第18話「サキ薬局、緊急対策本部。」
サキ薬局の分厚い木製の扉が、けたたましい音を立てて蹴り開けられた。
夕闇が迫るスラムから帰還した私は、息つく暇もなく店内に飛び込んだ。後ろからは、往診用の巨大なカバンを担いだ巨漢の獣人ロッツと、涙目で震えているシエナちゃんが転がり込んでくる。
「サ、サキ先生!? どうなさいましたか、そんなに慌てて!」
クリーンルームでフラスコの下に青白い炎(魔法のガスバーナー)を灯し、大人しくビタミン抽出作業を続けていたエルフの魔法使いメイラが、私たちの異様な剣幕に目を丸くして飛び出してきた。
「メイラ、今すぐその抽出作業をストップして! フラスコの中身は全部捨てていいわ。それから、店の奥にある在庫の樽を全部空にして、あんたの魔法で超純水を限界まで満たしなさい!」
「えっ……? す、捨てる!? あんなに苦労して温度管理をしたのにですか!?」
「いいからやりなさい! 一秒の遅れが何十人もの命取りになるのよ!」
私のただならぬ怒号に、メイラはビクッと肩を震わせ、慌てて奥の作業場へと駆け込んでいった。
私はカウンターの上に、スラムの惨状を書き込んだ疫学調査の地図をバサリと広げた。赤い点が密集している南区画。悪徳商人がばら撒いた「腐った魔物肉」による、サルモネラ菌、あるいは腸管出血性大腸菌に類似した強力な病原菌の集団食中毒。
「……現状で倒れている患者数は、ざっと見積もっても百人以上。潜伏期間を考えれば、明日には三百人、明後日には五百人を超える可能性が高いわ」
私は炭のペンを握りしめ、地図の余白に凄まじい勢いで計算式を書き殴っていった。
この規模のパンデミックを鎮圧するためには、何が必要か。
まず第一に、脱水症状を防ぎ、体力を維持するための『特製経口補水液(ORS)』。一人当たり最低でも一日に二リットルから三リットルは必要だ。五百人分となれば、一日一千五百リットル。とてつもない量の真水と、塩、砂糖が必要になる。
第二に、原因菌そのものを死滅させるための『抗菌薬(抗生物質もどき)』。私が青カビや特定の植物から抽出している成分だが、これも現在の在庫では数十人分しかない。
そして第三に、感染拡大を防ぐための『隔離』と『消毒(公衆衛生の徹底)』。
(……無理ね。今のサキ薬局のキャパシティじゃ、絶対に足りない)
私はペンを置き、ギリッと奥歯を噛み締めた。
私とロッツ、シエナちゃん、それにメイラを加えた四人。どう足掻いても、一日に生産・投与できる薬の量には限界がある。前世のブラック企業で学んだ「根性で残業すればなんとかなる」という精神論が通用するフェーズではない。物理的なリソースが、圧倒的に、絶望的に足りていないのだ。
「ボス……俺たちはどうすればいい。あのままスラムの連中を見殺しにするなんて、俺は嫌だぜ」
「お姉ちゃん……っ、孤児院のみんなを、助けて……」
ロッツが悲痛な声を上げ、シエナちゃんが私の白衣を力強く握りしめる。
私は二人の顔を交互に見つめ、フッと、いつものような不敵な笑みを口元に浮かべた。
「見殺しになんかするもんですか。命は平等よ。それに、私のテリトリーで勝手に菌をばら撒く悪徳業者を許すほど、私はお人好しじゃないわ」
私はカウンターをドンッと叩き、かつてないほど鋭く、大きな声で指示を飛ばした。
「今から、サキ薬局を『奇病鎮圧のための緊急対策本部』とするわ! ロッツ! あんたは今すぐ冒険者ギルドに走って、あの筋肉ダルマのバドさんを呼んできなさい! できるだけ腕っぷしが強くて、私に恩を感じてる冒険者を全員引き連れてくるように伝えて!」
「お、おう! わかった!」
「シエナちゃん! あんたはカルラ商会へ走って! 豪商カルラ社長を、何がなんでもここに連れてきなさい! 寝てようが風呂に入ってようが叩き起こして引きずってくるのよ!」
「うんっ! 行ってくる!」
ロッツとシエナちゃんが、弾かれたように夜の街へと飛び出していく。
私は店内に残り、残されたわずかな時間で「生産プラントの設計図」と「必要物資のリスト」を猛烈なスピードで羊皮紙に書き出していった。
神殿の神官たちは魔法の力で奇跡を起こそうとし、結果として失敗した。
ならば私は、組織力と財力、そして現代医療のロジックという『カガクの暴力』で、この目に見えない脅威を徹底的に蹂躙してやる。
* * *
一時間後。
すっかり日が落ちて暗くなったサキ薬局の店内に、この街を動かす強烈な個性の面々が一堂に会していた。
