第17話「スラムに迫る見えない脅威」
サキ薬局の経営は、まさに飛ぶ鳥を落とす勢いだった。
ドワーフの豪商カルラが提供する最高品質の薬草と、強靭な流通ネットワーク。そして、薬師ギルドから寝返った(というか、完全に「カガク」の虜になって社畜化した)エルフの魔法使いメイラによる、超効率的な生産インフラ。
この二つの強力なエンジンを手に入れたことで、私の薬は瞬く間に街中に溢れ、スラムの店舗には連日連夜、銀貨の雨が降り注いでいた。
メイラは今や、美しいエルフのローブを煤で汚しながら、クリーンルームの中で「サキ先生! 次の蒸留工程に入ります! 炎の精霊よ、摂氏八十度をキープしなさい!」と、目を血走らせてフラスコを見つめる立派な工場長へと成長(?)していた。
ロッツは相変わらず用心棒兼・一次処理の粉砕作業(筋トレ)に精を出し、シエナちゃん率いるスラムの子供たちも、安全で割の良い情報収集や軽作業で小銭と温かいご飯を稼いでいる。
誰もが自分の居場所を見つけ、そして私が一番儲かる。完璧なエコシステムだ。
「ふふふ……。このままいけば、来月には王都に二号店を出せるかもしれないわね。目標の『アーリーリタイアして大金持ち』も夢じゃないわ」
私はカウンターの奥で、帳簿にズラリと並んだ黒字の数字を眺めながら、極上の紅茶(カルラからの差し入れ)を傾けていた。
平和だ。ブラック薬局時代には考えられなかった、ストレスフリーでクリエイティブな日々。
だが、医療の世界において「平和」とは、次のパンデミック(感染症爆発)がやってくるまでの、ほんの短いインターバルに過ぎないということを、私はすっかり忘れていたのである。
その日の午後。
サキ薬局の平和な日常は、叩きつけられるように開かれた入り口のドアの音と共に、突如として終わりを告げた。
「お姉ちゃん! サキお姉ちゃん!! 大変だよっ!!」
飛び込んできたのは、いつもの元気な笑顔を完全に失い、顔面を蒼白にさせたシエナちゃんだった。
彼女は息をひどく切らし、私の白衣の袖にすがりついて、ポロポロと大粒の涙をこぼし始めた。
「ど、どうしたのシエナちゃん!? 転んだの? それとも誰かにいじめられた!?」
「違うの! あたしが住んでる孤児院の……スラムのみんなが! 急にバタバタって倒れちゃって! すっごく熱くて、お腹を痛がって、血が混じったお水みたいなウンチが止まらないの!」
「……!」
その瞬間、私の頭の中から「大金持ち」や「王都進出」といった呑気な思考が完全に吹き飛んだ。
代わりに、薬剤師としての冷徹な診断アルゴリズムが、脳内で凄まじい勢いで回り始める。
「シエナちゃん、落ち着いて。倒れたのは何人?」
「わ、わかんない! 孤児院の子供たちだけじゃなくて、周りの家のおじさんやおばさんたちも、あっちこっちで道端で吐いてて……!」
「ロッツ!」
私はカウンターを飛び越え、店の奥で休んでいたロッツを怒鳴りつけた。
「シエナちゃんの案内で、今すぐスラムの奥へ行くわよ! メイラは店番! 患者が来たら、特製エタノールで手を消毒させてから入店させること! いいわね!」
「わ、わかりました! お気をつけて、サキ先生!」
「おう! 行くぞボス!」
私は往診用の巨大なカバン(経口補水液と抗生物質、消毒液が山ほど詰まっている)をロッツに担がせ、シエナちゃんの手を引いて、スラムの深部へと駆け出した。
* * *
シエナちゃんの住むスラムの南区画に足を踏み入れた瞬間、私は思わず鼻と口を布で覆った。
すえたような汚物の匂いと、腐敗臭。そして、あちこちから聞こえてくる、苦痛に満ちたうめき声。
数週間前、私がこの世界に落ちてきてロッツを拾った時のスラムの惨状よりも、遥かに地獄めいた光景が広がっていた。
路地裏のあちこちで、老若男女が腹を抱えてうずくまり、激しく嘔吐している。汚水だまりの横で、ぐったりと意識を失っている者もいた。
「おいおい……なんだこりゃ。まるで戦場じゃねえか」
数々の修羅場を潜り抜けてきたロッツでさえ、目に見えない脅威が街を覆い尽くしている異様な光景に、顔を青ざめさせていた。
「お姉ちゃん、こっち! 孤児院のみんなが!」
シエナちゃんに案内された崩れかけの大きな建物(孤児院)の中には、二十人近い子供たちが、薄汚れた布の上で身をよじって苦しんでいた。
私は一番近くにいた少年の元へ駆け寄り、首筋に手を当てた。
「ひどい熱……。それに、皮膚がカサカサよ。極度の脱水症状を起こしてる」
