を急遽開始させてもらうわ。ただし、毛母細胞を強制的に叩き起こすんだから、頭皮が燃えるように熱くなるし、死ぬほど痛いわよ。……見合いのためなら、当然耐えられるわよね?」
「の、望むところだ……! 毛根のためならば、私は地獄の業火にも耐えてみせるッ!!」
悲壮な覚悟を決めた青年貴族。
かくして、暗殺者の罠を物理的かつ科学的なアプローチでドライに解決した私は、そのまま深夜の貴族の館で、第一優先任務である『若き辺境伯の毛根防衛戦』という、あまりにもシュールな戦いへと突入していくのであった。




