第22話「若き辺境伯の悲痛な叫び」
スラムの凸凹な泥道から、綺麗に舗装された貴族街の石畳へと変わった瞬間、馬車の揺れはピタリと収まった。
窓の外には、等間隔に配置された魔石の街灯が淡い光を放ち、手入れの行き届いた街路樹が影を落としている。つい先ほどまで私たちがいた、悪臭と貧困にまみれたスラムとは、文字通り「住む世界が違う」空間だった。
「……すげえな。こんな夜中だってのに、街灯が点きっぱなしだ。スラムの連中が見たら、魔石を引っこ抜いて売り飛ばすだろうぜ」
向かいの席に座る獣人のロッツが、窓の外を覗き込みながら落ち着かない様子で尻尾を揺らしていた。二メートルの巨体は、貴族の立派な馬車の中にあってもひどく窮屈そうだ。彼の膝の上には、私が指示した医療器具や薬草ペースト、そして特製エタノールがぎっしりと詰まった巨大な往診用カバンが置かれている。
「ロッツ、あんまりキョロキョロしないの。田舎者丸出しよ。私たちは今、スラムの怪しい露店商じゃなくて、辺境伯様に招かれた『超一流の専属医師(臨時)』なんだから。堂々としてなさい」
「む、無理言うなよボス……。俺はただの傭兵だぞ。貴族の館なんて、警備の騎士に見つかったら即座に串刺しにされるような場所に、正面から入っていくなんて……胃が、また胃が痛くなってきた……」
ロッツが大きな手で自分の腹をさする。パンデミックの鎮圧やチンピラ相手の乱闘では頼りになる巨漢だが、権力という目に見えない圧力にはめっぽう弱いらしい。
私は呆れつつも、白衣のポケットから乳白色の丸薬(特製胃腸薬)を取り出し、彼に放り投げた。
「ほら、これ飲んで落ち着きなさい。いい? 私たちが相手にするのは、魔物でも神殿の神官でもない。ただの『お金をたくさん持っている患者』よ。相手の身分がどれだけ高かろうと、人間の体の構造は同じ。痛いところがあれば泣くし、病気になれば死ぬ。だから、医療従事者である私たちが一番偉いの。何一つ怯む必要はないわ」
私の言葉に、ロッツは丸薬を水なしで飲み込みながら、ゴクリと喉を鳴らした。
「そ、そういうもんか……? ボスのその謎の自信、たまに恐ろしくなるぜ」
「自信じゃないわ。真理よ」
私は懐にしまった金貨五十枚が入った皮袋の重みを確かめ、フッと口角を上げた。
前金だけで一千万円。この世界の貨幣価値で言えば、スラムの住人が一生働いても手に入らないような大金だ。それをポンと出せる貴族という存在は、私にとって恐怖の対象ではなく、歩く金脈(巨大なATM)でしかない。
やがて馬車は、貴族街のさらに奥、小高い丘の上に建つ巨大な屋敷の前で静かに停車した。
辺境伯の居城。外壁は分厚い石造りで、門の前には全身を鋼の鎧で固めた近衛騎士たちが、松明を掲げてズラリと立ち並んでいる。完全な厳戒態勢だ。
馬車の扉が開き、案内役の初老の騎士ヴァンが私たちを先導する。
「サキ先生、こちらへ。屋敷の者には極秘で通してあるが、足音は忍ばせていただきたい」
「ええ、わかってるわ」
屋敷の中に足を踏み入れると、スラムでは嗅ぐことのない、甘く重たい香の匂いが鼻をついた。
床には足音が全く鳴らないほど分厚い絨毯が敷き詰められ、壁には見事なタペストリーや絵画が飾られている。だが、そんな豪華絢爛な内装とは裏腹に、屋敷の空気はひどく淀み、張り詰めた緊張感と、どこか陰鬱な気配に支配されていた。
(……香の匂いが強すぎるわね。これじゃあ、頭痛持ちの患者には逆効果よ。それに換気も不十分。貴族の館ってのは、どこの世界でも見栄えばかりで衛生観念や環境工学がなってないんだから)
私は薬剤師としての冷静な視点で屋敷の環境をチェックしながら、ヴァンの背中を追って長い廊下を進んだ。
やがて、最も奥まった場所にある、重厚なオーク材の扉の前に到着した。扉の両脇には、特に体格の良い騎士が二人、彫像のように直立して警護に当たっている。
「ユーリス様、ヴァンにございます。……スラムより、噂の薬師を連れて参りました」
ヴァンが静かに声をかけると、扉の向こうから、ひどくかすれ、苦痛に満ちた若い男の声が返ってきた。
