第15話「魔法VS化学式」
サキ薬局の店内は、文字通り一触即発の空気に包まれていた。
薬師ギルドが放った最終兵器、エルフの魔法使いメイラと、私、千川咲による『薬効勝負』。
この突発的なイベントを聞きつけた冒険者やスラムの住人たちが、野次馬となって店の外にまで人垣を作っている。ロッツが入り口に立ち、大剣を杖代わりにして群衆を整理していなければ、店は完全にパンクしていただろう。
「お姉ちゃん、本当に大丈夫なの? あのエルフのお姉さん、すごく強そうな魔法使いだよ……?」
シエナちゃんが私の白衣の裾をギュッと握りしめ、不安そうに見上げてくる。
私は彼女の頭をポンポンと撫で、極上の営業スマイル、いや、余裕に満ちた不敵な笑みを浮かべた。
「心配ないわ。魔法がどれだけ派手だろうと、医療の本質は『ロジック』よ。私が負ける道理はないわ」
勝負の舞台として用意されたのは、店内の受付カウンターの前だ。
都合が良いことに……いや、怪我人にとっては不幸なことだが、ちょうどギルドの裏手から、オークの群れに襲われたという同じパーティーの駆け出し冒険者二人が担ぎ込まれてきた。
双子の兄弟だという彼らは、二人とも右脚の太ももに、鋭い牙で深くえぐられた同程度の裂傷を負っていた。泥と血にまみれ、苦痛に顔を歪めている。比較対象として、これ以上ないほどフェアな条件だった。
「さて、エルフの魔法使いさん。患者は用意されたわ。ルールは簡単、どちらの処置がより『正しく』、そして『完璧』にこの怪我を治癒できるか。それでいいわね?」
「フッ、当然です。結果は火を見るよりも明らかですがね。……では、魔法の至高たる所以、とくとその目に焼き付けなさい」
メイラは優雅な足取りで、兄の方の患者の前に進み出た。
彼女は懐から、先ほど私に見せびらかした『ハイ・ポーション(青)』を取り出し、同時に右手に持った白木の杖を高く掲げた。
「大地のマナよ、清らかなる光よ。我、エルフの理において命ず。その慈愛をもって、この者の傷を癒やし給え……!」
メイラが朗々と呪文を詠唱すると、杖の先端にはめ込まれた宝玉が、眩いほどの青白い光を放ち始めた。
その光は糸のように紡がれ、ハイ・ポーションの液体と共鳴し、患者の右脚の傷口へと注ぎ込まれていく。
それは、確かに『美しい』光景だった。
光が触れた端から、パックリと開いていた太ももの肉が、まるで時間が巻き戻るかのようにウネウネと動き、急激な速度で塞がっていくのだ。千切れた血管が繋がり、筋肉が再生し、最後に皮膚がピタリと癒着する。
時間にして、わずか数十秒。
あとに残されたのは、血の跡こそあるものの、傷一つない綺麗な右脚だった。
「おおおっ……!」
「す、すげえ! さすがエルフの魔法! 一瞬で傷が塞がっちまったぞ!」
「あんな深い傷が跡形もねえ! これが本物の魔法薬か……!」
外から見ていた野次馬の冒険者たちが、どよめきと感嘆の声を上げる。
治療を受けた兄の冒険者も、信じられないといった様子で自分の脚を触り、「い、痛くない! 治ってる!」と歓喜の声を上げた。
メイラは満足げに息を吐き、杖を下ろすと、私に向かって勝ち誇ったような、そしてひどく哀れむような視線を向けてきた。
「見ましたか、人間の小娘。これが我々エルフの魔法と、ハイ・ポーションの力です。細胞を瞬時に活性化させ、傷を物理的かつ魔力的に完全修復する。……さて、次はあなたの番ですよ? その泥臭い草と水で、一体何時間かけて傷を治すおつもりですか?」
周囲の空気が、「これはエルフの圧勝だろう」という雰囲気に包まれる。
ロッツでさえ、額に汗を浮かべて「ぼ、ボス……いくらなんでもあのスピードと再生力はヤバいぜ……」と焦りの声を漏らしていた。
しかし。
私は、一切動じなかった。
それどころか、呆れ果てて深い、深いため息をつき、頭を抱えてしまったのだ。
「……はぁ。本当に、救いようのない馬鹿ね。あんたのそれは『医療』じゃないわ。ただの『臭いものに蓋をするだけの乱暴な工作』よ」
