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第21話「深夜の極秘依頼と特別割増料金」

スラムを恐怖のどん底に陥れた大規模な細菌性パンデミック(集団食中毒)を見事に鎮圧してから、数週間の時が流れた。

サキ薬局の日常は、ある意味で以前よりもずっと平穏で、そして圧倒的に潤っていた。

悪徳商人ギドロからふんだくった莫大な損害賠償金(慰謝料込み)は、そのまま店の設備投資へと回された。木造だった壁の一部は石造りに補強され、防犯対策も万全。店内にはカルラ商会から定期的に届けられる最高品質の薬草やガラス瓶が整然と並び、クリーンルームの機材も現代の研究所に勝るとも劣らないレベルまで充実してきている。


そして何より、私の最大の野心作である『特製・高濃度ビタミンC美容液』が、カルラ商会の流通網に乗って王都の貴族社会で爆発的なヒットを記録していたのだ。

なんでも、王都の奥様方は「一晩で肌が十歳若返る幻の霊薬」として、金貨を惜しげもなく積んで奪い合っているらしい。

おかげで、私の手元にはカルラ商会から送られてくる利益の配分(六対四の四割)だけで、毎日信じられない量の金貨が転がり込んでくるようになっていた。


「ふふふ……うふふふふっ……」


その日の夜。

営業を終え、シャッター代わりの分厚い木の扉を閉めた店内で、私はカウンターの上に積み上げた金貨の山をうっとりと見つめていた。

ランプの微かな明かりを反射して、黄金色の輝きが私の顔を照らしている。この硬貨がぶつかり合うチャリン、という音こそが、私にとっての世界で一番美しい子守唄だ。


「……ボス、また金貨数えてニヤニヤしてんのか。そろそろヨダレが垂れそうだぜ」


巨大な丸太の乳棒を片付けながら、ロッツが呆れたようにため息をついた。

彼の横では、シエナちゃんが丁寧に床のモップがけをしてくれている。


「うるさいわね。労働の正当な対価を数えて何が悪いの。前世じゃ、こんなに報われることなんて一度もなかったんだから」

「サキ先生、あまり金銭に執着するのは下品ですよ。カガクの探求者たるもの、物質的な欲求よりも真理の追求に重きを置くべきです」


クリーンルームから出てきたエルフの魔法使いメイラが、涼しい顔で説教を垂れてくる。彼女は今日も一日中、魔法のガスバーナーと純水器として酷使されたはずだが、すっかり社畜の喜びに目覚めたのか、疲れた顔一つ見せずに「次の蒸留実験のレシピを考えていました」と生き生きとしている。


「あんたみたいに数百年の寿命があって、霞を食べて生きていけるエルフと一緒にしないでよね。私は人間の寿命の中で、大金持ちになってアーリーリタイアするっていう明確な目標があるのよ。……まあ、薄利多売の医療インフラだけじゃなく、高付加価値の美容液ビジネスが軌道に乗ったのは大きいわね」


私が金貨を革袋にしまい、金庫(厳重な鍵を三つ付けた特注の鉄箱)に収めようとした、まさにその時だった。


コン、コン、コン。


分厚い木の扉が、外から重々しく、しかし一定のリズムで控えめにノックされた。


「……ん? こんな夜更けに誰だ?」


ロッツが首を傾げ、即座に大剣の柄に手をかけた。スラムの夜は危険だ。パンデミックの英雄として顔が売れているとはいえ、莫大な金が動いている薬局を狙う強盗が来ないとも限らない。


「お姉ちゃん、あたしが見てくるね」

「待って、シエナちゃん。ロッツ、あんたが開けなさい。警戒は怠らないようにね」

「おう」


ロッツが抜き身の大剣を片手に持ち、もう片方の手で慎重に扉のカンヌキを外して、少しだけ隙間を開けた。


「……もう営業時間は終わってるぜ。薬が欲しいなら明日の朝、出直してきな」

「夜分遅くに申し訳ない。ここは、巷で『奇跡の薬師』と噂される、サキ先生の店で間違いないだろうか」


扉の隙間から聞こえてきたのは、ひどく落ち着いた、しかしどこか切羽詰まったような初老の男の声だった。

ロッツが私を振り返る。私がコクリと頷くと、彼は扉を大きく開け放った。


そこに立っていたのは、全身をすっぽりと黒いマントで覆った大柄な男だった。

フードを目深に被っているため顔はよく見えないが、隙間から覗く顎のラインには無数の傷跡があり、歴戦の戦士であることを物語っている。

そして何より、彼の所作にはスラムの住人や荒くれ者の冒険者にはない、洗練された『品格』のようなものがあった。マントの下からわずかに覗く手には、剣を長年握り込んできた分厚い剣ダコがある。


(……只者じゃないわね。それに、この時間帯にコソコソと。訳ありの患者かしら)


「私が店主のサキよ。奇跡なんて起こせないけど、薬師であることは間違いないわ。あんた、こんな夜更けに何のご用? 急患なら診てあげるけど、時間外の特別割増料金をいただくわよ」