「……入れ」
ヴァンが扉を開ける。
広大な寝室の中央に置かれた、天蓋付きの巨大なベッド。その上に、何重にも毛布を被り、身を縮こまらせている一人の青年がいた。
彼が、この広大な辺境の地を治める若き領主、辺境伯ユーリスだった。
年齢は二十代前半といったところだろうか。本来であれば、若さと活力に満ち溢れ、領民を導く覇気に満ちているはずの年代だ。
しかし、ランプの微かな明かりに照らされた彼の顔は、まるで数日間太陽の光を浴びていない亡者のように青白く、目の下には真っ黒なクマが刻まれていた。頬はこけ、脂汗が額にべったりと浮かんでいる。
「ユーリス様、お加減はいかがですか」
「……最悪だ、ヴァン。腹の奥が焼けるように痛み、頭の中では鐘が鳴り響いているようにガンガンと痛む。一睡もできん……」
ユーリスは荒い息を吐きながら、ベッドの傍らに立った私とロッツに目を向けた。
ロッツの巨体に一瞬ビクッとした後、その視線は私の顔で止まり、信じられないというように眉をひそめた。
「ヴァン……。この小娘が、お前が言っていた『奇跡の薬師』だとでも言うのか? 冗談はやめろ。ただの子供ではないか。神殿の高位神官ですら匙を投げた私の病を、こんなスラムの小娘が治せるわけがないだろう……!」
苦痛からくる苛立ちもあってか、ユーリスは吐き捨てるように私を侮蔑した。
ロッツが「なっ……!」と怒りかけるが、私はそれを手で制し、全く動じることなくベッドの脇まで進み出た。
「子供扱いはお断りよ、辺境伯様。それに、神殿の神官が治せなかったからって、私が治せない理由にはならないわ。あいつらは祈ることしかできないけど、私は『原因を特定して排除する』ことができる。それが医療よ」
「なんだと……? 貴様、辺境伯である私に向かってその口の利き方は……」
「患者と医者の関係に、身分の上下はないわ。今、あんたは領主じゃなくて、ただの『一人の哀れな病人』。そして私は、あんたを苦痛から解放できる唯一の存在。……違うかしら?」
私の放った氷のように冷たく、論理的で、有無を言わさぬ圧力に、ユーリスは一瞬言葉を失った。
横にいたヴァンが、慌ててとりなすように割って入る。
「ユーリス様! 彼女の態度は不遜に見えますが、腕は本物です。事実、スラムの奇病をたった一晩で鎮圧したのは彼女の薬なのです。どうか、一度だけ診察をお受けください!」
「……っ、ふん。よかろう。だが、もし私の痛みを少しでも和らげることができなかったら、不敬罪で地下牢に放り込んでやるからな……!」
虚勢を張るユーリスを見下ろしながら、私は内心で(はいはい、威勢がいいのは結構なことね)と毒づきつつ、さっそく診察(成分鑑定の準備)に入った。
「じゃあ、失礼するわよ。まずは脈と、顔色から……」
私がユーリスの腕を取り、手首の脈を測ろうとした、その瞬間だった。
「待て!!」
ユーリスが、腹の痛みを堪えるようにしてガバッと身を起こし、私の手を激しく振り払った。
「きゃっ! なによ、いきなり」
「違う! 腹の痛みも、頭痛も、もはやどうでもいい! それよりも……それよりも、先になんとかしてほしい『最優先事項』があるのだ!!」
「はあ? 最優先事項? 命に関わる内臓の痛みより優先するものなんて……」
私の呆れた視線の前で、ユーリスは震える両手を頭に伸ばし、被っていた絹のナイトキャップを、ゆっくりと、悲壮な決意を込めて取り外した。
その下から現れたものを目にした瞬間。
「…………あっ」
私の背後にいたロッツが、思わずといった様子で、短く、ひどく間の抜けた声を漏らした。
私も、一瞬自分の目を疑い、言葉を失ってしまった。
若き辺境伯、ユーリス(二十代前半)。
端正な顔立ちの彼の頭頂部は――見事なまでに、そして痛々しいほどに『砂漠化』が進行していたのである。
前頭部から頭頂部にかけて、髪の毛が極端に細く、弱々しくなり、地肌がくっきりと透けて見えている。両サイドと後頭部には髪が残っているものの、それがかえって頭頂部の寂しさを強調してしまうという、成人男性にとって最も残酷なグラデーションが形成されていた。