「全く……。夜の商談の真っ最中だったんだぞ。シエナが泣きついてきたから何事かと思って来てみれば……。一体何の騒ぎだ、サキ」
不機嫌そうに葉巻をふかしながら現れたのは、ドワーフの豪商カルラだった。背後にはいかつい護衛たちが数人控えている。
「へへっ、サキ先生の呼び出しとあっちゃあ、這ってでも駆けつけるぜ! で、誰をぶっ飛ばせばいいんだ!? 薬師ギルドの残党か!?」
巨大な戦斧を肩に担ぎ、汗だくで飛び込んできたのは筋肉ダルマのベテラン冒険者、バドだ。彼だけでなく、背後には「サキ先生に命を救われた」と豪語する、完全武装した屈強な冒険者たちが数十人、殺気を放ってひしめき合っている。
そして、店の奥からは、命じられた通りに巨大な樽に超純水を満たし終え、額の汗を拭いながらエルフの魔法使いメイラが顔を出した。
「サキ先生、ご指示の通り水は用意しましたが……一体、これから何が始まるのですか?」
ドワーフの豪商、ベテラン冒険者の軍団、エルフの高位魔法使い。
普段なら決して交わることのない、財力、武力、魔力。
私は彼らをぐるりと見渡し、カウンターの上に大きく広げた地図を指差した。
「みんな、集まってくれてありがとう。単刀直入に言うわ。今、スラムの南区画を中心に、強力な細菌性のパンデミック(集団食中毒)が爆発的に広がってるわ」
「ぱんでみっく……? 病気の流行か? だからどうした。スラムの連中が病気で死ぬのはいつものことだろう」
カルラが冷たく吐き捨てるが、私はピシャリと言い返した。
「いつものことじゃないわ。今回の病原菌は感染力が桁違いよ。患者の排泄物や吐瀉物から、あっという間に水やハエを介して広がっていく。スラムだけで収まると思う? 放っておけば、数日後には市場の商人たちに感染し、冒険者ギルドに蔓延し、最終的には王都の貴族街まで火の手が回る。この街の経済も、あんたの商売も、完全に機能停止するわよ」
「なっ……!?」
カルラの顔から余裕が消えた。商人にとって、都市機能の停止は文字通りの死活問題だ。
「サ、サキ先生……。まさか、俺たちもその『きん』ってやつに感染して、死んじまうのか……?」
「その前に私が鎮圧するわ。そのために、あんたたち全員の力が必要なのよ」
私は、手に持っていた指示書をバンッとカウンターに叩きつけた。
「これより、サキを総司令官とした『パンデミック鎮圧作戦』を発動するわ。それぞれ、自分の得意分野で死ぬ気で働いてもらうから、覚悟しなさい」
私はまず、豪商カルラの方を真っ直ぐに見据えた。
「カルラ社長。あんたの商会の財力と流通網の全てを、今この瞬間から私のために動かしなさい」
「全てだと? 無茶を言うな! うちの荷馬車と倉庫の枠は、すでに数ヶ月先まで予約で埋まっているんだぞ!」
「予約なんて全部キャンセルよ! あんたに要求するのは三つ。一つ、この街と周辺の都市にある『塩』と『砂糖』を、倉庫が空になるまで買い占めてここに運び込むこと。二つ目、私が指定した抗菌作用のある『青カビ』と『薬草』を、市場の何十倍の値段を出してでもかき集めること。三つ目、大量のガラス瓶と、煮沸用の巨大な鉄鍋をありったけ用意すること!」
私の桁外れの要求に、カルラは葉巻を落としそうになりながら目を剥いた。
「バ、バカな! そんなことをすれば、我が商会の資金繰りが一気に悪化する! 利益はどこから出るんだ! スラムの連中からふんだくれるわけが……!」
「目先の利益にとらわれないで! 考えてもみなさい」
私はカルラの胸ぐらを掴まんばかりに身を乗り出し、彼女の耳元で悪魔のように囁いた。
「神殿の魔法すら効かない絶望的な死の病。それを、カルラ商会が全面的にバックアップしたサキ薬局の『薬』が救うのよ。この街が救われた暁には、カルラ商会の名声は王都の王族にまで轟くわ。その時、私たちの美容液や特効薬を『王室御用達』として独占販売できれば、今回使ったはした金なんて、数日で何百倍にもなって返ってくる。……違うかしら?」
「っ……!!」
カルラの瞳孔が、商人としての極限の興奮でカッと開いた。
リスクとリターンを瞬時に計算したのだろう。彼女はニヤリと、凶悪なまでの野心を剥き出しにした笑みを浮かべた。
「……なるほど。乗ったぞ、サキ。この街の命、カルラ商会の全財産を賭けて買い占めてやろうじゃないか。おいお前ら! 今すぐ全支店に伝令を走らせろ! 王国中の塩と砂糖、指定の薬草を、言い値でかき集めるんだ!」
「は、はいっ!」
護衛たちが血相を変えて飛び出していく。これで、莫大な『物資の兵站』は確保された。