「な……っ!? なにを負け惜しみを!」
メイラが激昂するが、私はそれを無視して、弟の方の患者の前に歩み寄った。
「いい? 野次馬のあんたたちも、よく見て、そしてよく聞きなさい!」
私は、店内だけでなく、外にいる群衆にも響き渡るような大声で宣言した。
「魔法で一瞬で傷が塞がったから凄い? 表面が綺麗になったから治った? 笑わせないで。怪我っていうのはね、肉が切れたことだけが問題じゃないのよ。本当に恐ろしいのは、目に見えない敵――『細菌』なの!」
私は、弟の患者の傷口を指差した。
オークの牙によってえぐられた傷口には、当然泥や汚れ、そして無数の雑菌が付着している。
「あのエルフの魔法は、確かに細胞を無理やり結合させて傷を塞いだわ。でもね、傷口の『洗浄』も『消毒』も一切せずに塞いだのよ。それがどういうことかわかる? ……皮膚の下の、温かくて栄養満点の肉の中に、オークの牙についていた『殺人的な雑菌』を、丸ごと閉じ込めたってことよ!!」
私の言葉に、歓喜に沸いていた野次馬たちが水を打ったように静まり返る。
治療を受けたはずの兄の冒険者の顔色も、サッと青ざめた。
「そ、そんな……。でも、傷は塞がってるし、今は痛くも……」
「今はね。でも、数時間後にはどうなるかしら? 閉じ込められた菌は肉の中で爆発的に繁殖し、腐敗ガスと膿を作り出す。行き場を失った膿は、皮膚の下でパンパンに膨れ上がり、やがて敗血症を引き起こして……あんた、明日の朝には脚が腐って死ぬわよ」
「ヒィッ!?」
「で、でたらめです! 私の清らかな魔力が、そんな不浄なものを許すはずが……!」
「じゃあ、あんたのその『清らかな魔力』とやらは、目に見えないミクロの細菌を一つ残らず殺菌する機能がついてるの? タンパク質を変性させて細胞壁を破壊したって言うの? 言っておくけど、ただ光ってるだけじゃ菌は死なないわよ」
私の専門用語を交えた理詰めの追及に、メイラは言葉に詰まった。
『細菌』という概念を持たない彼女たちにとって、傷の化膿は「悪霊の仕業」や「患者の不摂生」で片付けられてきた。まさか、自分の魔法が化膿の原因を体内に封じ込める行為だとは、思いもよらなかったのだろう。
「さあ、ここからは私のターンよ。本物の『医療』と『化学』を見せてあげる」
私はシエナちゃんから、煮沸済みの真水と、高純度のエタノールが入ったガラス瓶、そして私がクリーンルームで精製した『ある透明な液体』を受け取った。
まずは、弟の傷口を真水で徹底的に洗い流す。泥と血の塊を物理的に排除する、外科処置の基本中の基本だ。
「痛いのはここからよ、頑張りなさい。ロッツ、彼を押さえて!」
「お、おう!」
「いくわよ、特製エタノールによる完全消毒!」
私が度数七十パーセントを超えるエタノールを傷口にドバドバと注ぎ込むと、弟の冒険者は目をひん剥いて「ギャアアアアアアッッッ!!!」と絶叫し、全身の筋肉を痙攣させた。
ロッツの巨体がなければ、間違いなく暴れ回っていただろう。
野次馬たちがその凄惨な光景に息を呑むが、私は手を止めない。アルコールが細胞膜を破壊し、傷口に付着していた細菌を文字通り『皆殺し』にしていく。
「な、なんて野蛮な! 患者にそこまでの苦痛を強いるなど、拷問と変わりません! やはりあなたのやっていることはただの……!」
メイラが叫ぶが、私はニヤリと不敵な笑みを浮かべた。
「拷問? 違うわ、これが『菌が死滅している証拠』よ。でも、ただ痛いだけじゃあんたの魔法の派手さには勝てないわね。だから、私が使う『カガク』っていうのが、ただの泥遊びじゃないってことを、視覚的に証明してあげるわ」
私はエタノールが揮発するのを待ち、シエナちゃんから受け取った『透明な液体』が入ったガラス瓶を高く掲げた。
「いい? みんな、この透明な水から目を離さないでね。これは私が、ある鉱物から特殊な手順で抽出した『アルカリ性』の試薬よ」
次に私は、別の小瓶から『赤い液体』を取り出した。これは、酸食草(ビタミンCを豊富に含む野草)の成分を極限まで濃縮した『酸性』の溶液だ。