現代医学の言葉で言えば、典型的な『AGA(男性型脱毛症)』、あるいは極度のストレスによる急激な『休止期脱毛症』の併発状態である。
「見よ……! この無惨な姿を……っ!」
ユーリスは、抜け落ちていく細い髪の毛を指先でそっと撫でながら、大粒の涙をポロポロとこぼし始めた。
「私はまだ二十代だぞ!? それなのに、父上が急死して領地を継いでからというもの、重臣たちの権力争いの仲裁、隣国との国境問題、度重なる凶作……! 毎日毎日、胃に穴が空くようなストレスの連続だった! その結果がこれだ! 毎朝枕を見るたびに、私の抜け毛が……私の貴重な領民(毛根)たちが、大量に死に絶えているのだ!!」
「は、はぁ……」
「命の危機などどうでもいい! 私は来月、王都の有力貴族の令嬢と『見合い』を控えているのだ! もし、この頭のまま見合いの席に出れば、令嬢には鼻で笑われ、破談になり、我が辺境伯家の名誉は地に堕ちる! それだけは、それだけは絶対に避けねばならんのだぁぁぁぁっ!!」
ベッドの上で、頭を抱えて号泣する若き領主。
そのあまりの悲痛な叫びに、屈強な近衛騎士であるヴァンすらも、いたたまれないように目を逸らし、ハンカチで目頭を押さえていた。
ロッツに至っては、「ボス……なんか、見てらんねえぜ。魔物に腕を食われるより残酷な現実ってあるんだな……」と同情のあまり涙ぐんでいる。
(……いやいやいや)
私は、感動的な主従の絆(?)を見せつけられながら、内心で激しいツッコミを入れていた。
命より毛根を優先するってどういう神経してるのよ。毒物か何かのせいで腹痛と頭痛が起きてるかもしれないのに、お見合いのために髪を生やせって、いくらなんでも優先順位がおかしいでしょ!
「……あのさ。神殿の高位神官を呼んだって言ってたわよね? あの連中の回復魔法なら、傷が一瞬で治るんだから、毛根くらいバッと蘇らせるんじゃないの?」
私が素朴な疑問をぶつけると、ユーリスはギリッと歯を食いしばり、悔しそうにベッドのシーツを握りしめた。
「……それが、ダメだったのだ。神官どもは私に高位のヒールをかけ、『これで傷も病も全快です』とドヤ顔で言い放った。確かに、その瞬間だけは胃の痛みは消えた。だが! 髪は一本たりとも生えてこなかったのだ!!」
「え?」
「神官どもはこう言った! 『辺境伯様、魔法は怪我や病気を治す奇跡ですが、自然な老い、あるいは肉体の本来のサイクルによるものは治療できません。つまり、あなたのその頭は病気ではなく、健康な状態なのです』……と!!」
「ぶっ!」
私は思わず、吹き出しそうになるのを必死で堪えた。
神官たち、無駄に真理を突いている。
そう、その通りなのだ。魔法というのは、細胞が「本来あるべき状態」から外れた傷や病気を元に戻す力だ。
しかし、AGAやストレスによる脱毛は、体が「生命維持に直結しない毛髪への栄養供給を後回しにする」という、ある意味で正常な生理的防衛反応、あるいは遺伝的なプログラム(サイクル)の進行に過ぎない。
毛根が死んだわけではなく、「休止期」に入って眠っているだけ。魔法から見れば、「ツルツルだけど、炎症も傷もない健康な皮膚」として認識されてしまい、治癒の対象にならないのだ。ファンタジーの魔法の、思わぬ致命的弱点である。
「神に見捨てられたこの頭を……! ああ、もう私は終わりだ! 辺境伯の地位など捨てて、森の奥で隠遁生活を送るしかない……っ!」
「ユーリス様! そのような弱気なことを仰らないでください! このヴァンが、必ずや見事なカツラを職人に作らせますゆえ……!」
「カツラなどですぐにバレるわ! 私は自分の髪が欲しいのだぁぁっ!」
絶望の淵で泣き叫ぶ青年貴族と、必死に慰める初老の騎士。
そんな、傍から見ればただのコントにしか見えないシュールな光景を前にして、私は……。
私の脳内のソロバンは、かつてないほどの激しい音を立てて、弾きまくられていた。
(……きた!! これよ!! これぞ究極の『ブルーオーシャン』!!)