次に私は、呆然としているエルフのメイラへと振り返った。
「メイラ! あんたには、この薬局を『超巨大薬剤プラント』の心臓部として回してもらうわよ!」
「プ、プラント……? 私は何をすれば?」
「カルラが運んでくる塩と砂糖を、あんたの出す超純水に寸分の狂いもなく溶かして、何千リットルもの『経口補水液』を作るの! 同時に、青カビから抗生物質を抽出するためのフラスコを何十個も並べて、それぞれ違う温度の『炎の魔法』で同時に熱し続けるのよ! 限界まで魔力を搾り出しなさい!」
「何千リットル!? な、何十個もの炎の制御!? そ、そんなこと、いくら私でも魔力が尽きて死んでしまいます!」
「死なせないわよ。特製エナジードリンクを樽で用意しておいたわ。これを飲みながら、魔力回路を焼き切る覚悟で徹夜しなさい。魔法がカガクに負けたままじゃ悔しいでしょ? ここがエルフの意地の見せ所よ!」
私の挑発に、メイラのプライドが再びチリッと燃え上がった。
「言われずとも! 私の魔力の底なしの深さ、とくと見せてやりますよ! 炎と水の精霊たちよ、私に力を!!」
メイラが杖を掲げると、店の奥に青白い炎と清浄な水が凄まじい勢いで渦巻き始めた。これで『超効率の生産ライン』も確保された。
最後に残ったのは、戦斧を担いだバドとロッツ、そして血気盛んな冒険者たちだ。
「さあ、バドさん、ロッツ。あんたたちには一番危険で、一番タフな仕事をしてもらうわよ」
「おう! どこの魔物を叩き斬ればいいんだ!」
「剣の出番はないわ。あんたたちの相手は、魔物じゃなくて『無知なスラムの住人たち』よ」
私がそう言うと、バドたちはキョトンとした顔を見合わせた。
「無知な住人……?」
「ええ。パンデミックを止めるには、薬を作るだけじゃダメ。感染を広げないための『絶対的な隔離』と『衛生管理の強制』が必要なの」
私は彼らの前に歩み出て、一人一人の目を真剣に覗き込んだ。
「スラムの連中は衛生観念がないわ。病人が吐いたそばで平気でご飯を食べるし、汚れた手で水を飲む。そんな環境のままじゃ、いくら薬を飲ませても次から次へと感染していくわ。だから、あんたたちの腕力(暴力)が必要なのよ」
「な、なるほど。つまり……」
「スラムの南区画を完全に封鎖しなさい。元気な人間と、発症している人間を物理的に隔離するの。そして、住人たちに『生水を飲むこと』『手を洗わずに食事をすること』を徹底的に禁止して。言うことを聞かない奴がいたら、ぶん殴ってでも止めさせるのよ!」
公衆衛生の概念がない世界で、パンデミックを鎮圧するための最も有効な手段。それは、武力による強権的な封じ込めと、問答無用の衛生ルール強要である。
「さらに、患者から出た排泄物や汚れたシーツは、全部一箇所に集めて火を放ち、徹底的に焼却消毒する。カルラが持ってくる薬と水を、隔離エリアに安全に運搬する。……どう? 魔物と戦うよりよっぽど泥臭くて、感染のリスクもある危険な仕事よ。やれる?」
私の言葉に、冒険者たちは一瞬静まり返った。目に見えない病への根源的な恐怖が、彼らの顔に影を落としている。
だが、バドは戦斧をドォンと床に叩きつけ、ニヤリと獰猛な笑みを浮かべた。
「舐めないでくだせえ、サキ先生。俺たちは、先生の薬に命を救われた冒険者だ。先生がこの街を救うってんなら、喜んでその手足になって、命を張りまさぁ! なぁ野郎ども!!」
「「「おおおおおっっ!! 任せとけサキ先生!!」」」
冒険者たちの怒号が、サキ薬局を震わせた。
これで全てのピースが揃った。
財力、魔力、武力。これまでバラバラだった異世界の強者たちが、私というたった一人の「現代薬剤師」の指揮の下に、一つの巨大な組織として融合したのだ。
「よし! ならばこれより、サキ薬局・緊急対策本部を本格稼働させる!」
私は白衣の裾をバサリと翻し、総司令官として高らかに宣言した。
「ロッツ、バド! 冒険者部隊を率いてスラムの封鎖を開始! シエナちゃんは道案内と情報伝達! メイラはただちに生産プラントをフル稼働! カルラは物資の搬入ルートを死守して!」
「「「了解!!」」」
それぞれの役割を持った仲間たちが、猛烈なスピードで動き出す。
夜の闇に沈むスラム街に、松明の炎が次々と灯っていく。怒声と馬車の車輪の音、そして魔法の光が交錯する。
前近代的な魔の病に対する、現代医療の知識と圧倒的なリソースを動員した大反撃。
「命を救うためなら手段は選ばない」サキ薬局の、不眠不休のデスマーチ(命の量産ライン)が、今ここに火蓋を切ったのであった。