私は少年の脈を取りながら、傍らに落ちていた吐瀉物と排泄物の痕跡に目を向けた。脳内の【成分鑑定】スキルを、最大限の解像度で発動させる。
【成分鑑定:患者の排泄物および血液】
・状態:重度の炎症性腸疾患。腸管粘膜の破壊による出血。
・主要原因物質:強力な腸管毒を産生するグラム陰性桿菌の大量増殖。
・類似菌:サルモネラ菌、および腸管出血性大腸菌(O157等)の変異種。
・感染力:極めて高い。経口感染。
・致死率:脱水症状を放置した場合、四十八時間以内に多臓器不全により約五十パーセント。
「……最悪ね。ただの風邪や軽い食あたりじゃない。強力な細菌性の『集団食中毒』よ」
私がギリッと奥歯を噛み締めたその時、孤児院の入り口から、純白の法衣を着た神殿の神官が数人、偉そうに乗り込んできた。彼らは、苦しむスラムの住人たちを見下し、しかめっ面で杖を振るっていた。
「悪魔の呪いじゃ! 信心が足りぬ故に、不浄なスラムの住人どもに神の罰が下ったのだ! さあ、神聖魔法の加護を受けたくば、神殿への寄付として銀貨を差し出せ!」
神官の一人が、苦しんでいる老婆の頭に手をかざし、淡い光(回復魔法)を放った。
老婆の顔色が一時的に良くなり、「おお、神よ……痛みが引きました……」と拝むが、その数分後。
「げぇぇぇっ!!」
老婆は再び激しく嘔吐し、先ほどよりも苦しそうに地面をのたうち回り始めたのだ。
「な、なんじゃと!? ワシの神聖魔法を弾き返すとは……! やはりこれは、強力な悪魔の呪い! もっと高位の魔法をかけねば……!」
「あんたたち、いい加減にしなさいよ!!」
私は立ち上がり、神官たちに向かって怒鳴りつけた。
「呪いでも罰でもないわ! さっきから聞いてれば、銀貨銀貨って……あんたたちの魔法じゃ、これは絶対に治せないわよ!」
「な、なんじゃ貴様は! 薬師ギルドを潰したという、異端の小娘か! 神聖魔法で治せぬものが、ただの薬で治せるわけがなかろう!」
「治せないから、今そこで老婆が吐き戻したんでしょ! あんたたちの魔法は、一時的に細胞を活性化させて痛みを誤魔化してるだけ! 腸の中にこびりついて毒素を出し続けてる『原因菌』を殺さない限り、何度魔法をかけたってすぐに再発するのよ! むしろ、魔法で中途半端に回復させることで、菌まで一緒に元気になってるじゃないの!」
私の容赦のない論破に、神官たちは「ば、馬鹿な! 神の奇跡を菌などという得体の知れない言葉で冒涜する気か!」と顔を真っ赤にして激怒した。
「ロッツ! この無能な白服どもをつまみ出して! 治療の邪魔よ!」
「おう! 任せとけ!」
ロッツが二メートルの巨体で一歩前に出ると、神官たちは「ひぃっ! 異端審問にかけてやるからな!」と捨て台詞を吐いて逃げ出していった。
静かになった孤児院の中で、私は大きく深呼吸をした。
感情的になっている場合ではない。パンデミックを鎮圧するには、ロジックとスピードが全てだ。
「いい? 二人とも。これは呪いなんかじゃない。目に見えない小さな虫(細菌)が、住人たちの口の中に入って、お腹の中で暴れ回ってるの」
「虫が……? じゃあ、早く特製エタノールを飲ませて殺さねえと!」
「馬鹿! アルコール度数七十パーセントの液体なんか一気飲みさせたら、菌が死ぬ前に患者が急性アルコール中毒で死ぬわよ! 消化管の粘膜も焼けてボロボロになるわ!」
私はロッツの短絡的な発想を即座に却下し、自分のカバンから紙の束と炭のペンを取り出した。
「菌を殺すための特効薬(抗生物質)と、脱水を防ぐ特製経口補水液は、後でメイラに死ぬほど作らせるわ。でも、それだけじゃダメ。今、スラムで発症している患者を治しても、そもそも彼らが『どこからその菌を体に入れたのか』――つまり『感染源』を特定して絶たない限り、また明日には新しい患者が無限に増え続けるのよ」
私は紙の上に、スラム街の大まかな地図をサラサラと書き始めた。
これは、近代疫学の祖と呼ばれるジョン・スノウが、十九世紀のロンドンでコレラの感染源を特定した時に用いたのと同じ『感染症マッピング』のアプローチだ。
「シエナちゃん、ロッツ! あんたたちにお願いがあるわ」
「俺たちにできることならなんでも言ってくれ!」
「スラム中を走り回って、『誰が』『いつから』『どんな症状で倒れているか』、そして『その人がどこに住んでいるか』を、片っ端から調べてきてちょうだい! 倒れている家には、私が作ったこの赤いチョークでドアに印をつけていくのよ!」