私は、歓喜に震える体を抑え込むのに必死だった。
前世の現代日本において、AGA治療市場がどれほどの規模を持っていたか。男性にとって、薄毛の悩みは文字通り「金に糸目をつけない」底なしの欲望の沼である。
魔法が効かない。神殿がお手上げ。
つまり、この異世界において、毛根を復活させることができるのは、現代薬学の知識を持ち、『血行促進』と『毛母細胞の活性化』を化学的なアプローチで引き起こすことができる【私ただ一人】ということになる。
貴族の命を救うだけでも莫大な金になるが、貴族の『毛根』を救えば、彼は一生私に頭が上がらないパトロン(ATM)になる。育毛剤は継続して使い続けなければならない(定期購入・サブスクリプションの完成)からだ。
これ以上の優良顧客が、この世界のどこにいるだろうか!
「……ふふっ。あははははっ!」
私が突然、低く笑い出したことで、号泣していたユーリスとヴァンがピタリと動きを止めた。
「な、何がおかしい! 人の悲惨な姿を見て笑うとは、貴様、やはりただの不敬な……!」
「ごめんなさいね。あんまりにも絶望してるから、つい笑っちゃったのよ」
私は白衣の裾を翻し、一歩前に出て、自信に満ちた極上の笑みをユーリスに向けた。
「いい? 辺境伯様。神官の言う通り、あんたの毛根は死んでないわ。ただ、極度のストレスと血行不良で、毛を作るための工場が『長期休業』に入ってるだけなの。魔法じゃ工場は再稼働できない。でも、私の『カガク』の力で、外側から血流を爆発的にブーストして、内側から栄養を強制的に叩き込めば、あんたの領民(毛根)たちは必ず目を覚ますわ!」
「なっ……!? ま、誠か!? 本当に、私の髪は蘇るというのか!?」
ユーリスが、すがりつくような、まるで女神を見るような目で私を見上げた。
「ええ。現代薬学の力を持ってすれば、産毛を生やして見合いの席を乗り切るくらい、どうってことないわ。私が、あんたの毛根を防衛してあげる。もちろん……」
私は親指と人差し指をこすり合わせる、世界共通の「お金」のジェスチャーをした。
「特別注文の『特製育毛トニック』と、毎日の『毛根活性化マッサージ(激痛)』。命の治療費とは別に、育毛オプションとして【金貨五十枚】を上乗せしてもらうけど。いいわね?」
「は、払う!! 金貨五十枚だろうが百枚だろうが、領地の予算を削ってでも払う! だから、頼む……私の、私の髪を救ってくれぇぇぇっ!!」
完全にプライドを捨て去り、私の白衣の裾にしがみついて泣き崩れる若き辺境伯。
ヴァンも、「おおおっ、サキ先生! 後生です、主君の髪を!」と一緒に拝み倒してくる。
「交渉成立ね。ロッツ! カバンの中から、血行促進作用のある薬草と、スライムの冷却ジェルを出して! 急遽、第一優先任務を『毛根防衛戦』に切り替えるわよ!」
「お、おう! なんかよくわからねえが、命より髪の毛の方が大事ってことだな!」
私はニヤリと笑いながら、育毛トニックの調合準備に入った。
もちろん、彼の胃痛と頭痛がただのストレスによるものだとは思っていない。この屋敷の空気、彼の顔色、そして急激な体調の悪化。私の【成分鑑定】は、すでに別の『致命的な原因』の存在を疑い始めていた。
だが、患者のモチベーション(毛根への執着)を高めることは、治療において非常に重要なファクターだ。
まずは育毛という目先の希望を与え、その裏で、彼を蝕む『暗殺者の猛毒』をドライに、かつ完璧に排除してやる。
貴族のドロドロとした陰謀劇すらも、私の金儲けの絶好のスパイスに変えてみせる。
サキ薬局・深夜の特別出張サービス、真の治療が、今まさに幕を開けたのである。