「目に見えない成分や細菌を、魔法使いは『存在しない』と言う。でも、化学のロジックを通せば、見えないものは確実に見えるようになるの。……ほら!」
私は、透明なアルカリ性の液体の中に、赤い酸性の溶液を一滴、ポタッと垂らした。
その瞬間。
透明だった液体が、まるで魔法をかけられたかのように、一瞬にして鮮やかな『青紫色』へと変色したのだ。
「「「おおおおおっ!?」」」
群衆から、メイラの魔法を見た時と同じ、いや、それ以上の驚嘆の声が上がった。
シエナちゃんが「お姉ちゃん、すごい! 色が変わった!」と跳ね回り、ロッツも目を丸くしている。
「な、なんだそれは……!? 魔力も使わずに、ただの水を一瞬で別の色に変えただと……!?」
メイラは、信じられないものを見るように、ブルブルと震える指でその青紫色の瓶を指差した。
エルフの長い寿命をもってしても、このような現象は見たことがなかったのだろう。彼女の目には、これが未知の恐ろしい秘術に映っているはずだ。
「ふふん、これが『中和反応』っていう化学の基本よ。アルカリと酸が結びついて、別の物質に変化した証拠。魔法なんて使わなくても、物質の『成分』を理解し、正しい手順で組み合わせれば、世界は意のままに姿を変えるのよ」
私は青紫色に変色した液体(実際にはただの色水で、傷の治療に直接使うものではないが、デモンストレーションとしては満点だ)を見せつけた後、本命の処置に取り掛かった。
傷口の細菌をエタノールで完全に死滅させた後、私は清潔な針と糸(これも煮沸消毒済みだ)を取り出し、弟の裂傷を素早い手つきで縫合していく。
ブラック薬局時代、時には救急対応の手伝い(もちろん薬剤師の範疇を超えることは避けたが、知識としての外科的処置は熟知している)で鍛えた手つきだ。肉と肉を正確に寄せ合わせ、化膿の原因となる隙間を作らないように丁寧に縫い合わせる。
「……よし。縫合完了。最後に、この『特製・青カビペースト(抗生物質入り軟膏)』をたっぷり塗って、清潔な包帯で巻けば終わりよ」
一連の処置を終え、私は額の汗を拭った。
時間はかかった。見た目も、メイラの魔法のように一瞬で傷が消えるわけではなく、生々しい縫い目と包帯が残っている。
しかし、アルコールの激痛を乗り越えた弟の冒険者は、荒い息を吐きながらも、どこかホッとしたような表情を浮かべていた。
「……すげえ。あんなに痛かったのに……今は、傷口の奥の嫌な熱っぽさが、スゥッと引いてる。それに、しっかり縫い合わせてもらって、足に力が入る……!」
「当然よ。原因である菌を完全に排除して、自然治癒力を最大限に引き出す環境を整えたんだから。二、三日安静にしてれば、抜糸できるわ」
私は彼に微笑みかけ、そして、凍りついたように立ち尽くしているメイラへと視線を移した。
「さて。これであんたと私の処置は終わったわ。見た目の派手さはあんたの勝ち。でも、医療としての正解は……」
私が言い終わるより早く。
ドサッ、と。
メイラの治療を受けたはずの兄の冒険者が、突然、苦悶の声を上げてその場に崩れ落ちたのだ。
「あ、兄貴!? どうしたんだ!」
「い、痛ぇ……! さっき治ったはずの脚が、中から焼けるように痛い! なんだこれ、熱い、熱いィィッ!!」
兄は、傷が塞がったはずの右脚の太ももを抱え込み、脂汗を流して床を転げ回り始めた。
見れば、傷跡のない綺麗なはずの太ももが、異常なほどパンパンに腫れ上がり、ドス黒い赤紫色に変色している。
私が予言した通りの事態。
皮下に閉じ込められたオークの牙の細菌が、逃げ場を失った状態で爆発的に増殖し、急速な化膿と内部からの組織破壊(ガス壊疽の初期症状)を引き起こしたのだ。
「そ、そんな……!? 傷は完璧に塞いだはずです! なぜ、なぜこんなことに……! 私の魔力に不備などなかったはず……!」
メイラは完全にパニックに陥り、杖を握る手を震わせていた。