私はロッツとシエナちゃんをスラムに放ち、私自身も孤児院の子供たちの応急処置(経口補水液を無理やり飲ませる)をしながら、発症者のデータを集めて回った。
数時間後。
夕闇が迫るスラムの路地裏で、私たちは集めたデータを地図に書き込んでいた。
「……異常ね。見事なまでの偏りだわ」
地図の上に書き込まれた「赤い点(発症者の家)」は、スラム全体に均等に広がっているわけではなかった。
もし、スラムの住人が共有している『井戸水』が汚染されている水系感染症であれば、その井戸を中心に、円を描くように患者が発生するはずだ。しかし、今回の赤い点は、井戸の場所とは全く関係なく、特定の区画、特定の家々に点在してクラスター(集団)を形成している。
「ボス、こっちは南の端の長屋だ。全滅状態だったぜ。でも、一本隣の路地の家は、誰も腹を下してなかった。どういうことだ?」
「お姉ちゃん、孤児院の隣のおばあちゃんも元気だったよ!」
「……つまり、水や空気からうつったんじゃない。赤い点がついている家の住人だけが、数日前に『ある特定の何か』を口に入れたってことよ」
私は地図を指先でなぞりながら、思考を加速させた。
「シエナちゃん。倒れた孤児院の子供たちと、周りの大人たちが、ここ二、三日の間で『共通して食べたもの』に心当たりはない? それも、普段はあまり食べないような、少し特別なもの」
「ええっ……? みんなで同じもの……?」
シエナちゃんは一生懸命に小さな頭を回転させた。
スラムの住人の食生活は貧しい。毎日のように同じ固いパンや、クズ野菜のスープをすすっているはずだ。突発的に特定の家の人間だけが食べるものといえば……。
「……あ!」
シエナちゃんがハッと顔を上げた。
「お肉! 三日くらい前に、王都の方から来たっていう珍しい商人の人が、スラムの広場で『訳ありの魔物肉』をすっごく安く売ってたの! 孤児院の院長先生も、たまには子供たちに栄養をつけさせようって、無理してお金を出し合って、そのお肉を買ってシチューにして食べたんだよ!」
その言葉を聞いた瞬間、私の中で全てのパズルがピタリとはまった。
赤い点がついている家は、「その安売りの肉を買うことができた、ほんの少しだけ小銭を持っていた家」だ。逆に元気な家は、「その安い肉すら買えなかった最貧困層」なのだ。
なんという皮肉だろうか。たまの贅沢が、彼らを死の淵に追いやってしまったのだ。
「……感染源は特定したわ。『腐った肉』よ。悪徳商人が、保存状態の悪い、あるいは元々病気を持っていた魔物の肉を、処理費用を浮かすためにスラムの住人に二束三文で売りつけたんだわ」
「腐った肉……! じゃあ、あいつらが苦しんでるのは、その肉のせい……!?」
「ええ。肉の内部で増殖した強力なサルモネラ、あるいは病原性大腸菌が原因よ」
私は地図をクシャリと握りつぶし、立ち上がった。
薬剤師としての使命感と、私の大切な「従業員」たちの家族や友人を傷つけられた経営者としての激しい怒りが、腹の底からグツグツと沸き上がってくるのを感じた。
「許せないわね。人の命をゴミ箱代わりにするなんて。医療従事者への最大の冒涜よ」
「サキお姉ちゃん……どうしよう、みんな死んじゃうの……?」
「泣かないでシエナちゃん。私が誰だと思ってるの? 悪霊の呪いなら神殿の仕事だけど、相手が『細菌(物理)』なら、私の独壇場よ」
私は、不安そうに見上げるシエナちゃんと、拳を握りしめているロッツに向かって、力強く宣言した。
「原因菌の目星はついた。感染ルートも特定した。あとは、この街から全ての菌を駆逐するための『物理的な大戦争』を仕掛けるだけよ」
「大戦争……? 相手は見えねえ虫だろ? 俺の剣は届かねえぞ?」
「剣じゃなくて、化学で殴るのよ。ロッツ、シエナちゃん、今すぐ薬局に戻るわよ! 緊急対策本部を立ち上げるわ!」
私はスラムの夕闇に向かって、白衣の裾をバサリと翻した。
「カルラ社長の財力! メイラの魔力! そして私の現代薬学! サキ薬局の全インフラをフル稼働させて、このパンデミックを文字通り『力業』でねじ伏せてやるわ!」
神殿の神官たちが見捨てた、前近代的な異世界のパンデミック。
それを、現代の公衆衛生と薬理学のロジックで正面から叩き潰すための、サキを総司令官とした「奇病鎮圧作戦」が、今まさに幕を開けようとしていた。