私がカウンターから声をかけると、男はスッと店内に入り、背後の扉を静かに閉めた。

そして、バサリとマントのフードを下ろした。


現れたのは、ロマンスグレーの髪をオールバックに撫で付けた、初老の壮健な男だった。鋭い鷹のような目つきだが、今はその瞳の奥に深い疲労と焦燥の色が濃く滲んでいる。

男は私の前に進み出ると、右手を左胸に当て、深く、美しい所作で一礼をした。


「突然の訪問、平にご容赦いただきたい。私の名はヴァン。……この辺境の地を治める、辺境伯領主ユーリス様の側近を務める騎士である」

「「「えっ!?」」」


ヴァンの名乗りに、ロッツとシエナちゃんが息を呑み、メイラでさえ目を丸くした。


「りょ、領主様の側近!? き、貴族様のお使いが、なんでこんなスラムの薬屋に……!」


ロッツが慌てて大剣を後ろに隠し、直立不動になる。スラムの住人や傭兵にとって、領主や貴族というのは文字通り「生殺与奪の権を握る雲の上の存在」だ。無礼を働けば、その場で首を刎ねられても文句は言えない。

メイラも私の耳元に顔を寄せ、小声で囁いた。


「サキ先生、貴族に関わるのは面倒です。彼らはプライドが高く、理不尽な要求を平気で押し付けてきます。適当な理由をつけて追い返すべきかと」

「まあ待ちなさいって」


周囲が『貴族』という言葉に震え上がる中、ただ一人、私の頭の中だけは全く別のベクトルで猛烈に回転し始めていた。


(領主の側近。つまり、超特大のVIP。これは……最高のビジネスチャンス到来じゃないの!)


私は動揺を一切顔に出さず、むしろ普段よりも堂々とした態度で腕を組み、ヴァンに向き直った。


「辺境伯様のお使いが、こんな夜更けに私に何の用かしら? 寄付金のお願いなら、神殿にでも行ってちょうだい」

「……不躾な振る舞いは百も承知。しかし、事態は一刻を争うのだ。サキ先生、あなたに『極秘の往診』をお願いしたい」


ヴァンは苦渋に満ちた顔で、さらに頭を深く下げた。


「我が主君、若き辺境伯ユーリス様が、数週間前から原因不明の奇病に倒れられた。最初は軽い胃痛と頭痛だったのだが、次第に悪化し、今はベッドから起き上がることもできず、激しい苦痛にうなされておいでだ」

「奇病ね。神殿の神官様は呼んでないの? あいつらの大好きな回復魔法の出番じゃない」


私がチクリと皮肉を言うと、ヴァンは悔しそうに拳を握りしめた。


「無論、神殿の最高位の神官を呼び、莫大な寄付金を積んで神聖魔法による治癒を試みた。薬師ギルドの特級ポーションも、すべて試した。……だが、魔法をかけたその一瞬は痛みが引くものの、数時間後には再び、いや、以前よりも酷い苦痛が主君を襲うのだ。神官たちは『これは非常に強力な悪霊の呪いだ』と言い残し、お手上げ状態。薬師ギルドの連中も匙を投げた」


ヴァンの言葉を聞いて、私は内心で(やっぱりね)とため息をついた。

スラムのパンデミックの時と全く同じだ。

この世界の医療は、「症状を魔力で一時的に抑え込む」ことしかできない。根本的な病因――細菌、ウイルス、寄生虫、あるいは毒物――を物理的に排除しない限り、病が治ることはないのだ。それどころか、魔法による中途半端な細胞の活性化が、かえって病原菌や毒の巡りを早めてしまうことすらある。


「……我が主君は、まだ二十代の若さ。先代が急逝され、領地経営の重圧を一人で背負ってこられた。その真面目な性格ゆえ、日夜激務に追われていた矢先の凶事。このままでは、遠からず命を落としてしまわれる。それだけは、何としても避けねばならんのだ」


ヴァンは真っ直ぐに私を見据え、懇願するように言った。


「そんな折、スラムで恐るべき奇病の蔓延をたった一晩で鎮圧した、魔法を使わぬ『奇跡の薬師』の噂を耳にした。神聖魔法でも治せぬ病を、独自の秘術で治してしまうと。……サキ先生。どうか、あなたのその力で、我が主君を救っていただけないだろうか!」

「なるほどね。事情はだいたいわかったわ」


私はゆっくりと頷き、カウンターの奥から羊皮紙と羽ペンを取り出した。


「お受けしましょう。私は命を救う薬剤師よ。患者がどこで苦しんでいようと、助けを求められれば見捨てることはしないわ」

「おお……! 感謝する、サキ先生! そう言っていただけると信じていた!」


ヴァンがパァッと顔を輝かせ、安堵の息を漏らす。

しかし、私の言葉はそこで終わりではなかった。


「ただし」


私がスッと冷たい視線を向けると、その場にいる全員がビクッと肩を震わせた。


「命は平等に救うのが私のモットーだけど、あんたたちは平民じゃないわ。領主という、莫大な富と権力を握った支配階級よ。当然、それ相応の『特別料金』をいただくわよ」


私は羽ペンを走らせ、次々と金額を書き出していった。


「いいこと、ヴァンさん? まず、この依頼は『極秘』なのよね。つまり、私が屋敷に出入りしたことも、辺境伯様の病状も、絶対に外部に漏らしてはならない。となれば、私の身の安全を保障するための【特別秘密保持契約費】が必要になるわ」