数百年間、彼女が信じて疑わなかった『魔法こそが絶対の力であり、万能の治癒である』という常識が、たった一人の人間の小娘が突きつけた『細菌』という見えないロジックの前に、音を立てて崩れ去った瞬間だった。
「だから言ったでしょ。臭いものに蓋をしただけだって」
私はため息をつき、すぐにシエナちゃんにメス(ナイフ)とエタノールを持ってくるように指示した。
「ロッツ! 兄貴の方も押さえて! 今すぐ切開して、中に溜まってる膿とガスを抜いて消毒しないと、本当に脚が腐り落ちるわよ!」
「お、おう! 任せとけ!」
「エルフのお姉さん! 邪魔だからそこどいて! あんたのプライドのお遊戯に付き合ってる暇はないの。私は薬剤師よ、目の前の患者の命を救うのが最優先なんだから!」
私の鋭い怒号に、メイラはビクッと肩を震わせ、よろけるように後ずさった。
その瞳には、かつての傲慢な光は微塵も残っていない。あるのは、自分が絶対だと信じていた魔法が、私の『化学式』と『薬理学』の前に完全敗北したという、絶望的な現実への理解だけだった。
私は手際よく兄の太ももを切開し、噴き出す膿と悪臭を放つガスを排除する。そして、弟と同じようにエタノールで傷口の奥深くまで徹底的に消毒し、青カビペーストを大量に流し込んで縫合した。
地獄の激痛に二度も悶え苦しんだ兄だったが、処置が終わると、弟と同じように「内部からの不気味な熱と痛みが消えた」と涙ながらに感謝の言葉を口にした。
「……ふぅ。これでよし。追加の治療費、銀貨五枚は後できっちりもらうわよ」
私は血と膿で汚れた手を真水で洗い流し、改めてメイラの前に立った。
「勝負はついたわね。見た目の美しさじゃなく、結果としてどちらが患者を救ったか。野次馬のあんたたちが見ても明らかでしょ?」
「「「う、おおおおおおっっ!!」」」
群衆から、割れんばかりの歓声と拍手が巻き起こった。
「サキ先生、すげえ!」「魔法に勝ったぞ!」「あの色が変わる水、俺も欲しい!」
彼らにとって、魔法使いというのは畏怖の対象であり、逆らえない権威だった。その権威を、スラムの路地裏で商売をする小娘が、見たこともない知識で真っ向から論破し、屈服させたのだ。これほど痛快なエンターテインメントはない。
メイラは、膝から崩れ落ちるようにその場にへたり込み、両手で顔を覆った。
「私の……数百年の研鑽が……。至高の芸術が……ただの、細菌を閉じ込めるだけの欠陥品だったなんて……」
プライドの塊だったエルフの目から、ポロポロと悔し涙がこぼれ落ちる。
私は、そんな彼女を見下ろしながら、フッと意地悪な笑みを浮かべた。
「泣くのは後になさい。約束は覚えてるわよね?」
「え……?」
「私が勝ったら、あんたのその無駄に高いプライドと魔力、うちの店のためにタダ働きで提供してもらうって約束。忘れたとは言わせないわよ」
私は、呆然とするメイラに手を差し伸べた。
「あんたの魔法は、医療としては落第点だけど……その『温度調整が完璧な炎を出す魔力』と、『不純物のない純水を精製する魔力』は、化学実験(薬の大量生産)において喉から手が出るほど欲しい超優秀なインフラなのよ」
「ほ、炎と純水……? それは、魔法の基礎中の基礎……そんな下等な魔力で、一体何を……」
「これから教えてあげるわ。カガクの深淵と、労働の尊さをね」
私のその悪魔のような笑顔を見た瞬間、メイラの背筋にゾクッと冷たいものが走ったに違いない。
薬師ギルドが放った最終兵器、エルフの魔法使いメイラ。
彼女は私を潰すどころか、私の理詰めのロジックに完全論破され、結果としてサキ薬局の生産ラインにおける『音声認識付き・超精密ガスバーナー兼、純水器』として、身を粉にして働く(社畜化される)運命を辿ることになるのだった。
サキ薬局の設備投資は、これで完璧に整った。
豪商カルラによる流通と材料。エルフのメイラによる無尽蔵の熱源と純水。ロッツの物理的粉砕力と、シエナちゃんの情報網。
役者はすべて揃った。いよいよ、王国全土の富を根こそぎ奪い取る、私の真の快進撃が始まろうとしていた。