「ひ、秘密保持……? ま、まあ、それは理解できる」

「次に、今は深夜よ。通常なら私がフカフカのベッドで熟睡している時間。それを叩き起こして屋敷まで出向くんだから、【深夜割増往診料】は通常の三倍。さらに、神殿の高位魔法でも治せないような難病を、私の専門知識と特殊なカガクで治療するんだから、【高度技術料】と【新薬のライセンス料】が上乗せされるわ」


私はスラスラと流れるように説明しながら、羊皮紙の一番下に『合計金額』を書き込み、ヴァンの目の前にバンッと叩きつけた。


「以上をすべてひっくるめて……今回の往診と治療の基本パック。しめて、金貨百枚(約一千万円)からスタートよ。症状が重くて特殊な薬が必要になれば、追加で実費を請求するからそのつもりでね」

「「「き、金貨百まァァァァァァいッ!?」」」


ヴァンだけでなく、背後で聞いていたロッツとシエナちゃんまでが、目を剥いて絶叫した。

金貨百枚といえば、貴族にとってもポンと出せるような額ではない。小規模な村なら丸ごと一つ買えてしまうほどの、まさに法外なボッタクリ価格だ。


「ぼ、ボス! いくらなんでも相手は領主様だぞ! そんなふっかけ方したら、不敬罪で首を刎ねられるかもしれねえ!」

「サキ先生、さすがにそれは……。いくら何でも強欲が過ぎます!」


ロッツとメイラが慌てて私を止めようとするが、私は平然としてヴァンの目を見つめ返した。


「払えないかしら? だったら帰ってもらって結構よ。私は自分の技術の価値を正当に見積もってるだけ。領主様の命の値段が金貨百枚より安いって言うなら、そのままお屋敷で悪霊の呪いとやらに怯えて死を待てばいいわ」


静まり返る店内。

ヴァンは羊皮紙に書かれた恐ろしい数字を見つめ、ワナワナと拳を震わせていた。

貴族の威信を懸けて激怒するか。それとも剣を抜いて私を脅すか。

数秒の沈黙の後、ヴァンは――。


「……わかった。その条件、呑もう」

「えっ?」


ロッツが素っ頓狂な声を上げる。


「主君の命が助かるのであれば、金貨百枚だろうが千枚だろうが安いものだ。幸い、領地経営は健全で資金はある。……サキ先生。必ず、必ずユーリス様を救っていただきたい!」


ヴァンは、懐からずっしりと重い皮袋を取り出し、カウンターの上に置いた。

チャリン、という鈍い音がする。


「前金として、金貨五十枚だ。残りは、治療が成功した暁に必ずお支払いする。……これで、契約成立とさせていただきたい」

「あら、素晴らしい即決ね。話の分かるお客様は大好きよ」


私は極上の営業スマイルを浮かべ、前金の入った皮袋を手元に引き寄せた。

貴族という巨大なATMパトロンの暗証番号を、見事に突破した瞬間である。


「ロッツ! 往診の準備よ。一番大きくて頑丈なカバンに、包帯、メス、特製エタノール、それに各種の薬草ペーストと解毒用の吸着剤をありったけ詰め込みなさい! あんたも護衛としてついてくるのよ!」

「お、おう! まさか俺まで貴族の館に入れるなんて……緊張で腹が痛くなってきたぜ……」

「腹痛の薬なら売るほどあるわよ。メイラ! あんたは店で留守番! シエナちゃんと一緒に、明日の患者用の薬を仕込んでおくこと! 何かあったらカルラ商会に連絡しなさい!」

「承知いたしました、サキ工場長。ご武運を」


私は白衣のポケットにいくつかの一番よく使う薬の小瓶を突っ込み、往診用のカバンを担いだロッツと共に、ヴァンの後を追って店の外に出た。

そこには、闇に紛れるように真っ黒に塗られた、紋章のない馬車が待機していた。


「さあ、乗ってくれ。ユーリス様が待っておられる」

「ええ。サキ薬局・深夜の特別出張サービス、開始よ」


私は馬車に乗り込み、スラムの泥道を抜けて、丘の上にある貴族街へと向けて出発した。

この時の私は、これから対面する若き辺境伯が、暗殺の危機や重病よりも、もっと深刻で、かつ「悲惨な悩み」を抱えていることなど知る由もなかった。

そして、その悩みが、私にとってさらなる莫大な利益(育毛ビジネス)をもたらすことになるということも。


揺れる馬車の中で、私は脳内の【成分鑑定】スキルをいつでもフル稼働できるよう、静かに意識を研ぎ澄ませていた。

相手が病原菌であれ、致死性の毒物であれ。

私の現代薬学ロジックの前には、すべての病理が白日の下に晒されるのだ。

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